天聖経: 第76話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第三篇 真の愛

第二章 真の愛の類型

第四節 子女の愛 10-18

第五節 兄弟姉妹の愛 1-6

10 子女がいなければ、孤独な人だといいます。愛を中心として、万宇宙を造られた主体であられる神様の心情的事情を、体験するためのものが子女だからです。子女は、「私」が動機になって生まれましたが、その子女を生んで愛することによって、「ああ、神様は、人間をこのように愛したのだなあ」と分かるようになります。子女を生んでみてこそ、父母に孝行しなさいと教えなくても、それを悟ることができるのです。

 

11 皆さんは、父母の愛に報いなければなりません。父母は、子女を育てる時、食べる物があれば、自分が食べられなくても、自分の飢えたおなかを握り締め、舌をかみ締めて、それを子女に与えます。その愛は、父母に対して同じようにできる子女として育てるためです。父母がまず苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台になって、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのような息子、娘となり、そのような息子、娘を生んでこそ善の血族として残されるのです。自分自身だけのために生きて父母を知らないというなら、その人は絶対に孝子になることはできません。

 

12 どのような人を孝子と言いますか。父母が「私」のために生きたことを、父母に対しても同じようにできるとき、その子女は孝子だと言うことができます。それは、天とも通じます。父母は、精誠を込めて育てたにもかかわらず、その子女が「自分は父母のことは知らない」と言うなら、その家は滅ぶのです。与え合う道理によって相対的基準が造成されてこそ回ってくるのであり、また、そのようになってこそ、神様がその場に臨在され、天国を成し遂げていけるのです。

それでは、天国で残れる子女は、どのような子女でしょうか。父母の愛を通して受けた恩は、自分自らが返さなければなりません。父母が年を取って老いたときは、自分が幼いときに大小便を拭いてくれた父母の心で、すべてのことに耐え、困難を困難と感じることなく、父母に侍ってこそ孝子になるのです。

 

真の子女の道理は孝

13 孝子とは何でしょうか。生涯父母のために自分のすべてを犠牲にし、自分の主体性を主張しない立場で犠牲になる人が孝子です。そうすれば、父母の真の愛が残るのです。真の愛の圏が残るようにしたので、孝が連結されます。その孝は、宇宙に向かって橋を架けることができるからです。

 

14 父母に孝行しなければなりません。孝子にならなければなりません。父母を中心として国の忠臣にならなければなりません。父母が、国を率い、世界を率いてきたからです。忠臣になる前に孝子にならなければならず、孝子になる前に真の兄弟を誇れる家族にならなければなりません。家族とは、兄弟間で褒めたたえることができる圏内を中心とする名称です。

皆、男性と女性が結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した以上の孝行をしなければなりません。結婚しなければ、真の孝子、孝女になることはできません。真の孝子、孝女には、結婚したのちに初めてなることができるのです。結婚して夫婦となり、その父母の前で、夫の孝行の心に妻の孝行の心をプラスして、父母に侍る孝行の心の基盤を備えてこそ、真の孝道圏を成立させることができるのです。

 

15 孝子になろうとすれば、いつでも父母の心の方向と一致しなければなりません。孝子の道を行く人は、父母とかけ離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右をしなければなりません。そこに異議があってはいけません。十度行き、十度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。

 

16 家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは、父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同参者になりなさいということです。父母の真の愛の道には、天倫がついていきます。父母だけが行くのではなく、見えない縦的な天倫がここに関係づけられて、共に行くのです。父母と一つになりなさいというのは、縦的な歴史と横的な歴史の心情圏をつなげていきなさいということです。これが父母に孝行することです。

 

17 皆さんは、父親に捧げる贈り物がたくさんあります。たとえ持っているものがなく、備えたものがなくても、神様に捧げることができる贈り物があります。それは、世の中の人々が楽しむようなものではなく、神様のために血を流し、涙を流し、汗を流す姿です。それが苦痛の父、悲しみの父、無念の父には、最大の贈り物なのです。

 

18 家庭を中心として見るとき、父母に孝行することが、息子、娘としての責任です。なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、国に対する忠臣の道と連結されるのです。国に忠誠を誓う人は、世界に対して聖人の道を行かなければなりません。それが一つの直線にならなければならないのです。このように見る時に、孝行はできなくても、国の忠臣になれば、その父母が「お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本当によくやった」と言うのです。父母を捨て、家を出て親不孝をしたとしても、国の忠臣になるときは、母親や父親が死んで霊界に行っても、「やあ、本当にお前はよくやった」と褒めるというのです。

 

19 どれほど愚かでも、父母と子女の間は直接に通じなければなりません。そのようにできなければ、父母ではなく、子女ではありません。孝子とは、父母の前で、得になることばかりをやって愛を受ける人ではありません。孝子とは、父母の悲しみに責任をもつために、困難な場を訪ねていって責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。父母が十くらい働いて、子女が十五も努力すれば、父母はその五に該当する喜びを感じるようになるのです。そのような分野をどのように補充し、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子です。

第五節 兄弟姉妹の愛

 

1 兄弟がなぜ必要ですか。男性は、妹や姉を見ながら、「母はあのように育ったのだなあ」ということが分かるのです。母親が育っていく姿を見るのです。また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、「父はあのように育ったのだなあ」と、その姿を見るのです。それが兄弟愛です。そのように育って一つになるのです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。

 

兄弟の愛は万民同胞愛のモデル

2 縦横を中心として連結しているのが兄弟です。アダムとエバを東西とすれば、神様とアダムとエバは縦的です。東西は平面にしかなりません。ですから、平面基準が必要であり、前後、すなわち立体基準が必要です。家庭愛を超越して拡大できるものは兄弟愛しかありません。それがあってこそ球形になります。

球形が成立するまでは、男性の最高の希望の基準と女性の最高の希望の基準が、創造のときに神様の心情圏内で願われた愛の実体なのです。息子、娘の実体です。天下を引き継ぐことができ、神様の代わりに愛を引き継ぐことができる息子、娘だというのです。その息子、娘は、兄弟の関係で育ちます。兄弟として育って上がっていくのです。育って上がっていく時、息子、娘は父母を訪ねていき、父母は息子、娘を訪ねていって会わなければならないのです。そのように会って完成するのですが、これは相対的な理念です。

 

3 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそ、すべてが理想的な球形になるのですが、そのようになれば、ぶつかっても衝撃がないのです。そうしてこそ、神様が考えたすべての実体がここに来て結実されるのです。神様の子女の理想が、ここに来て結実して一つになることによって、子女の愛の結実体になります。その次に、兄弟の愛の結実体、夫婦の愛の結実体、父母の愛の結実体になるのです。無形の神様が創造当時に構想した実体を、すべて成就すれば、神様と上下、前後、左右が一致できるのです。

 

4 男性は、生命の主体、生命の種ですが、女性がこれを受けます。ですから、男性と女性を東と西で表示するのです。東側から太陽が昇れば、西側で太陽の光を受けます。軸があり東西があれば、これは四つにしかなりません。上下と東西では、十字にはなっても円形にはなりません。それで必要なのが兄弟です。その兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されます。ですから、円形をつくるのは兄弟です。兄弟が拡大されて国民となり、世界になります。ですから、兄弟愛は世界愛と通じます。たくさんの兄弟が育つ家庭は、理想的な天国、地上天国と天上天国を造るモデルのようなものです。

 

5 世の中で、人々の間につくられ、忘れることのできない友愛のようなものも、平常時の普通の環境からつくられるものではありません。死ぬか生きるかの場で、生死が行き交う環境で、友人が「私」の生命の盾になって命の恩人になってくれるとき、その友人のことは、一生の間忘れようとしても忘れることができないのです。そして、自分が死ぬ時、自分の息子、娘に遺言を残してでも、その友人の恩徳に報いようとするのです。それが恩徳を受けた人としての道理です。そのような立場は、誰も干渉することができない立場で結ばれた、深いものにならざるを得ません。

 

6 天と和合して調和し、天を褒めたたえることができ、全世界が平等で、共に幸福に暮らすことを望む欲求の起源は、体にあるのではなく、心にあるのです。善に根をおいた心が願うことは、人類がお互いに怨讐と思い、お互いに争いながら血を流し、お互いに命を奪い合うことではなく、自由と平和と幸福が宿る中で、お互いに友愛を結べる関係をもって生きることです。これは、すべての人の願いです。

Luke Higuchi