天聖経: 第81話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第三章 真の愛の実践

第二節 真の愛の実践 37-54

37 神様がために生きる原則を立てたというのは、空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいということです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに循環します。神様御自身が愛の相対を求めるために投入して、また投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるようになるのです。このような論理的根拠を中心として、被造物をペア・システムで創造したのであり、前進する次元の高い上部のレベルを通して、人間と神様の理想的な足場をつくるために天地を創造したのです。

 

38 真の愛は、「私のために生きよう」というところにあるのではありません。真の理想、真の幸福、真の平和の基準は、そのようなところにはありません。人のために生きようとするところから始まります。ですから、真の夫婦、真の父母、真の師、真の愛国者は、自分自身を中心として引き込むところから始まるのではありません。自分自身を投入するところから始まります。創造自体がすなわち投入なのです。

 

39 うまくいくようにしようとする人は、まず相対世界がうまくいくようにしなければなりません。このような観点から統一教会では、「人のために生きなさい!」と言うのです。生まれたのは、ために生きるためです。創造は、神様全体の投入ですが、神様も愛を中心として愛のために創造したというのです。

世界では、今まで「自分のために生きなさい!」と言ってきましたが、出発から間違っていたのです。父母のために生まれ、妻のために生まれ、夫のために生まれたのです。「私」の生は父母のために受け、夫の生は妻のために受け、妻の生は夫のために受け、兄弟のために受け、この国のために受け継ぎました。そして、世界のために生まれたのです。

 

40 「統一原理」は、アダムとエバが堕落したあとにつくられたのでしょうか、堕落の前につくられたのでしょうか。堕落の前にも原理はありました。その原理の道は、アダムとエバが行かなければならない道です。アダムとエバが人類の祖先として一〇〇パーセント完成し、神様の愛の圏内で一体になれば、誰も離すことができません。神様も離すことができません。救援の道は復帰の道であり、復帰の道は再創造を通して行かなければならない道です。再創造は、アダムとエバが堕落する前の原理原則を適用して、その原理原則に一致できる完成的内容を経て、存在の価値を決定しなければなりません。そうしなければ帰っていくことができません。神様と関係を結ぶことができないのです。

 

41 原理の道はたどっていく道であり、復帰の道は尋ね求めていく道です。蕩減復帰の道は尋ね求めていく道であり、尋ね求めることができれば、今度はその道をたどっていかなければなりません。今までは復帰の道を知りませんでした。今は先生によってすべて解明されたので、復帰路程の原理の道は、そのまま歩んでいかなければなりません。公式路程なので、先祖も子孫もそれを通過しなければなりません。

 

42 原理の道は、人間だけが行く道ではなく、神様もその原理の道を通してこそ、人間に出会うことができるのです。このように、神様も原理の道を行こうとし、また人間もやはり原理の道を行こうと努力しなければなりません。この二者が原理の道を通してこそ勝利の出会いがあるのです。それでは、悪というものは何でしょうか。原理の道を行くことに反対するのが悪です。その道を行くことができないようにするのが悪です。そこに障害物を持ってきて置いておくのが悪です。ですから、原理原則には例外がありません。

 

43 人間始祖のアダムとエバが始祖としての道を失ってしまったので、皆さんがもう一度探していかなければなりません。それで、復帰の道は尋ね求めていく道であり、原理の道はたどっていく道です。原理の道はたどっていく道なので、皆さんは、先生が行く道を行かなければなりません。先生の道は、霊的なサタンと世の中のサタン、すなわち霊肉を中心とする天宙的なサタンと闘って勝利して歩んでいく道ですが、皆さんにはそれがありません。世界的なサタンもなく、国家的なサタンもいないのです。

 

44 天運に乗ろうとすれば、原理の道を行かなければなりません。原則的な道を行かなければなりません。これが先生の生活哲学です。今まで迫害を受け続け、みな滅びると思っていましたが、その滅びる所から跳躍し、より大きな世界へ、より大きな舞台へと発展してきたのです。天が協助することができたのは、天理原則に一致した道を歩んできたからです。

 

45 統一教会の信徒は、先生を通して復帰の道を求めていく原理を知ったので、皆さんは、必ず原理の道を歩んで行かなければなりません。原理の道には例外がありません。祖父も行かなければならず、父親も行かなければならず、自分も行かなければなりません。祝福を受けて生まれた息子、娘だとしても例外はありません。

 

46 復帰の道は尋ね求めていく道なので、先生が今、皆さんの前で尋ね求めているのです。尋ね求めていって実験し、原理の道を切り開いてきているのです。ですから、皆さんは、これをそのまま歩んでいかなければなりません。道案内をする人が海を渡るようになれば、一緒について渡らなければならず、高い山脈を越えるようになれば、一緒について越えていかなければなりません。それを嫌だと言っていては、自分の解放圏を迎えることはできません。

 

47 先生は、今まで、神様に対して一言の不平も言わずにみ旨の道を歩んできました。罪もなく監獄に入っていき、悪事を行う者たちから打たれて血を吐く立場でも、「神様、なぜこのようにされるのですか」と恨んだりはしませんでした。僕が億千万回反対したとしても、息子だけはそのようにしてはいけないのです。反対するサタンがいるのを知りながら、どうして息子が神様に反対することができますか。そうではないですか。死んでも父の側に立って死ななければなりません。あらゆる困難に耐えてきてみると、父に言いたいことがたくさんあるでしょう。しかし、言わないのが偉大なのです。

 

48 皆さんは、どれほど悲惨な路程でも行かなければなりません。先生もそのような道を行った人です。行くときに、世の中のどこの誰をも恨んではいけません。恨む前にこの国、この世界がどのようになるかということと、み旨の行く道を心配しなければなりません。これが復帰の責任者として取らなければならない相応の態度です。皆さんは、そのような心的基準を天の前に立てなければなりません。

 

49 復帰の道は、喜んで行かなければなりません。死の道も喜んで行ってこそ天が訪ねてくるのであって、憂鬱になり、嘆く立場で行くようになればサタンがついてきます。殉教の道も、自分が天国に行くために殉教した人は、天国とは反対の立場にいきます。神様を解放して世界を生かすために「私」が殉教する、このようにならなければなりません。

イエス様の生涯は、ローマまで救うための生涯だったので、ローマの兵隊を愛したのです。それで、死んでもローマを愛したので、ローマがキリスト教の懐に入ってきたのです。そこで泣いたりわめいたりすれば、神様の心の中に尊敬する余地がなくなるのです。立場がなくなって、サタンがその場を占めるようになります。それで、み旨の道を行く人は、死んでも不平を言うことができません。不平を言う人を友人にすることは、最も危険です。

 

50 喜びを感じれば、神様が「私」に対して関心をもって神様の愛の圏内に入っていきますが、この喜びをどのようにして実践するかが課題です。すべてのことが喜びであれば、喜ぶ自分自体にとどまることなく、すべての万物と共に和動することができ、それを万物の相対的喜びとして残さなければなりません。信仰生活も楽しく、神様のみ旨の道ですることも楽しくなければなりません。仕方なくやるのではいけません。どれほど難しくても楽しく思い、難しいと感じてはいけません。生活環境でこれを根づかせなければならないのです。

 

51 天宙兄弟主義の共同生活体験を拡大しなければなりません。自分の家族だけで生活してはいけません。四位基台なら四位基台の四家庭、四カ国の家庭が、コンドミニアムのような所で三年以上一緒に生浩するのです。息子、娘だけが自分の息子、娘ではありません。全体を自分の息子、娘のように愛さなければなりません。神様が願う兄弟家庭のような制度をつくって体験することができなければなりません。

 

52 これからは家庭的に訓練するアパートができるのです。文化住宅、アパートです。七家庭以上が生活できる家を造るのです。それで、数ヶ月ずっ入って共同生活をしながら文化生活ができる、訓練住宅、アパート訓練所ができるというのです。皆さんは、すべてその訓練所を経なければなりません。そのアパートで三代が一緒に住むのです。御飯も一緒に食べ、勉強も一緒にするのです。これが原理です。

 

53 皆さんは、三位基台の三人の夫人同士で一つにならなければなりません。それで今、一つになるように訓練するのです。これからは、十二家庭が一つの家で生活しなければなりません。次には百二十家庭、あるいは千二百家庭がすべて一つの家で生活するのです。一つの町内で生活したとしても争ってはいけません。千代、万代の歴史を動かす伝統を立てなければならない時が、現在の真の父母と一緒に生きる時代なのです。この時代に、その伝統を立てることができなければ、大変なことになります。もし、三家庭の中で、一家庭でも息子、娘を生むことができなければ、息子、娘を生める家庭が、生めない家庭に息子、娘を生んであげなければなりません。

 

孝子、忠臣、聖人、聖子の道

54 孝子が行く道も違い、忠臣が行く道も違い、聖人が行く道も違い、聖子が行く道も違いますが、すべて一つの系統です。一つの系統ですが、何が一つの系統なのでしょうか。世の中で父母を愛することは、孝子一代で終わります。忠臣もその一カ所だけで終わるのです。しかし、真の愛を中心とすれば、その方向は永遠に残ります。その先祖を中心として立てた基盤があれば、その基盤は、自分の子孫が守ることができない時もいつも残され、その基盤で功を立てれば、そこで積み重なって上がっていくことができます。ですから、真の愛を中心とする方向性をもって、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を行えば行うほど、そこには発展があるだけで、後退はありません。

 

Luke Higuchi