天聖経: 第77話
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もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第三章 真の愛の実践
第一節 真の人生の道 1-16
第三章 真の愛の実践
第一節 真の人生の道
1 本来の神様と人間の関係は、父子の関係です。神様が父母ならば、人間は子女の立場にいるのです。父母と子女は、愛を中心として結ばれています。母親と父親の愛によって生まれた子女は、父母の愛の場に同参するところから出発したということが偉大なのです。父母の愛を中心とするその中で、同参する立場で「私」の存在が始まったというのです。
ですから、子女は、父母の愛から生まれたので、父母が行く道に愛を中心として関係を結ばなければなりません。それにもかかわらず、今日、この地に住む人々は、父母の生涯、あるいは生活を経ていく人がいません。ですから、父母たち自身も浮き世の苦しみに悩まされながら、悲喜が交差する悲しみの峠を越える人生行路を歩んでいるのです。
人間が行かなければならない愛の道
2 人間は、愛で生まれ、愛の中で育ち、その次に、もう一度ほかの次元の愛に連結されますが、それは父母の愛を離れて、相対の愛を訪ねていくからです。父母の愛を蘇生的愛と言うことができ、夫婦の愛を長成的愛と言うことができます。夫婦同士がどれほど愛したとしても、子女がいなければ愛の完成を見ることができません。ですから、子女を願うのです。これが完成的愛です。
したがって、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が人生の根本であり、神様の創造的愛の理想の根本となる道です。真の愛を中心として成就された家庭の目的は、家庭だけのためのものではなく、天国を成し遂げるためなのです。宇宙が一つになるための標準を中心として、家庭から民族、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。そして、世界まで行ってから帰ってこなければなりません。
3 生命が先でしょうか、愛が先でしょうか。生命が先ではなく、愛が先です。ですから、あとのものは先のものに順応しなければなりません。ですから、愛のために生命を捧げるのは当然なのです。人間は、愛から生まれ、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければなりません。その愛は、大宇宙が歓迎できる愛です。
神様が公認し、天使世界が公認し、万物が公認し、すべての人が公認できる大宇宙の中で生まれ、その中で生きていき、その中で愛し、その中で死んでいかなければなりません。それが、人間が生まれた目的です。
4 人間は、愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。死ぬときも、愛のために死ななければなりません。したがって、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには、生命まで喜んで捧げるのです。
愛は永遠なのです。小説や詩のような文学作品を見ても、「変わらない愛、私の永遠の愛」という表現が多く見られます。このようなことを見れば、私たちは、瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠の愛を願うというのです。
5 愛は、神様も身動きさせない権威をもっています。神様も、愛には弱いというのです。全能の神様も、人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も、愛の話が好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すればどれほど喜ばれるでしょうか。私たちの体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。
目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻もにおいを嗅ぐために生まれましたが、においの中でも愛の香りを嗅ぐために生まれたのです。耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中で、いくら聞いても嫌気がしない好きな言葉は、「愛している」という言葉です。これは、若者も老人も同じなのです。
6 人間は、愛から生まれ、父母の愛で育てられ、相対と愛し合うようになります。また、愛を中心として子女を生み、育てて家庭と氏族を愛しながら、さらに大きな愛の世界に連結されます。
個人の愛から、神様の愛にまで連結されます。言い換えると、山奥に流れる小さな水の流れが、大洋に流れ入って黒潮とともに世界を生かすのですが、正にそのような水と同じです。ですから、愛の世界があり、愛の国家があり、愛の氏族があり、愛の家庭があり、愛の個人があるのです。
7 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。男性は、主体なので、誰かに干渉されるのを嫌います。女性は、愛することよりも、愛を受けることを好みます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するので、男性と女性が一つになることは、宇宙が一つになることなのです。愛によってのみ宇宙を主管できるので、自分の相対を宇宙よりもっと大きいと考えなければなりません。天と地、この二つの世界を永存しながら連結できるものは、変わらない愛です。地上において愛で結ばれた生を生きた人は、天国に行きます。愛を中心とする世界が霊界です。
8 神様と人間が完全に一つになれば、自動的に男性と女性は一つになるようになり、完全な夫婦が生じれば、天地は統一されるようになっています。それでは、神様は、どこにいらっしゃりたいと思うのでしょうか。愛は、男性と女性の間に生じるものなので、真の男性と真の女性が愛する所にいたいと思われるのです。神様がいらっしゃるので、その愛は永遠に存在することができ、永遠の統一を成し遂げることができ、永遠の生命をもつことができ、永遠の理想をもつことができます。ですから、その愛を探し出した人は、すべてのものを占領することができます。
9 家庭を愛し、国をもっと愛さなければなりません。家庭を愛するよりも国をもっと愛さなければならず、国を愛するよりも世界をもっと愛さなければならず、世界を愛するよりも神様をもっと愛さなければなりません。それが真の人生が行く道です。これが人類歴史において行かなければならない標準的な正道です。
このように行くことによって、「私」が落ちていくのではなく、家庭を土台として国に、国から世界に、世界から神様まで出ていくことができるのです。そうしてこそ、歴史に孝子が残り、愛国者が残り、聖人が残るのです。その次に神様の息子、娘が残るのです。人間の最後の目的は、神様の息子、娘になることです。そうすることによって、皆さんの欲望が最高に高まり、最高に幸福になることができますが、その幸福は無限の幸福であり、全体のための幸福です。そして、全体が「私」のために、全体が「私」を支持してくれる幸福の場に到達するのです。私たちは、この道に従って直行しなければなりません。
10 神様から出発し、神様へと帰っていくのが人類の行く道です。そのように、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙と帰っていくには、真の愛がなければなりません。真の愛がなければできません。皆さんの体と心の統一も、真の愛でなければできないのです。ですから、心は、体のために犠牲になりながら、それを忘れてしまい、また忘れ、また忘れてしまうのです。心は、神様を身代わりした立場なので、師匠の中の師匠です。その心というものは、神様が御自身を身代わりして派遣した「私」の中心です。縦的な「私」です。
11 人間が行かなければならない最後の道は、神様の愛を占領できる場所を探す道です。心の欲望は、世界を占領しても、それよりもさらに高い神様がいるなら、その神様までも占領したいのです。その神様を占領したとしても、神様の愛を占領できないときには、神様を失ってしまうかもしれません。
ですから、人間の最高の欲望は、世界を征服することでもなく、神様を征服することでもなく、神様を征服して神様の愛まで征服することです。優れている人も劣った人も、誰彼の区別なく、誰でも伝統の道に従っていくようになると、神様を占領することができます。誰でも神様の愛を占領できる息子となり、娘になることができるのです。結局、人間が行く最高の道は、神様の息子となり、娘となる道です。
12 「私」が出発する時、母親と父親の愛から出発しました。母親と父親の生命から出発しました。父母の生命と父母の愛が「私」に連結しているので、「母親と父親は私のものだ」と言うことができます。また、父母の立場から見れば、「お前は私の愛の延長であり、私の生命の延長なので私のものだ」と言うことができます。
神様の生命力が宿り、神様の愛が宿ったものは、神様の所有物になることができます。
堕落した人間の願いは、神様の対象となり、「所有物」になることです。神様の対象になろうとすれば、神様の生命と愛がなければなりません。それが私たちの願いです。それが、死のうと生きようと、人間が行かなければならない道であり、求めなければならない道であり、行って触れなければならない最後の目的地です。
13 本来、愛の道は、理想が宿ることができる道です。その理想は、神様が本来、人間を創造された時の創造理想です。愛は、最高に不可思議なものです。人間は、神様を占領しても安息しません。神様を占領したといって、喜んで満足するようになっていないのです。人の欲心は、神様の心のふろしき、心臓の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願うのです。永遠のこの愛を完全に占領すれば、人の欲心も、そのときには鎮まるのです。人間は、神様の愛を占領するための競技に出場した勇士たちなのです。
14 天国に行くには、神様を中心として、愛をすべて集めてから行くのです。家庭の愛を、その次に国家の愛を、その次に世界の愛を集めて天国に行って、神様を中心として一つにならなければなりません。そのように一つになれば、すべてのことが神様を中心として回るようになっています。
それでは、人生が行かなければならない所とは、どこでしょうか。孝子の道に従って、忠臣の道に従って、聖人の道理に従って、天の息子、娘の道を経て、神様の愛の場に行かなければなりません。そこに行って定着しなければならないのです。それが人間として生まれた最高の幸福の道であり、最大の完成の道です。すべてのことが、そのように構想されています。
堕落人間が行かなければならない真の人生の道
15 神様は、悠久な歴史を善人、善家、善民を通して摂理されました。過去の修道者は、サタンが行けない道を行きました。皆が嫌う道を行きました。心とは何であり、愛とは何であり、真とは何であるかを知るために苦難の道を行きました。これが、人間が行かなければならない道です。
16 神様の愛を受けなければならない人間が、祝福を受けて幸福を享受すべき人間が、どうしてこのようになったのでしょうか。希望の道、勝利の人生の道を行くべき人間が、どうして敗北の道、滅亡の道を行っているのでしょうか。人間たちがそのような道を行っているのは自らの責任だと考え、神様に代わって哀切な心をもち、心の中で哀れみの心情が湧き上がる人がいるとすれば、彼の行く道が苦労の道だとしても、彼はそこで勝利することができ、感謝する生活、神様と共に生きる生活ができるというのです。