天聖経: 第84話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第三章 真の愛の実践

第三節 真の父母の真の愛 15-27

15 皆さんは、イエス様が弟子たちの足を洗ってあげたことを、聖書を通して知っているでしょう。皆さんもそのような伝統を立てなければ、彼らを糾合することができません。先生は、そのようにしてきました。先生は、怨讐の子女が御飯を食べられないといううわさを聞いた時、下着と一枚の布団だけを残してすべて持っていってあげたことがあります。そのようにして、下着だけ着て、一枚の布団だけをかぶって一週間過ごしました。

そして、あとになって、一枚残った布団まで彼らのために売りました。なぜそのようなことをしたのでしょうか。先生が愚かでそのようにしたのではありません。復帰の道を行こうとすれば、怨讐を愛したという絶対的な条件を立てなければならないからです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)という聖書のみ言を実践しなければならないので、そのようなことまでしたのです。

 

16 神様は、誰を見て統一教会を協助されるのでしょうか。皆さんは、「私を見て協助してください」と言うことができる人にならなければなりません。「神様は、私のために協助される」と言うことができる生活をしなければならないのです。「私を中心として、神様が協助される、そのような人にならなければならない」、これが先生の生活哲学であり秘密です。神様が、「あなたゆえに、大韓民国を愛さざるを得ない」とおっしゃることのできる人にならなければなりません。このような責任者にならなければならないのです。

ですから、皆さんを見て、神様が統一教会を後押してくださるかということが問題です。怨讐を憎んではいけません。また、怨讐が滅ぶのを見て、喜んでもいけません。もし、神様が、怨讐が滅ぶのを見て喜ばれたなら、この世界は残ることができないでしょう。神様は、サタンまでも憎むことができないので、先生もそのようにしているのです。

 

17 神様を愛し、世界を愛し、国を愛することができないことが恨になって涙を流す時、神様が涙を流しながら「そうか、そうか、そのようにできる日を迎えさせてあげよう。お前の願いがそうならば、そのような日が来るだろう」と慰労を受ける皆さんにならなければなりません。そうしたあとにこそ、氏族を愛し、家庭を愛し、最後に自分を愛することができるのです。これが、今まで神様の摂理歴史において、人間がもたなければならない中心思想でした。

 

18 先生は、神様の悲しかった歴史的な事情を知りました。イエス様をあのような運命の場に送った神様の心情を知りました。ですから、先生は、どのように天のみ旨に自分を捧げるかを考えました。民族と世界から嘲弄されて追われながらも、どのようにしてでも神様のみ旨の前に怨讐の群れを取り返すために、誰よりも愛してあげました。愛するだけでなく、福を祈ってあげました。そして、私の息子と娘がいるなら、「私の代わりに怨讐たちを祝福してあげ、愛してあげてほしい」と私の子女に遺言を残すことを考えました。これが先生の願いであり、そのようにできるように道をつくってきた先生です。

 

カイン圏への愛と実践

19 先生の母親は、私をとても愛しました。十三人の子供を生みましたが、八人だけ生き残りました。息子は二人だけで、娘が六人でしたが、その中でも母親は、先生を一番愛したのです。そのような母親に、精誠を込めた手拭いの一枚も買ってさしあげられませんでした。天に従っていかなければならなかったからです。母親のために精誠を込める以上に、世の中を愛さなければならなかったからです。そうしなければ、愛の強盗になります。詐欺師になるのです。

それで、先生は、母親よりも世の中をもっと愛さなければならず、妻子よりも世の中をもっと愛さなければなりません。自分に矢を射ってきた怨讐は愛することができなくても、その怨讐の息子、娘は愛さなければなりません。神様の摂理は、天使長を愛せなくても天使長の子孫を愛して復帰することなので、私たちは、サタンに属している息子、娘を愛さなければなりません。

 

20 先生が千辛万苦の末に探し出した霊界のすべての秘密の内容は、宝物の中の宝物であり、何とも取り替えることができない貴いものです。ところが、これを愛する父母、兄弟と共に分かち合うことができないのですから、どれほど恨めしいでしょうか。母親をあとにして出発するとき、涙を浮かべながら心の中で「お母さん、ひとたびこの家を出発すれば、再びお会いすることができない道に行くことをお許しください」と挨拶を捧げて母親と別れました。

その母が、先生が監獄に入っている時に訪ねてきて、とめどなく涙を流しました。しかし、先生は、その母親に一言の慰労の言葉も掛けてあげることができず、かえって涙を流している母親に「小心者の息子を生んだ母親ではなく、立派な男を生んだ母親になってください」と言いながら、涙を流さないように言いました。先生は、このような歴史をもっているのです。

 

21 皆さんは、息子、娘を愛する前に、サタン側の息子、娘を愛さなければなりません。サタン側の息子、娘を愛したという条件を立てなければ、自分の息子、娘を愛することはできません。先生もそのような運命にいたので、自分の子女をすべて捨てて、三十八度線の以北にふろしきを包んで出掛けたのです。怨讐の国家に行って大勢の人々を愛したという条件を立てて、再び帰ってこなければいけませんでした。怨讐の国家を屈服させて帰ってこなければいけなかったのです。

 

22 先生は、三十歳になるまで服を自分で買って着ることができませんでした。お金がなかったからではありません。私が指導している息子、娘たちがいますが、私が精誠を尽くして何一つもしてあげることができなかったからです。私の心を尽くし、精誠を込め、愛する心で子女たちにそのようにしてあげてから、服を買って着たいと思うのです。これが修道の教えであり、父母の心です。先生は、そのような立場を備えることができなかったので、服も買って着ることができませんでした。

また、先生は、三十歳になるまでおなかがすかない日はありませんでした。先生がお金をもっていなかったからではありません。お金はありましたが、そのお金を先生のために使いませんでした。病気にかかって道端で横たわり、家に帰ることができずにいる人がいれば、力を全部投入して、千里以上の道を背負っていきながら助けてあげたというのです。

 

23 先生は、今まで統一教会を訪ねてくる人々が、きちんとした服を着ることができずに継ぎ当てた古い服を着ていれば、服を買うお金をあげました。先生は、息子として父親と母親に一着の服も買ってさしあげることができませんでした。ですから、どうして父母にあわせる顔があるでしょうか。

食べることができずに青白い顔をしている人を見れば、食べるものがあっても、喉が詰まって食べることができませんでした。

その後も、その人のことが頭に浮かんで喉が詰まり、食べることができないのです。おいしいものがあれば、喉が詰まって食べられず、その人にあげたいと思ったというのです。どれほど不器量な人でも、先生を訪ねてくる人には感謝し、百回でもお礼をしたのです。

 

獄中生活と真の愛の訓練

24 今まで先生は、獄中でも生活をした人です。今まで数度にわたつて監獄生活をしましたが、その獄中生活が先生にとって悲しみとはなりませんでした。そこは、先生には二つとない最高の道場でした。人間を本当に愛することができるか、怨讐を本当に愛することができるか、死刑囚と鼻と鼻を突き合わせ、同じ空気を吸うことができるかということを考える道場でした。

そして、そのような場で、この民族の恨を感じ、情熱をもって社会の不正を辛辣に批判できるかということを考える良い道場だったのです。そこから私たちの教会は出発しました。そのような場でも、人間が備えなければならない基準、神様が提示した人格的基準を喪失することなく、どれほど困難な環境でも克服できる一つの源泉的な実体をどのように収拾するかということを、今まで必勝の生活哲学としてきたのです。

 

25 獄中の受難の中で、むちを受けて血を吐く拷問を受けながらも、先生は、むち打つ怨讐を恨みませんでした。真の神様は、御自身が最も愛する息子を犠牲にしても怨讐を救いたいと思われ、それだけでなく、最も貴い記念品までもその怨讐に与える方です。これが正に神様の愛です。むち打つ怨讐のために、涙を流して祈らなければならないのが神様の道理です。それで、先生は、今までそのようなことをしてきました。

 

26 先生は、二十四歳から監獄生活をしました。拷問を受けて鼻が折れ、頭が割れ、首が折れるような場でも、鉄石のような信念をもち、この国に対して絶対に屈服しなかった男です。「いくらでも棍棒で打ってみよ。私の体が壊れるのではなく、棍棒が壊れるだろう。指を切ってみよ。どんなひどい拷問をしても屈服はしない」と考えながら耐えた男です。心情の骨髄に宿った事情、その誰も解くことができない事情を抱えた立場に、涙のにじんだ父の愛が込められていることを知りました。いまだに人が知らない深い谷間で、ひっくり返さなければならない峠道が残っているのです。

 

27 先生が、監獄にいる時、母親が訪ねてきましたが、そのまま帰しました。先生は、そのようにしなければなりませんでした。先生は、先生の兄弟に決して会いませんでした。先生は、兄弟、家庭、親戚を犠牲にして新しい人々を探そうとし、先生の父母、兄弟、また親戚を愛した以上に、皆さんをもっと愛してきたのです。神様がそのような方だからです。神様は、その息子を犠牲にして全世界を救おうとされました。神様は、ひとり子の生命まで犠牲にしなければなりませんでした。そのようにしてでも、全世界を救援しようとされました。先生もそのような手本に従わなければならなかったのです。

Luke Higuchi