天聖経: 第82話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第三章 真の愛の実践

第二節 真の愛の実践 55-72

55 皆さんは、神様が願われるように、家庭で孝子になろうという考えや、国家で忠臣になろうという考え、世界で聖人になろうという考え、そして天地で聖子になろうという考えをもってみましたか。歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になりなさいと教えてきました。これを教えない宗教は、宗教として歴史に残ることができません。いずれにしても、これは人間の宿命です。宿命は、父子関係のようなものをいいます。宿命は分けることができません。運命は代わりを置くことができますが、宿命はそれができません。

 

56 孝子という名称をもってみ旨の道を行ってこそ、勝利者になることができます。六千年の罪悪の歴史に責任を担うという覚悟のもと、神様のみ前で従順の王子、服従の王子とならなければなりません。イエス様が、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言ったように、孝子の基準を立てたあとに、「サタンがついに私たちの前で屈服しました」と言ってこそ、天国に入ることができるのです。そうすることによって、先祖となり、実体の先祖となり、心情の先祖となり、み言の従順の先祖となり、血統の先祖にならなければなりません。

 

57 孝子は、自分の一身を無視し、自分に属する妻子を無視して、父母のみ旨に従わなければなりません。それが孝子の道理だというのです。ですから、み旨が行く道は、愛が行く道です。「私」個人よりも大きなことを先に愛する道がみ旨の行く道であり、愛の行く道だというのです。

 

58 孝子とは、父母に対して愛を中心として節操を守る人です。忠臣は、国を愛する人であり、聖人は世の中を愛する人です。聖子は、天の国の王宮圏までも愛する人です。ですから、これからみ旨を抱く人として世界に名をはせながら、万民からあがめられることを希望としてみ旨の道を行こうとすれば、苦労する道で、誰よりも輝く闘士にならなければなりません。

 

59 国のために土地を売るのが忠臣の行く道です。国のために牛や豚を売るのが忠臣の行く道です。息子、娘を学校に送ることができなくても行く道が、忠臣の行く道です。自分の肉を切るほどに千辛万苦の生を生きながら、国を愛し、後代のために闘おうというのが愛国者の行く道です。

 

60 国のために自分の一族と一家を犠牲にしても行こうというのが忠臣です。自分の不幸と不便を顧みず、夫のために愛の心をもって犠牲になるのが烈女です。父母のために愛をもって犠牲の道を求めていくのが孝子です。それが原則です。良いものには、必ず犠牲が伴うようになっています。自分を否定することが犠牲です。完全否定は、完全犠牲です。

 

61 国民が行かなければならない真理の道は、国の中心存在のために、変わることのない愛を求めていく道です。その道が愛国者の道です。国民は愛国者の道を行かなければなりません。次に人類が行かなければならない真理の道が聖人の道です。聖人の道を行かなければなりません。自分の一国を超えて万民を同胞のように、兄弟のように、自分の相対のように愛していくことが、世界に向かっていく真理の道です。

 

62 世の中には、家庭のために忠誠を尽くす人もいて、社会のために忠誠を尽くす人もいて、国家のために忠誠を尽くす人もいます。国家のために忠誠を尽くす人は、国家理念を後代に残すときに、一つの伝統の条件を立てることができます。しかし、この地と、この世界のすべてのものは、いずれ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるためには、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王、主人の中の主人、万有の父である神様のみ前で忠臣となり、孝子となりなさいと、宗教では教えています。これが宗教の道理です。

 

63 愛国者とは、国のための忠臣のことをいい、聖人とは国境を超えて世界人類を愛する人のことをいいます。ですから、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地に対しては聖子の道理を守らなければなりません。イエス様のように、天の宮殿法と天国の法を愛で連結できる個人にならなければなりません。

この道は、すべて直線です。悪魔の愛は、この道とは反対に行くのです。ですから、サタン側の習慣と天の側の習慣は、一八〇度異なります。サタン側は、自分を主として投入しなさいという歴史的性稟をもち、天の側は、相手のために投入しようという歴史的性稟をもってきたので、そのように投入した人が主人になるのです。

 

64 聖人と忠臣は何が違うのでしょうか。忠臣は国家を超えることができませんが、聖人は国家を超えています。自分の国だけを愛するのではなく、人類と世界を中心として、すべての受難の中で自分の生命を飛び越えて人類を愛した人が聖人です。

 

65 キリスト教でいう聖人とは、イエス様のような人を言いますが、聖子は、天の国のすべての愛の圏内と歴史を代表し、地上世界の人類の愛の圏内を代表するのです。それだけでなく、天国と王宮の王権を中心とした内外の内容を備えた愛をもって生きようとした人が聖子です。

ですから、聖子と聖人は違います。聖人は、一つの世界を備えることができず、漠然と全人類を同胞愛で愛そうとした人であり、聖子は、天と地、地上天国と天上天国を中心として愛するのです。その主体は永遠でなければなりません。国家の国民は一時代を経ていきますが、その主権は永遠を代表します。天の国の王権を中心として最後まで愛そうとした人が聖子です。

 

66 聖子の道とは何でしょうか。人間世界だけではなく見えない霊界にも通じて、全宇宙を代表して伝統的忠孝の道を行くのが聖子の道です。ですから、聖人の道の愛を犠牲にして、それ以上の愛の道を立てようというのが聖子の道です。イエス様は、この地に来て聖子の法と道理に従う道を知ったので、怨讐までも愛そうとしたのです。

 

67 聖人は、世界を愛する人々です。宗教指導者たちは、すべて聖人の道理に従っていきます。千年、万年の歴史を超えて国境を克服していきながら、世界を愛する道です。次にイエス様のような聖子とは何でしょうか。神様を中心として、天国と天国の王権を愛する人です。

 

68 家庭で父母のために愛する人は孝子であり、国のために愛する人は愛国者であり、世界のために愛する人は聖人です。先生は、神様と世界と宇宙のために愛する聖子になりなさいと教えます。聖子になろうとすれば、神様のような愛を心にもたなければなりません。

 

69 人類歴史は、何を通して綴られてきたのでしょうか。堕落した世の中であっても、人倫道徳を中心として綴られてきたのです。その道徳の中心が愛です。父母の前における孝子とは、父母をより一層愛する人であり、国の前における忠臣とは、より一層国を愛する人であり、国を越えて世界の前に愛を教えようとするのが聖人の道です。世界を自らの家庭よりも、自らの国よりも愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理は、天と地のすべての法よりも、王宮法を中心として「最高の愛を実践しなさい」と言うのです。愛を中心として、すべてのことがこのようになるのです。

 

70 孝子は、忠臣になれば自然になります。忠臣になるときは、千人、万人の孝子の上に立つのです。また、忠臣ではなく聖人になれば、忠臣何千人がなした基盤があったとしても、聖人の立場に吸収されます。聖子は、神様の息子です。数多くの聖人がいたとしても、聖子の道を行くようになるときは、聖人はそこに順応しなければなりません。愛さなければならず、ために生きなければなりません。孝子の道、忠臣の道、聖人の道、聖子の道を行く人は、どのような人でしょうか。自分の命よりも、自分の妻子よりももっと大きなものを愛して、ために生きて生活しようとする人です。

 

71 聖人がすべて聖子になるわけではありません。神様の息子になるのではないのです。聖子にならなければなりません。どれほど国王を愛し、国民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の支配を受け、そこに拍子を合わせることができるたった一つの法を知らなければなりません。

 

72 地上で忠臣の資格を備えなければならず、世界を代表する聖人の資格を備えなければならず、天地を代表する聖子の資格を備えなければなりません。聖子とはどのような人ですか。天国の王宮法まで守ることができる人が聖子です。イエス様を聖子というのもそのような方だからです。

孝子は、ために生きる愛をもって家庭と国家と世界のために、愛を中心として全生涯を投入しなければなりません。聖子の道のためには、自分一代だけではなく、数百代を代表した立場で投入し、霊界の善の霊たちを地上に再臨させて自分に協助させることができる基盤を、どれほど幅広くして国家を超えた影響を及ぼしていくかということが問題です。ために生きる愛をどれほどもっていくかということが、天の国での等位決定の基準になるのです。

 

Luke Higuchi