天聖経: 第80話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第三章 真の愛の実践
第二節 真の愛の実践 19-36
19 愛の道は、犠牲になることによって輝くのです。ですから、聖書に、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあるのです。宇宙のすべての戒めの中で、第一の戒めがあるとすれば、この戒めです。これが最も重要な法です。この法を中心として、すべてが成し遂げられるようになれば、それ以外のすべての法度は、この法度の圏内で治められるようになります。
このような観点から、神様のみ旨を成し遂げ、神様の創造理想を成し遂げるためには、行かなければならない道があるのです。創造理想は、絶対的な神様の愛と関係を結ぶときに実現されるというのです。
20 真の愛の道は、自分と立場を同じくする人たちを犠牲にしてでも、より大きな世界に向かって前進し、手を広げて犠牲になるのです。家庭を中心として見ると、家庭が社会のために存在する時は、家庭を去ったとしても、それは家庭を去るのではなく、そのような位置で社会と共に一つになるのです。息子が成長して相対に出会い、夫婦になれば、父母のもとを去りますが、夫婦になることによって、父母との愛がさらに深くなることができ、子女を生むことによって、さらに大きくなることができるのです。その家庭が社会に出ていけば、さらに大きくなることができ、発展すればするほど、もっと大きくなることができるのです。
21 父母が自分だけのために子女を愛すれば、それは偽りの愛です。また、子女が自分だけのために父母を愛すれば、それも偽りの愛です。統一教会は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の愛をもった真の宗教であれば、統一教会だけのために愛してはなりません。自分が犠牲になったとしても、父母を愛してこそ孝子であり、自分が犠牲になったとしても、子女を愛してこそ真の父母になるように、統一教会を犠牲にしても、国を愛し、世界を愛さなければなりません。これが愛の法度を立てる最も近い道です。
22 私たち個人が家庭のために犠牲になることは、家庭的愛の道を探すためであり、家庭を犠牲にして氏族を探そうとすることは、氏族的愛の道を広げるためであり、氏族を犠牲にして民族を救うことは、民族的愛の道を広げるためであり、民族を犠牲にして世界を救うことは、世界的な愛の道を広げるためです。このように、世界的な愛を中心として神様の愛まで行かなければなりません。このように行かなければならない道が、今後私たちが行かなければならない道です。
23 宗教は、個人が犠牲となり、家庭が犠牲となり、氏族が犠牲となり、国までも犠牲にするのです。イスラエルの国も氏族圏を犠牲にしてきました。ですから、世界の国家の中でも、宗教を信じる国家は、今まで犠牲の歴史を歩んできたのです。創造的愛の対象の理念を成し遂げるためには、それが愛の本質的原則なので、その原則を通さなければ神様と一致できる場をもつことはできません。また、神様が主管する愛の理想世界と関係を結ぶことはできません。愛の理想世界と関係を結ぼうとすれば、その原則の伝統を受け継がなければならないので、宗教が行く道は、博愛主義を立てて犠牲を強調するのです。天国と地獄、善と悪はここから分かれます。
血と汗と涙の道
24 神様は、今まで私たちを復帰する路程で、サタンと対決してこられました。神様が苦労されたその路程を見本として、私たちもその道を行かなければなりません。分かってみると、神様は、父母の心情と僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して、失われた子女を取り戻すために歴史路程の中で数多くの苦労をしてこられました。私たちもやはり、父母を求めて侍るために、そのような汗と涙と血を代わりに流さなければならず、父母の心情を体恤するために、僕の体で歩まなければなりません。
神様が私たちを復帰するために苦労され、私たちもまた神様を求めていくのに苦労する、その路程で結ばれた涙は、私たち個体だけのための涙ではありません。この涙こそ神様が共にいらっしゃる涙であり、その汗こそ神様が共にいらっしゃる汗です。その血と犠牲も個体だけのためのものではなく、神様が血を流して犠牲になる場に同参するためのものなのです。
25 神様は、父母の心情をもって僕の体で地上に来られました。万民が涙を流せば神様も涙を流し、万民が汗を流せば神様も汗を流しました。また、万民が死の場に立つ時は万民を身代わりして血を流されたというのです。私に代わって神様が何千万回祭物になられたか分かりません。神様が何度自ら祭司長の役割をされたでしょうか。このようなことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界までしてこられ、どれほど苦痛が多かったでしょうか。息子を送ってこの使命を果たさせようとされましたが、それまでも失敗し、神様が息子の使命までしなければなりませんでした。
26 死んだ私たちを生かすために、神様が死の道を行かれたので、皆さんは、父母の心情をもって涙と血と汗を流していかなければなりません。この道は、堕落の子孫たちにとっては運命の道です。イエス様がこの地に来て、涙は人類のために、血は天のために、汗は地のために流したのです。過去と現在を歩み、一度に心情的な実体基準を準備したのです。心情的な蕩減をするために、不孝者の立場に置かれている人類に代わって赦しの基準を立ててきました。
27 神様と心情的に通じ、神様を心情的に体恤しなければなりません。心情的な体恤をしていない人は、絶対に父の前に行くことができません。イエス様当時のイスラエル民族は、どうしましたか。神様の涙で立て、神様の血で立て、神様の汗で立てた彼らには、神様の心情を通した涙が残っていて、神様の心情を通した血が残っていて、神様の心情を通した汗が残っているにもかかわらず、選ばれたイスラエル民族は、それをすべて忘れてしまいました。
28 一片丹心で一つの道を行かなければならない運命にある私たちは、どのようにその道を行かなければならないのでしょうか。知恵で行くことができなければ汗と涙で、汗と涙で行くことができなければ血を流してでも行かなければなりません。私たちの汗を神様の汗として、私たちの涙を神様の涙として捧げなければなりません。血は神様のために、涙は人類のために、汗は地のために流さなければなりません。
そうして、神様と地と人類が出会うことができない怨恨の基盤を、一つ残らず片づけてしまわなければなりません。これが、私たちがしなければならないことです。「私」の生活感情が、「神様がするべきことは私がするべきことであり、私がするべきことは地がするべきことであり、私がするべきことは人類がするべきことだ」と言える立場にまで行き、さらには「私」を中心とした天的価値を謳歌することができなければなりません。
29 私たちは、生きていらっしゃる神様の存在を知り、サタンがこれ以上この世界を滅ぼす前に人類を救わなければなりません。「私」は、たとえ低い立場から滅ぶ立場に入っていくとしても、統一教会がこの民族と世界人類に提示できる材料をもつことが急務です。先生は、そのようなことを心配しているのです。その材料が必要です。歴史について提示できる材料、時代について提示できる材料、未来について提示できる材料が必要です。
それでは、その材料とは何でしょうか。それは血と涙と汗です。心情で通じることができる血と涙と汗、神様に涙を流させることができる血と涙と汗、民族に涙を流させることができる血と涙と汗です。一人一人が、世界の人々がそれを聞くとき、涙を流すことができる血と汗がなければなりません。
30 皆さんがもっている最も貴重なものは何でしょうか。それを何の後悔もなく、ためらわずに与えることができなければなりません。皆さんにとって最も貴重な所有物は、皆さんの涙と汗と血です。皆さんは、万物のために汗を流さなければなりません。天のために皆さんの血を注がなければなりません。人類のために皆さんの涙を流さなければなりません。これが原理運動の標語です。私たちは、このようなことを自由に分けてあげることができなければなりません。そうしてこそ、心霊的に一つになることができ、心情的に一つになることができるのです。
31 皆さんは、セメントとなり、砂利となり、砂となり、水とならなければなりません。皆さんの血と汗と涙を水に、皆さんの肉は砂に、皆さんの骨は砂利にしなければなりません。そうして、自分自身の基礎を堅固にしなければなりません。そのようにして固めた基盤は創造的なものなので、千年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、一万年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、またどんな団体が千年、万年努力しても崩すことができません。
怨讐を愛することと原理の道
32 イエス様は、十字架を背負いながらも、なぜ「怨讐を愛しなさい」と言ったのでしょうか。サタンを屈服させるものは愛しかないからです。神様を中心とした愛は、世界を救おうとする愛です。サタン世界の愛の圏内を奪ってこようというのです。神様の愛の目的は、サタン世界を屈服させることです。救援の目的は、神様が願う摂理のみ旨を完成することです。その摂理のみ旨を完成する骨子が愛です。愛をもってこの世界をサタンから奪還しなければなりません。
33 聖書で、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)とあるのは、悪魔につながった人間を愛しなさいということであって、悪魔自体を愛しなさいということではありません。私たちの願いは永生です。永生は、真の愛の道にだけあります。そのような神様の愛を中心として体と心がために生き、さらにために生きる道を行くようになるときは、そこから統一が起こります。
統一は、心が体のために生きるように、体が心のために生きるところからなされます。そのような場で与え合うようになれば、中央を中心として軸に従って必ず統一されるのです。この原則的な愛の軸と水平線が十字になったところに、自分の存在位置があるのです。
34 人間は、二つの血統が連結しています。一つは、自分を生んだ歴史的な先祖を中心としてサタンの血統に連結しています。この血統が生じた動機は、自分を中心とする自主的自覚性を採ったからです。それでは、神様の血統とは何でしょうか。自分ではなく、全体のために生きるものです。ために生きる血統です。ですから、傲慢な人は、永遠にサタンの血統圏を抜け出すことができません。その血統圏を抜け出そうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。世界の人は、すべて自分のために生きるのですが、天の側は反対です。自分のために生きようとしないで、全体のために生きているのです。堕落圏を抜け出すための表題は「怨讐を愛する」ということです。
35 愛を求めていくときは、心が先に行きます。ところが、相対ができないときには、今まで投入したすべてのものはなくなってしまうのです。ですから、神様は、神様の愛が成立する時まで、はらはらすることを続けていこうとします。中断はできないので、すべての細胞に愛をいっぱいに満たし続けて関係を結ぼうとするのです。そのようにして、完成する時まで続けて投入し、また投入する心をもって創造活動をしていきます。ここに、ために生きる哲学の根本論理があるのです。
36 神様が天地万物を創造したということは、自分のすべての愛の心情を投入したことを意味します。そのような神様ならば、そのような心をもった対象が必ず生じなければなりません。そうしてこそ、神様と人間の関孫が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は興隆するようになっています。良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、「お互いに愛し、お互いにために生きなさい」と言います。そして、宗教は、「人のために犠牲になりなさい」と教えるのです。