天聖経: 第75話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第二章 真の愛の類型
第三節 夫婦の愛 38-47
第四節 子女の愛 1-9
38 真の愛は一つしかありません。初愛は、一人の夫を引き連れ、一人の女性を引き連れるのです。絶対的に一つです。ですから、絶対「性」という言葉なのです。フリーセックスを防御するためのものが絶対「性」です。まばたきする妻の目は自分のものですか。夫のものです。それをもってほかの男性を気にするようになれば、目が腐っていき、骨が溶けるのです。宇宙において、これを犯す日には赦しがありません。救いがありません。神様が追い出してしまいます。追い出して、数千万代後の子孫を通して復帰するのです。
39 貞操という言葉があります。韓国では、貞操のある女性を何で表現しますか。「春香」(チュニャン)です。韓国は、貞操のある礼儀の国です。妻を中心としては春香です。孝女を中心としては「沈清」(シムチョン)です。ですから、女性たちは沈清以上にならなければならず、春香以上にならなければなりません。卞(ビョン)地方長官が「寝室に来なさい」と言っても、その言葉を聞くことはできないのです。生命がずたずたに切り裂かれても、それはできません。愛のために生まれた生命なので、悪い愛によって犠牲になったとしても、結局は、光り輝く愛に復活するというのです。
40 女性の心の世界において、最も高まる領域、最高に悲惨な領域は、愛以外にはありません。女性がそうであるならば、男性はどうでしょうか。無愛想で、好き放題に生きるのが男性ですが、男性はどうでしょうか。愛の心は、男性が多いですか、女性が多いですか。恋わずらいになる比率は、女性よりも男性が高いのです。それは、男性にはかき抱く愛があるからです。女性は一方向の愛ですが、男性は四方を抱く心をもった愛なのです。四方の方向性を観測できる力があるので、愛の衝突も多いのです。
41 どれほど優れている男性だとしても、ある女性に惚れ込み、恋の病気にかかって死ぬほどの境地になれば、その男性は、金や知識、権勢などすべて捨てて、黄金の板に寝ていたとしてもそれをすべて捨てて、生きるためには体面も忘れてその女性のあとについていくようになります。そのように、神様が真の愛を好むなら、真の愛をもった一人の相手が現れる時、神様がどれほど神聖な方だとしても、その愛に従わなければならないのです。
愛の法は学んで知るものではない
42 人間が愛の舞台を求めていくときには、教育は必要ありません。男性と女性が結婚するとき、初夜にはどのようにしなさいと教えることはありません。性教育などがなくても、昆虫もよく知っています。万物の霊長として、夫婦で愛せない人はいません。ですから、教育は必要ないのです。男性と女性が愛に従って完成するときに教育が必要ならば、神様は、全能の神様ではありません。教育の必要がなく、天下万国と天下万象の世界を、いつでも超越できる資格を備えた道が、愛の道です。
43 皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、母親も子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、よく知っています。本当に神秘的なことです。
44 父母が子女を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。皆さんは、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは、手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないものが完全なものなので、完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に続くというのです。
45 「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。愛というものは、言葉では理解しきれません。父母の愛をどれほど説明したとしても、父母がいない人には理解できない境地です。夫婦の愛をどれほど説明したとしても、独身の人は理解することができません。父母の愛がいくら大きいと言っても、子女を生んで育てることができず、そのような体験をもてない人には、到達できない境地です。
46 人にはいつも刺激が必要です。刺激がなければ幸福を感じることはできません。刺激がなければなりません。いつも食べている御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新たな味がするように、夫婦間の愛も同じように、常に刺激を通して新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほど、もっと見たいと思い、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らについて研究をしなければならず、神様について研究をしなければなりません。
47 真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して分かるようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得できるのです。
赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を、段階的生活を通して経験し、体恤することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
第四節 子女の愛
1 父母が愛の原因ならば、その子女は愛の実であり、結実です。結実と原因は、遠く離れたところから出発したのではありません。結実と原因は、一つの場所から出発したのです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で「私」が結実として現れたというのは、どのような意味でしょうか。父母の愛の結果として登場したのが「私」だということです。ですから、愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、父子関係における子女だというのです。
父子関係は宇宙の根本
2 父子関係は、血統が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血統が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血統によって連結されなければなりません。血は、生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。それは正に愛によってです。
3 父子関係が、それこそ宇宙の根本でなければなりません。喜びはそこから芽を出し、そこから悲しみが始まるなら、それ以上の悲しみの場はないのです。
子女にとって、父母と向き合う喜びは、それこそ世界を代表する喜びにならなければならず、父母にとって、子女と向き合う喜びは、世界を代表する欲望を充足させる喜びでなければなりません。
外的な他の問題をすべて失ってしまうことがあったとしても、幸福に生きることができる希望の場は、父母の前には子女しかありません。
4 息子、娘は、父母の愛の同参者です。それでは、息子、娘はどこから出発するのでしょうか。父母の愛から出発するのです。ですから、その存在の世界で息子、娘は、父母の愛が一つになるその場に同参して、存在し始めるのです。
「私」はどこから生まれたのかというと、父母の愛が限りなく花開く場から生まれました。宇宙を総合した男性と女性として生まれた、その母親と父親が愛の花を咲かせるその場、喜びの場から一つの種として植えられたのが子女です。
5 「私」は、父母の本然的な愛の出発の根源に同参した者であり、父母の愛の結実として登場した者です。これは、原因と結果が一つの場所から出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な「私」の生命の愛の根源は、一つです。そのような意味から見るとき、愛を中心として「父子一身」という言葉が成立するのです。愛を除いては、一身、一体という言葉はあり得ません。愛が原因です。
私たちは、腹中から父母の愛を受けます。「私」が愛の本質によって腹中に宿ったその時間から、父母の愛と、すべての関心が集中するようになっています。なぜでしょうか。愛の結実だからです。ですから、愛で生まれ、愛から生命を引き継ぎ、愛を受けながら大きくなって、相対を迎えることができる時になれば、相対を迎えるようになるのです。
6 子女は、父母の愛、すなわち夫婦の愛の最高の同参者の権威をもって生まれた存在です。言い換えると、子女は、そのような共通の内容をもち、不変で統一的な内容の属性をもった愛を中心として出発した人間として植えられたのです。ですから、父母と子女の関係は、切ろうとしても切ることができないというのです。父母の愛と父母の生命の主体牲をもっているのが子女なので、これを切れば、自分を否定し、自分の生命を否定する立場に立つようになるので、その愛の結実を否定することができないというのです。ですから、父母は子女のために生命を捨てることができる、という論理を見いだせます。
父母の愛の同参者
7 私たちが生まれるようになったのは、母親と父親の愛からです。母親と父親の愛から出てきました。生命の連結の前に、血統の前に、愛によって血統が引き継がれ、愛によって生命が引き継がれたのです。
「私」というものは、なぜ貴いのでしょうか。生命をもっているから貴いのではなく、母親と父親の愛に同参したので貴いのです。愛は父母がしたのですが、愛の結実は「私」です。初めと結実をもって生まれたのが、母親と父親ではなく正に「私」なので貴いのです。
8 「私」は、父親と母親の二人の生命が一つに結合した生命の連結体だというだけではなく、父母の愛の同参者であり、父母の愛と一体です。さらに、「私」は父母の理想とも一体です。理想には、幸福や平和というすべてのものが入ります。父母としては、自分が世の中で成功した時の喜びが大きいとしても、失った子女に会った時の喜びとは比較にならないのです。子女は、父母の最高の理想と一体です。
9 「私」には、母親と父親の生命のひもが連結されていて、愛のひもが連結されていて、そして理想のひもが連結されていますが、このひもは、誰も切ることができません。神様も切ることができず、宇宙も切ることができません。かえって宇宙のすべての力は、それを擁護しようとするのです。私がどこに行っても、母親と父親がついてくるようになります。あの霊界でも、母親と父親はいつも一緒にいようとするのです。ですから、母親と父親が同行するのを嫌うのは最も大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為です。父母に侍っていくことを嫌うのは、既にその人が原則を外れて堕落していくことを意味します。ですから、父母を自分の体のように考え、愛し、父母に孝行することが、人間にとって最高に価値のあることです。それで「和睦した家庭に福が来る」という言葉もあるのです。