天聖経: 第83話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第三章 真の愛の実践

第二節 真の愛の実践 73-74

第三節 真の父母の真の愛 1-14

73 聖子の道は、天国の王宮法も知り、地上世界の王宮法をすべて知って、ここに合わせて生きようとするのです。そのようにするのが天国の王子の道理です。神様がそのようにされるので、その神様の父母の心情を受け継ぎ、その王権のすべての心情を受け継いで、夜も昼もそのように生きようとする息子が真の息子だからです。聖子の歩みは、今日の家庭から天上世界にまで曲折の道を行くのではなく、直短距離で連結される愛の道を行くのです。

 

74 聖人は、世界人類のために犠牲になって行く人であり、聖子は、神様を中心として世界の人々のために、神様のように生きていく人です。歴史的な聖人は、今まで世界の人々のために死んでいった人であり、神様の息子である聖子は、神様にも忠誠を尽くしますが、神様のように万民のために生きていく人です。このように、聖子は聖人とは違います。

真の孝子は、自分の父母のために生きるように兄弟のために生きていく人であり、真の忠臣は、国王のために生きるように国民のために生きていく人です。真の聖子、神様の息子、娘は、神様のために生きるように、神様に属したすべてのもののために生きていこうとする人です。

第三節 真の父母の真の愛

 

1 神様の愛を体恤した人には、艱難や迫害は問題ではありません。先生は、今まで迫害を受けながらも堂々と出てきました。世界の問題をすべて克服して、皆さんと向き合うのは、ほかでもありません。神様を知ったからです。神様の愛がどのようなものかを知ったからです。真の愛の道を誰が遮ることができますか。人間の男女の愛の道も遮ることができないのに、人間の根本であられる神様の愛を感じた、その愛の道を誰が遮ることができますか。誰も遮ることはできません。

 

真の父母が歩まれた愛の道

2 先生の経歴を話そうとすれば、事情がいろいろあるのです。先生は、失望する立場で失望せず、卑屈になる立場でも卑屈になりませんでした。先生は、平壌で経験したことをはっきりと覚えています。平壌で鉄の鎖をぶら下げて刑務所に向かいながら、食口に元気でいなさい」と手を振った、その時のことがいつも忘れられません。

他の人々は、刑務所に入っていく時に、失望と絶望の中で入っていきましたが、先生は、かえって希望をもって入っていきました。神様は、獄中でどのような人に会うかを知らせてくださったのです。神様は、先生のおなかがすいたとき、人を動員して御飯を持ってこさせ、食べさせてくださり、語らなくても大勢の人々が従うという、歴史的な生きた実証を見せてくださったので、先生は常に自信満々でした。

 

3 先生の一族は、み旨の道ゆえに犠牲になりました。父親、母親、兄弟がすべて犠牲になりました。先生の一族を犠牲にして、反対する皆さんを愛したのです。自分の一族を犠牲にすることによって、何も関係がない怨讐の家族を愛し、また自分の一族を犠牲にした代価として、彼らを取り戻そうとするのが「統一思想」であり、神様の思想です。ですから、神様は、自分の息子、娘、自分に最も近い民族を犠牲にしながら、怨讐の国と、怨讐の民族を愛されるのです。

 

4 先生は、歴史上の辱めをすべて通過してきました。み旨の道を正しく立てるために、どれほど辱めを受けたか分かりません。ある一人の女性を伝道するのに、一年八ヶ月以上かかったこともあります。その家に入っていって、その夫の迫害を受けながらも、その夫と一緒の食卓に座って御飯を食べながら伝道しました。原理を正しく立てるために、男性としてそのような最悪の侮辱の路程を通過してきました。

 

5 先生は、神様に侍るとき、先生自身のことを考えたことはありません。「神様は、どうして愛する息子だと言いながら、生涯このように苦労ばかりさせるのか」と考えたことはありません。かえって先生が同情しなければならない神様だと考えました。刑務所に入れられる立場でもそうでした。み旨の道を行くためのその一歩から、「このように生命が残っているので感謝です」と、かえって神様を慰労してさしあげました。今日の統一教会の伝統思想を保ってきた歴史的蕩減基準を残すために、そのような道を歩んできたのです。これは、誰かが侵犯しようとしても侵犯することができません。父なる神様以外には侵犯することができません。

 

6 み旨の道を行くときに、愛を骨としてどこでも行く人は、天地が保護するでしょう。監獄にいたとしても敗者ではありません。先生は監獄に入ったからといって、「父よ、あなたの愛する息子が監獄に入ったので、恨みを晴らしてください」とは祈りませんでした。「神様の愛の垣根がまだ崩れていないので、監獄の道が残ってしまいました。私の体と心を、紅海を分けたモーセの杖で打ってください。肉が引き裂かれ、骨が折れても私は行きます。私はまだ死んでいません」と祈りました。

 

7 先生は、み旨を成し遂げる前に疲れることはできません。神様がどのような立場にいらっしゃるかを知っているからです。そのような意味で、先生と皆さんは違います。皆さんがすべてこのみ旨の道から落ちてしまったとしても、先生だけは絶対に落ちることはできません。皆さんは、世の中に流れていきたければ、この道を離れることもできますが、先生はそうすることができないで、一人その道を歩んでいます。

 

8 先生は、今まで多くのことをしました。多くのお金も投入しました。しかし、先生は、お金を稼ぐために投入したのではありません。先生は、名誉のために働いたのでもありません。ただ神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげるために、真の人類の平和のために血と汗と涙を流してきました。人間が個人的にも、家庭的にも、国家的にも、世界的にも、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげて、喜ばせてさしあげなければ、人類の真の平和はあり得ません。先生は、これを徹底して悟り、実践してきました。

 

9 先生は、実子を犠牲にしてこの道を来ました。この道を出発するとき、先生は、父母、一族に先に世界の福をあげようとは思いませんでした。忠臣の行く道は、国を愛することによって国と一つになり、そうしてから家庭を訪ねていって愛するのです。それが忠臣の行く道です。聖人が行く道は、自分の国を捨てて世界の人を訪ね、世界の人と共に国のために生きる道を紹介してあげるのです。聖子の道は、天の国の王子としてこの地に生まれ、天法をすべて遂行してから、天の国と共に愛そうというものです。

 

怨讐に対する愛

10 先生の生活の中には、旅人のような行路がたくさんありました。暗闇が迫ってくる夕陽の光を受けて歩む旅人のような道もたくさん歩いてきました。リュックを背負って「愛する妻子を残して、私は行かなければなりません。行かざるを得ません」と祈った時を、先生は今も忘れられません。勝利すれば忠誠の道であり、勝利できなければ怨讐にならざるを得ない岐路で、先生は、「神様に出会うまでは妻子を愛さない」と祈りました。世界を生かすためには、このような血のにじむ路程を行かなければなりません。そのような覚悟がなければ、真の世界を成し遂げることができないのです。そのような立場でも、自分の妻子、自分の一族を抱いて涙を流すのではなく、取り戻さなければならない未来の大きな世界を抱いて涙を流さなければなりません。

 

11 リユックを背負って歩む旅人の行路には、近道はなく、平坦な道はありません。血と汗を流して訪ねていかなければならない困苦の道です。旅人の行路を歩み、天の道を求めていく青年の姿は、追われ追われる一匹の羊と同じです。訪ねていくその道で流す涙は、「私」の涙ではなく、私を通して流す神様の涙なのです。

 

12 聖書を見れば、最初の愛を失ってはいけないとあります。先生は、今まで復帰摂理に責任をもち、多くの逆境を経験してきながらも、神様との最初の愛を失いませんでした。誰が何と言ってもそれは否定することができず、私の生命が引き裂かれることがあるとしても、それは否定できないと考えながら来ました。これは、神様が御存じです。

先生は、神様を見れば胸が張り裂けます。神様の事情を考えれば、天のみ旨に反対する三千万の民族が憎く思うこともあります。しかし、そのように考えても、神様が今まで復帰摂理をされながら耐えてこられたことを思うと、恥ずかしい気持ちになるのです。このようにして先生も耐えてきたのです。

 

13 神様がもし、堕落した人間を呪っていたなら、人類の前途は塞がれていたでしょう。しかし、そのようにされなかったので、人類歴史に救援摂理の希望が残っているのです。それと同じように、先生もその伝統と愛の心を受け継いだので、怨讐が先生を死の道に追い込んだとしても、今まで彼らのために祝福の杯を注いであげ、良くなるように祝賀してあげました。これが統一教会の師がもってきた思想であり、皆さんが何年間も先生に侍りながら、見て、経験した事実であることを否定できません。

刀を抜いて怨讐の立場に立っているこの国の三千万民族の頭を打ち、その胸をずたずたに引き裂いたとしても解けない、天の恨を抱いている先生ですが、愛の道は、そのような人をもっと愛さなければならない道であることを知っていたので、その人々のために、先生が抱いてきた神様の愛はこのようなものだと、説明だけでもしなければならないのです。

 

14 先生は、この道を歩んできながら、激しく打たれました。考えてみれば無念です。無念なことがある時には、すべてを取り替えてしまいたい思いがする時もあります。しかし、神様を考える時は、怨讐がかわいそうだというのです。この怨讐に対してまだ未練があり、この者たちを愛さなければならないと希望をもってきた神様の姿を考える時、慰労してさしあげざるを得ません。子女が打たれて帰ってきた時、涙を流されていた父の恨を解いてさしあげなければならない道が忙しいというのです。

ですから、近所の犬がほえようがほえまいが、岩が転がろうが転がるまいが、私の行く道が忙しかったのです。これが統一教会の先生が行く道です。先生は、今まで数十年間を捧げてこの道を歩んできました。日本の統治下の時からこの道を歩み、反対を受けて監獄にも行き、行く所ごとに追われ追われて排斥される、哀れな身の上になったりもしました。それでも、サタンを恨まずに、ただその環境を嘆きながら歩んできたのです。

Luke Higuchi