天聖経: 第78話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第三章 真の愛の実践

第一節 真の人生の道 17-29

第二節 真の愛の実践 1-2

17 堕落した人間が行かなければならない道は、悔い改めの道です。ですから、私たちは、悔い改めの道を求めていかなければなりません。悔い改めない人が国を愛するという話はあり得ず、悔い改めない人が世界を愛するという話もあり得ません。悔い改めはどこで探すのでしょうか。人を通して探します。人を通して探そうとするので、メシヤが必要です。

そのメシヤとは、どのような方でしょうか。その方は、友人の中の友人であり、師匠の中の師匠であり、父母の中の父母として現れる方です。その方を心から愛するということは、その方が愛さなければならない世界と、その方が愛さなければならない天地を、愛していく圏内に突入するということです。その方と共に関係を結ばなければ、愛そうとしても愛せないのが堕落の子孫たちなのです。

 

18 皆さんは、すべての精誠を尽くして私たち人類が願い、天が願う真の善の母体となり、父母の中の父母となり、人類の見本になる愛の道理を果たさなければなりません。そのようにできない「私」自身を悔しく思い、悲しみと怒りを感じなければなりません。そして、怨讐の血を受けて生まれたという事実を知り、この汚れた血をすべて抜き取ってしまい、新しく天の前に捧げられる「私」とならなければなりません。

どんな受難の道や迫害の道があったとしても、真の「私」の姿を備えて黙々と歩んでいくことができる道があるなら、百回、千回の死の立場も喜びで迎えていかなければならないのが人間の行く道です。この堕落した世の中を否定する道理を経なければ、この道を訪ねていくことはできません。これが宗教の道です。

 

19 私たちは、神様の愛の圏内に生まれました。ですから、間違いなく神様の血統を通して、永遠不変の真の愛の道を行かなければなりません。体と心が分かれて、二つの分かれ道を行くのではなく、心が体を主管できる自制力をもって、自分の人生の道を行かなければなりません。ですから、修道をしなくても、行くべき道を自ら知って行くことができる人にならなければなりません。羅針盤も南北に向かう方向を失わず、ねずみも台風に遭遇して破損する船をあらかじめ知り、綱を渡って陸地に降りる知覚をもっているのに、万物の霊長である人間が、どうしてこのような姿になったのでしょうか。行くべき方向を失ってしまい、目的を知り得ない、凄惨な群像になったというのです。

 

20 人間が行かなければならない道は、個人の方向や、家庭の方向、氏族、民族、国家、世界の方向がジグザグにすべて分かれています。お金に付き従う人、知識に付き従う人、権力に付き従う人、このような人たちはすべてよこしまな人々です。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界が、永遠に変わらない一方通行の方向に決定される道が、真の愛の道です。

神様が人間を呼んで直ちに「来なさい!」と言う、その道が真の愛の道です。その真の愛の道は直短距離です。真の愛の道は、直短距離なので、まっすぐに行かなければなりません。ジグザグがありません。個人の方向は家庭の方向と、家庭の方向は国の方向と、国の方向は聖人の方向と、聖人の方向は聖子の方向と一致しなければなりません。そのような方向性をかけて一生涯修めていかなければならない修養の道が、堕落した人間が行かなければならない人生行路です。

 

21 堕落した人間は、個人が行かなければならない真の愛の方向を忘れてしまいました。悪魔の世界は、すべて体を中心とするのです。悪魔の愛は、自分を中心とした愛であり、自分だけのために生きなさいという愛です。天の側の愛は、その反対です。全体を中心とする愛です。ですから、死亡に向かう方向は、体が好む所を訪ねていく道であり、生命の天国に行く道は、心が好む所を訪ねていく道です。一八〇度違います。

 

22 生涯において、この地で行くべき道は、正道です。正道とは何でしょうか。個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様の正道がなければなりません。このような正道を行かなければならないのですが、たった一つの正道が本然の愛の道です。

 

23 堕落したあとの人間には、恨に満ちた運命の道があります。愛する家族に会うためには、数千万金を一朝一夕にすべて棒に振ったとしても、「お前に会ったことがどれほどうれしいか」という心をもたなければなりません。この体が苦しんで苦痛を感じることがあっても、「愛する兄弟一人を探し出すためなら、どんな所でも意に介さず行かなければならない」という心をもたなければなりません。このような理念を抱いて、イエス様のように地上でみ旨を成就できないで逝くことがあっても、この理念だけのために行こうという人は、必ず神様の愛に接するようになります。

 

24 堕落した人間が経ていかなければならない道は、どのような道でしょうか。この恨に満ちた歴史を退けて、「ハレルヤ、アーメン」と言いながら勝利の勇士として現れ、天宙的な父母に侍る場を経ていかなければなりません。その次に、天宙的な新郎新婦の基準を謳歌する場を経て、天宙的子女を愛する立場を経ていかなければなりません。これが堕落した人間が経ていかなければならない三大過程です。

国境が問題ではありません。東洋と西洋が問題ではありません。そのような人であれば父母も頭を下げ、そのような夫婦であればすべてが祝福してくれ、そのような子女であれば全体が頭を下げてために生きてくれるでしょう。そのような時が来なければなりません。そのような所とは、どのような所でしょうか。これから来られる主がいらっしゃる所です。そのような群れが、これから行く所が、天の玉座です。

 

25 人間は、愛の道を行かなければなりません。個人的に行かなければならない道、家庭的に行かなければならない道は、違う道ではありません。愛の道は同じ道です。古今東西を問わず、どんな民族でも、どんな国家でも、その道は同じ道です。違う方向ではありません。個人が行く愛の道でも、家庭が行く愛の道でも、数が多いだけで同じです。焦点はすべて同じ一つの道です。それが神様の愛の道です。

人間は本来、神様の愛が根源になって生まれました。皆さんは、本然の父母の愛を根拠として宇宙と連結できる驚くべき愛の道から生まれたのです。たとえ堕落したとしても、その根源は残っています。善を追求し、より価値があるものを追求する基準が残っているので、救援の役事(働き)が可能なのです。また、新しく発展できる起源が、そこから生じるのです。

 

26 神様が天地万物を創造され、人間に子女の権限を賦与して、理想世界、愛の理想を実現しようとした、そのみ旨を失ってしまいました。ですから、復帰摂理において、再創造歴史の過程を、神様の愛と神様の人格を中心として動かしてきました。人間的な愛ではありません。人間的な人格ではありません。神様の愛、神様の人格です。

なぜ神様の愛が必要で、神様の人格が必要なのでしょうか。神様の愛をもたなければ、サタン的な愛の世界を超越することができないからです。サタン的な愛がある世界には、神様の愛が介在できません。サタン的な人格の世界には、天的な人格が同伴することができません。神様の愛を中心とし、神様の人格を中心としてのみ、神様と共にすべての出発をすることができ、神様と共に経綸するようになっているのです。

 

27 統一教会は、蕩減法を学ぶ所です。「私」の荷物には、僕の僕の荷物があり、僕の荷物があり、養子の荷物がありますが、この荷物を降ろしていき、万民も引っ張って荷を降ろさせようというのが統一教会です。これが統一教会の偉大な点です。ですから、先生も天理を求め、本郷の愛の世界を訪ねていこうとすれば、この蕩減法を経ていかなければならないので、先生自身が僕の僕の役割から果たしました。先生自身が僕の役割を果たし、先生自身が養子の役割を果たしました。皆さんは、一人で行けばいいのですが、先生は、万物を抱えて行かなければならず、天を抱えてこの道を行かなければなりません。一つの目的に向かってすべての荷物を背負っていく一生を、すべて歩んだのです。

 

28 堕落した悪の先祖の世界が、地上世界の個人から天上世界の地獄まで門を開いたので、それをすべて撤廃する仕事を真の父母がしなければなりません。それをしようとすれば、世界史的な迫害を受けなければなりません。そのままでは解決ができないのです。打たれて復帰してこなければなりません。打たれてから、必ず損害賠償を請求するのです。善の人が行く道は、打たれて復帰してくる道です。いつも善の人は打たれました。打たれて歴史が過ぎたのちに発展するのです。天地の道理がそうでした。続けて投入するのでそうなのです。投入した人の道は、いつも入力よりも出力が大きいです。ですから、永生作用が続くのです。

 

29 私たちは、サタンと闘って勝たなければなりません。勝てない人は、天に帰っていくことができません。勝とうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。堕落したアダムが問題です。アダムができなかったこと、それ以上のことをしなければなりません。アダムは、神様を絶対的に信じることができませんでした。

ですから、アダム以上の人になろうとすれば、神様のみ言を絶対に信じなければなりません。アダムは、神様のみ言を中心として実践できませんでした。これが堕落です。神様を信じることができず、次に実践できませんでした。実践したあとには、神様の愛が連結されます。本来、堕落していない人間が行かなければならない道は、神様のみ言を信じて実践して越えることです。そうしていたならば、神様の愛が待っているのです。神様の祝福が待っているのです。

第二節 真の愛の実践

 

1 神様の愛の本質と和合できる内容を備えなければ、善にはなり得ません。愛は、自分が主体的な立場を強調するものではありません。対象的な立場を強調するのです。自分を主張していては、行くことができないのです。「私」一人が孤独になれば、国の主人にはなれません。必ず相対的価値を決定しなければなりません。男性と女性は、必ず家庭で公認を受けることができる人にならなければなりません。これが理想天国における組織の根本思想です。

男性が女性に絶対的な公認を受けることができなければ、理想世界で絶対的な公認を受けることはできません。一人の女性に世界的な価値を公認されない男性が、世界的な価値の世界を迎えるというのは矛盾です。そのような価値の世界を堂々と迎えるのに不足のない人、そのような家庭の主人公にならなければなりません。その家庭は、二つではなく一つです。その家庭は、主体になって氏族のために犠牲と克服の生活をしなければなりません。その目的は、自分に置くのではなく相対に置くのです。

 

2 愛の道は、あちらこちらに行ったりはしません。一つの道しかありません。愛の道は、二つの道ですか、一つの道ですか。一つの道です。一つの道だけを行くようになれば、これが通じないところはありません。愛の道は、貞淑な道であり、静かな道であり、司祭が祭事を捧げる瞬間がそうであるように慎重な道です。

Luke Higuchi