天聖経: 第79話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第三章 真の愛の実践
第二節 真の愛の実践 3-18
犠牲を通した真の愛の道
3 人の生命は、愛の理想を中心として宿ったものなので、人間の生命の本質は愛です。ですから、愛を本質として生まれた生命は、神様がそうされたように「ために生きる人生」を生きなければならないのが天理原則です。したがって、人間は、真の愛のために生まれた存在だと言うことができるのです。
真の愛は、ために生きるところから始まります。創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、そのまま感応しながら生きるようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様と感応し、体は自動的に心に共鳴するのです。体と心が闘わない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま引き継いで体感するところにあるのです。
4 神様の愛は、天の国に現れるのではありません。万宇宙、存在世界の前に現れ、人間の前に現れなければなりません。父母の愛も子女の前に現れるのです。夫の愛は妻の前に現れるのであり、妻の愛は夫の前に現れるのです。それが愛の公約であり、愛の行く方向です。その道に従わなければ、愛を成し遂げることはできません。
5 神様の愛のためには、神様も犠牲にならなければならず、人類も犠牲にならなければなりません。それが、私たちが行くべき道です。なぜそのように行かなければならないのでしょうか。神様がそのように行かれるので、私たちも神様と一緒に行くには、その道に進み出なければなりません。ですから、その道に行く立場は、「私」個人が家庭で神様と同参できる資格をもつ立場です。その次に、「私」の家庭が氏族と民族と国家と世界と天宙まで同参できる資格をもつ立場です。愛の世界を出発する時から愛の世界を過ぎていく時まで、そのような資格をもつのです。これは、神様の愛を中心として出発し、神様の愛を中心とする愛の方向に常に同参者になったと言うことができます。そうすれば、堕落圏を抜け出ることができるのです。
6 愛の道は、自分のために生きることではなく、自分を犠牲にすることです。愛する人の一言を聞けば、十年の苦労も克服できるのです。それは驚くべきことです。愛する夫や愛する妻と約束した一言を中心として、十年どころか一生の間も苦労できるのです。そして、その克服すべきすべての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であれば悲惨であるほど、約束した内容の愛は、より高い次元の立体的価値をもつようになるのです。
7 夫が妻のために犠牲になる心をもつようになるとき、妻は絶対的なその犠牲の前に、相対になるために、ひたすら努力します。嫌いながら努力するのではなく、心から喜びながら努力するようになっています。ここには苦痛がありません。犠牲はありますが、その犠牲は不幸な犠牲ではなく、甘くて奇妙な味が漂うのです。父母が子女を愛するところには、犠牲が同伴します。犠牲になって代価を払いなさいというのではなく、忘れるのです。与えて忘れるのが愛を通した犠牲です。神様は、今まで万民のためにたくさんのものを与えて犠牲になってきましたが、与えたあとはその犠牲の代価を忘れてしまいました。ですから、右の手がすることを左の手が知らないようにしなさいと言ったのです。何かをあげたのでこれを受けようと考える人は、愛の主人ではありません。与えて忘れる人が愛の中心者です。
8 人間は、神様が願う愛の道を探していかなければなりません。悪魔が願う堕落の道を否定し、神様が願う愛の道を探していってこそ悪魔が分立されます。知識があるといって、教理をもっと知っているといって、能力があるからといって、知恵があるからといって分立されるのではありません。愛がなければなりません。キリスト教が今まで残っているのは、犠牲になってきたからです。血を流してきたので残ることができたのです。
9 愛の道は、利用される道です。もっと大きな所に向かって利用される道なのです。個人は家庭に利用されようとし、家庭を引っ張って国のところに行って利用されようとする道です。また、国を引っ張っていって世界で利用されようとする道なのです。世界を引っ張っていって天地で利用されようとし、天地を引っ張っていって神様に利用されようとする道が真の愛の道です。
10 長い間、耐える道が宗教の道であり、長い間、耐えて犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲で、探し出された偉大な愛の世界のために神様を信じていくのです。神様が「愛」と言うとき、その裏には犠牲が宿り、忍酎が宿っているのです。
11 愛する人との愛や父子関係の愛は、季節に関係ありません。自分の愛する人のために涙を流すその涙は、春や夏や秋や冬などの季節を超越します。真の愛は、若い時代、中年時代、老年時代を超越します。永生することができ、永遠に喜び、永遠に幸福になることができる軌道のようなものが真の愛です。世の中に変動が起き、革命が起き、生死の境が変わることがあっても、愛だけは変わりません。いつも、そのような心情的な環境をつくっていかなければなりません。そのような環境を続けるためには、祈りの生活が必要です。そのようにすることによって育ちます。み旨の道を行くところには、愛の道を求めていくところには、監獄が問題ではなく、死が問題ではありません。死を克服し、困難を克服できる道が、真の愛を求めていく道なのです。
12 真が永存することができ、時空を超越して永続できる力に連結されるためには、神様の真の愛に連結されなければなりません。私たちは、愛のために犠牲になって相対的愛を立てなければなりません。夫婦を犠牲にして家庭を探し、家庭を犠牲にして氏族を探し、氏族を犠牲にして民族を探し、民族を犠牲にして国家を探し、国家を犠牲にして世界を探し、世界を犠牲にして天地を探し、天地を犠牲にして神様を探し、神様までも犠牲にして愛の道を行こうというのです。神様も犠牲になられるというのです。愛のために神様も犠牲になっていらっしゃいます。
犠牲になる人は中心になる
13 愛の道を探していこうとすれば、犠牲になり、奉仕をしなければなりません。犠牲と奉仕がなければ、十の愛をもってきた人が、百、千、万の道を行こうとしても、行くことができません。先祖が悪ければ、十の愛ももってくることができません。しかし、十の愛を持ってきた人も、百、千、万の道を行くことができる道があるならば、そのような道を一度行ってみたいと思うのです。
先生は、これを知ったので、ありとあらゆる辱めを受け、監獄に入って死ぬほどの苦痛を受けながらも耐えてきたのです。ですから、民族のために生きて愛することにおいて、誰よりも犠牲になろうとします。愛することにおいても、これくらい愛すればいいだろうと思っていても、先生よりも犠牲と愛の度数が高い人がいれば、先生は、その千倍、万倍犠牲になって愛さなければならないと思うのです。その道を行こうとするのです。そのような先生になってこそ、神様が愛を注いでくださるのです。
14 人のために犠牲になるところにのみ、愛の道があります。父母が子女を愛するときに、「私はお前を二十年間勉強させたので、お前は蕩減復帰の原則によって二十年間父母の犠牲になりなさい」とは言いません。自分の代価を計算することなく苦労すればするほど、そしてその苦労が極まれば極まるほど、子女は父母に対して愛の心をもつのです。その代価を要求しなくても、父母を愛さざるを得ないのが子女の本心です。
ですから、子女を愛する父母には不孝者がいないのです。父母を心配させる不孝者はあり得ないのです。子女のために犠牲になる父母には孝行者が生まれます。一国の国王が臣下のために犠牲になれば、その臣下たちは、忠臣になるまいとしてもならざるを得ないのです。ですから、愛の道とは、より苦労し、より骨を折れば折るほど、その価値が減少するのではなく、倍加するのです。これが愛の道です。
15 犠牲の立場に追いやるのが愛です。それ自体は納得し難いかもしれませんが、倒れて死んで祭物になる背後には、神様の愛が自分も知らない間に積み上がっていくのです。ですから、それを広げて氏族圏を越え、それを広げて民族圏に影響を与え、それを広げて国家の基準を越える日には、新しい国の旗を掲げて世界に向かって進軍できるのです。その目的に向かっていく道が、統一教会の道です。ですから、皆さんは、この国を自分の息子、娘よりも愛することができなければなりません。み旨に従っていく立場では、代表として責任を担って歩むときが多くなければなりません。
16 愛の道は犠牲を伴います。それは、相対の愛を完全に占領するためです。相対が完全に「私」と一つになることができ、私に順応できる基盤をつくらなければならないからです。愛のために犠牲の代価を払う人には、愛を中心として完全に一体になるのです。ですから、愛の所在地は自分ではなく相対です。私が優れているので妻や夫が私を愛するのだと考えてはいけません。
17 愛の根拠地は、自分自体にあるのではなく、相対にあります。ですから、相対の価値を一〇〇パーセント認めるところにおいてのみ、一〇〇パーセント愛の価値が現れるのです。愛の道では、なぜ犠牲にならなければならないのでしょうか。それは自分のものではないからです。相対という根拠地においているので、その根拠地に完全に一致できる条件を提示しなければ、愛の目的を違成することができません。ですから、完全な愛で愛そうとすれば、完全に犠牲にならなければなりません。完全な犠牲を越えていく愛の道には、完全な統一が展開します。
18 犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子とは、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になります。聖人の中でもより犠牲になる聖人が、聖人の中の中心になります。これが天理なので、この天理の道に厳粛に従っていき、すべての分野で和合できる人にならなければなりません。そうすれば、神様の新しい希望が宿り、神様の愛の力が加重されます。