天聖経: 第112話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第四篇 真の人間

第四章 真の人間が行くべき生涯路程 14-15

第四節 真の愛の人生の道 1-11

第四節 真の愛の人生の道

 

1 人間は、神様の息子、娘になるのが最高の願いです。なぜなら、父母と一番近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が集中した場、父母の理想を身代わりした場に生まれました。

愛や理想という言葉は、一人に対して語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるのではなく、連結された立場から出てくるのです。そのため、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と生命、そして理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命、そして理想は、自分と共に関係しているのです。「私」は父母の愛と生命、そして理想の結実体です。ですから、息子の位置は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係なのです。

 

真の父母と夫婦の道

2 神様の息子の特権とは、その方が自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだということです。神様の愛と生命と理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。したがって、神様が主体的な真の愛で永生されるならば、その真の愛の相対も永生しなければなりません。

神様の真の愛と一つになれば、神様が自分になるのです。

堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできた家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命体、そして血統体になっていたならば、今日私たちの心と体は闘っていないのです。

 

3 なぜ神様が世界を創造したのかというとき、神様は「愛のために!」と言われます。愛のためです。その愛は、どのような類型の愛でしょうか。

ありったけの「私」の愛を願うのですが、皆さんも「愛」と言えば、「ありったけの私の愛」という言葉を聞いたことがあるでしょう。その歌は聞きましたが、愛のことは知りません。考えただけでも神秘で、丸ければ丸く、長ければ長いというのです。

それでは、女性が一人でその愛を探すことができるでしょうか。見るのも嫌で、意地の悪いぼさぼさ頭の独身男だとしても、そのお尻についていかなければならないのです。

 

4 「ありったけの私の愛」と言いますが、「ありったけの私の愛」の中にはすべて入っています。そこには夫の愛も入っていて、母の愛も入っていて、息子の愛も入っていて、神様の愛も入っています。ですから、愛だけがこのすべてを入れても耐えることができるのであって、愛ではないふろしきでは、入れても耐えることができません。

父母が子女を愛する心をもっていれば、世の中のすべてのものを与えたいと思うのです。与えて、与えて、与えても、また与えたいのです。愛はそのように大きいのです。愛の心は無限です。無限に通じ、無限に大きく、無限の価値の内容をもっています。ですから、愛をもった人は宇宙をもったことになり、愛をもった人はすべての幸福がそこにあり、愛をもった人はすべての面において勝者になる、このような結論が出ます。人生をいくら素晴らしく生きても、この愛をもって愛に対する勝利者になれなければ、人生の敗者になるという結論が出るのです。

 

5 女性として生まれ、人生の花が咲き、生命の種が連結される夫が訪ねてくるときに、「早く来てください。早く来てください。このすべての花は、あなたの花です。根こそぎあなたが消化してください。食べるなり、切るなり、たたくなり、何でもいいです」と言いながら、ほほえみの花が咲こうとする美女の姿で「千年、万年、幸福であれ!」と祈ることが、どれほどすてきでしょうか!

初愛を中心として固い絆は切れることなく、争っても、再び絆を結ぶことができるのです。このようにしながら暮らす夫婦が偉大だというのです。ですから、争わず互いに愛し合えば、どれほど偉大だろうかと思うとき、争う夫婦がいるがゆえに、それを教材として、争わない夫婦は幸福だということが分かるのです。不幸な人がいるのを見るとき、幸福であることを知るのです。平等です。

 

6 愛は、すべてのものを満たします。傾いたものを満たすことができます。本当に愛する女性が病気になったからといって、「傷物だ」とは言えません。それを憎もうとしても憎むことができないのです。初愛は、誰にでもいい加減に与えることはできません。いい加減に関係を結ぶことはできません。天地が公認した中で、この宇宙が公認した中で関係を結ばなければならないのです。ですから、主人の承諾がなければ、女性が自分の思いどおりにできず、男性が自分の思いどおりにすることはできません。

なぜお嫁に行こうとするのでしょうか。主人を探して侍るためにお嫁に行くのです。天国は愛の中にあります。イエス様も「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言ったのですが、それはあなたの深い心の中に愛があるということです。

ですから、夫が本当に妻を愛するように、その愛をもってすべての人を愛するようになれば、どこに行っても通過するのです。

 

7 皆さんの家庭で、二人が行く道は明確です。誰がよくできたか、できなかったかという問題より、神様をもっと愛するために先頭に立つ所には異議がありません。ついていかなければならないのです。いくら夫でも、その夫が話を聞かなければ足で蹴飛ばしてしまい、ついてこなければそのまま行かなければなりません。そのようにしなければ二人とも滅び、ついてくる子女まで滅びるのです。

第一に、環境に主管されて習慣化された生活をしてはならず、第二に、愛を中心とした前進的発展をしていかなければなりません。

妻は夫のために生きなければならず、夫は妻のために生きなければなりません。そして、夫婦は神様のためのものなので、そのみ旨の中には神様が探し求めることのできる氏族が必要であり、民族が必要であり、国家が必要であり、世界が必要だというのです。天の国の霊界を解放できる解放圏、地獄を解放しなければならない解放圏が残っています。

 

8 神様が人間を造るとき、男性をより愛したでしょうか、女性をより愛したでしょうか。女性をより愛しました。男性は神様の家です。ですから、男性は成熟して思春期になれば、天下に号令をかけたいと思い、宇宙を回りながら万事において一等になりたいと思うのです。男性はそのような欲望がより大きいのです。しかし、女性はそうではありません。

女性は「私が世界全体で一等になる」という考えをしません。一方向しかありません。どこかに行って安らかに眠りたいし、安らかに寄りかかりたいという性格をもっているのです。いつか一旗揚げたいというような激しい闘争の気質がありません。

ただ愛を受けながら生きたいと思い、寄りかかって生きたいと願うのです。ですから、家族と一緒に、天を頼りにして、支えて暮らしたいと思うのです。女性は、神様が最後に造った傑作です。そして、男性よりもっと愛を受けられる立場にあるのです。

 

9 芸術をするのは、生活化するためだと考えればよいのです。子女教育において、芸術的な教育をしなければならないということです。夫に対して芸術的な感情をもち、厚くもてなすこともでき、包んであげることもできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術です。芸術をすることによって家庭で愛を美化させることができ、昇華させることができます。それが芸術の、さらにやりがいのある価値だと思います。家庭は悪いものではありません。女性はどうやったとしても、家庭に入らなければなりません。ですから、お嫁に行かなければならないのです。

 

10 夫婦生活において、夫の真の愛の手でなでてくれる場合、夜でも昼でも、いつでも妻は一〇〇パーセント歓迎します。女性として一番恥ずかしいことは何でしょうか。胸を見せるのを恥ずかしく思うでしょう。男性も同じです。生殖器を隠すのです。夫婦だけでいる所で、それを互いに隠せばどうなりますか。秘密にして保管したいと思うでしょうか。そのときは一番露骨にさらけ出したいと思うのです。常に夫の手が触ってくれるのを願うのです。未婚のときは男性が触ったら大変ですが、結婚して夫が触ってくれるなら、そうではないのです。愛する前は隠しても、愛すればそのようにしません。一心同体になるのです。

 

 

真の愛を探し求めていく人生路程

11 人間が生まれたのは愛の世界を旅行するためです。愛の宇宙を旅行するために生まれました。「私」が父母から血統を受け継ぐとき、父母の愛の中に同参したのです。それで、生まれたときから愛を受けるのです。母の腹中から父母が愛したのです。十ヶ月間ひたすら触り、生んで、愛し、学校に入るまで、大学までの期間、父母の愛の圏内で育つのです。

その父母は、自分の息子、娘を最高に愛するのですが、他の人と同じようにしてあげられなければ胸が痛むのです。息子、娘を生んでみてこそ、「私たちの父母がこうだったのだろうなあ」と理解するのです。そうだとすれば、私たちをこのように放っておいて歩き回るとき、父母はどうして安らかに眠り、安らかな時間をもつことができたでしょうか。いつも焦る思い、不安な思いをもったであろうことを皆さんは知り、私たちの父母は素晴らしいということを悟らなければなりません。

ですから、愛です。生まれて十六歳になれば物心がつきます。そして、十八歳、ないし二十歳になれば結婚します。それでまた愛です。結婚し、また何年かたつと息子、娘を生み、また愛です。結婚すれば、今度は孫を愛するようになるのです。

Luke Higuchi