天聖経: 第134話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第五篇 真の家庭
第三章 家庭の法度と秩序
第一節 家庭の法度と「家和万事成」11-22
11 心から自分を愛してくれる人が、自分のために百万ウォンを貸してくれたというとき、その百万ウォンから少し減らして九十万ウォンだけ返そうという人はいないというのです。その何倍も返したいと思うのが本心です。これはどういうことでしょうか。愛の本性が連結された作用においては、入力よりも出力が大きいということです。そのような論理が形成されます。
「家和万事成(いえわしてばんじな」といいますが、家庭が和合するためには、運動しなければなりません。運動すれば、力の理屈からすると小さくなるはずですが、和合すればどうして万事が思いどおりになるのでしょうか。愛を中心とすると、和合すれば和合するほど、投入すれば投入するほど、小さくなるのではなく大きくなるのです。
12 「家和万事成」という言葉で、和を成し遂げようとすれば、忍耐しなければなりません。たくさんの困難を経験しなければならないというのです。困難にぶつかる人が中心者になり、責任者になります。真の男性は変わらず、真の女性も変わりません。真の愛を中心として絶対的に変わらない男性と絶対的に変わらない女性が現れたとすれば、宇宙全体がその前にひざまずくようになります。
13 「家和万事成」というとき、金塊を中心として喜んだからといって、「家和万事成」が成就されますか。それを分けずに互いに見ているときには「家和万事成」になりますが、分け合おうとするときには争いが起こるのです。しかし、愛をもって分けようとするときには、分ければ分けるほど「万事成」が起こるのです。お金をもって分けるときには、分ければ分けるほど分裂が起きますが、愛をもって分ければ分けるほど統一が起き、和合が起き、平和が宿るのです。愛をもって「家和万事成」です。父が母を愛し、母が父を愛し、父母が子女を愛し、子女が父母を愛し、愛の交流で和合することによって、「万事成」になるのです。
14 生命の世界と死亡の世界を見れば、死亡の起源はサタンであり、生命の起源は神様です。神様を中心として見てみるときに、サタンの世界は反対になる世界です。サタン世界の家庭が平和な家庭ですか、不和な家庭ですか。不和によって出発したので、どこに行っても不和な家庭です。不和な家庭によって始まり、不和な家庭によって成り立った世界は、天の世界ではありません。
15 「家和万事成」とは、よく言ったものです。もし夫が妻と家で争ったあとに職場に行けば、その夫は職場でも争わざるを得ないことが起こります。鬱憤を晴らすようなことが起きるのです。ある社長が家で自分の妻と争って会社に出てきたとすれば、彼が社員や部長たちを見るとき、気持ちが良くありません。家庭で気分が悪かったことは、必ず社会で繁殖するようになるのです。
16 一番耐え難いこととは何でしょうか。愛し合う人同士、互いに恨が積もることです。これ以上に耐え難いことはありません。アダム家庭から不和の種が蒔かれることによって始まった家庭は、偽りの父母によって始まったので、不和が宿っている家庭はサタン世界の家庭であり、平和が宿り和合が宿っている家庭は天の世界の家庭です。このように反対だというのです。
不和の固まりの家庭がサタン世界の中心になります。サタン世界の中心とは何かというと、悪です。不和の固まりは毎日のように争うのです。このような家庭を中心として見ると、父母が互いに相入れません。夫婦同士、互いに相入れないというのです。
17 息子、娘から一生の間、「私たちの父母はけんかした」という声を聞かないようにしなければなりません。「私たちの父母はよくけんかした」という話を聞けば、いくらうまくやっても地獄に行くのです。息子、娘が、「私たちの父は神様の代身だ。私たちの家の神様だ。私たちの父は私たちの家の大統領だ。私たちの父は私たちの家の聖人だ。私たちの母もそうだ」と言わなければなりません。
昔、聖人たちは、「家和万事成」と言いましたが、統一教会で主張するのは、「天和」です。天宙を中心として天と和合しなさいというのです。「天和万事成」です。
18 「家和万事成」といいますが、聖書にも「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ五:九)とあります。平和をつくって一つにできる人が、神様の息子になるというのです。この世の中で、平和の使者となり、戦いの壁を崩し、統一の起源を備えて一つの主人に向かっていこうという運動があるとすれば、神様が関心をもつのです。
神様は平和の王であり、平和の主人なので、平和の心をもった人を見つめています。神様は忍耐の神様です。数千数万年の歴史時代において、悲しい事情に独りでぶつかり、苦痛の道を独りで歩みました。困難なところを独りで克服されましたが、誇ろうとせず、認められることを願わず、独りで耐えてきた立場にいらっしゃいます。そのような主人の前に、そのようにできる道を堂々と行こうと思う人がいるとすれば、神様はそのような人に関心をもたざるを得ません。
19 「家和万事成」という昔の言葉がありますが、「自和」ができずに「家和」になるでしょうか。「家和万事成」をする前に、自分が死にそうな境地にいるのに、「家和」になるでしょうか。初めから人間が「自和」でないのであれば、神様は存在しません。人間が誤ったために、今日まで唯物論のような思想が発展してきたのです。
絶対者が構想されたその目的は、絶対に二つにはなり得ません。一つにならなければなりません。しかし、人間は未完成品です。人間はいまだに未完成品として存在しているので、絶対者は再創造という力を加えて完成品にしようとされるのです。それで神様は歴史過程を通して、人間を完成品にし得る工場に投入されるのです。ですから、人間が願わなくても新しい作用体が歴史路程に現れなければならないのですが、それが正に宗教団体なのです。
20 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのが、先生が原理の道を開拓していたときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言ったのです。
主人になることができ、師になることができ、父母になることができる心に、「私」の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。心は体のために生きたいと思いますが、体は心のために生きません。これが問題なのです。
21 問題は自分自身にあるのであって、社会にあるのではありません。私たちの家に問題があれば、兄が悪く、姉が悪く、父が悪いのではなく、自分が悪いからです。自らを正しく立ててから、人を批判する第二、第三の基準を立てなさいというのです。自分が一つになってこそ、堂々と一つになった世界で暮らせるのであって、自分が一つになることができなかったのに、全体が一つになったところにどうやって加わりますか。自動的に後退するようになります。
ですから、心を踏みにじり、心を無視し、心を疲れさせて、気をもませる体が主人になってはいけません。体を主管して心のように大切にできる「私」になったときには幸福が訪れます。ここに神様が臨在するというのです。それで「家和万事成(いえわしてばんじな」といいました。私の家、私の個人が安らかになるには、心と体が一つにならなければならないのです。
22 宇宙は円形に似ています。太陽系だけでも、九個の惑星が球形に沿って回ります。太陽系のようなものが一千億個あるという大宇宙も丸いというのです。それで、「円満に生きる」という言葉も使います。「家和万事成」といいましたが、円満に和合しなければなりません。祖父母だけが和合するのではありません。祖父と孫が和合しなければならず、息子と父母が和合しなければならず、夫と妻が和合しなければならず、すべて和合しなければなりません。そのようになれば、「万事成」、すべてのことが成し遂げられるのです。円満になって球形ができなければならないというのです。円満な人でなければならないのであって、とがった人は問題が起こります。それは、宇宙が運動をするからです。