天聖経: 第72話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第二章 真の愛の類型
第二節 父母の愛 11-19
第三節 夫婦の愛 1-6
11 父母と子女の関係において、子女は母親の乳房を求めていきますが、愛を除いてそのようにすることができますか。できません。父母の愛を子女に感じさせ、子女を抱くことによって、自分の幸福よりも、天地がすべて平和の境地に入っていくことを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽生えることを感じるようになるときには、その子女が自分の胸に入ってきたとしても、それを許し、「さあ、そのようにしなさい」と言える、大きな度量のある心が生じるのです。ですから、父母は子女を無限に愛することができるのです。
父母の愛は真の愛の典型
12 父母は、子女を無限に愛することができます。ある意味では、子女は父母の怨讐です。ホースを持ってきて、自分の血と肉を吸い取る怨讐なのです。しかし、母親としての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激がその子を通して感じられるのです。そのような境地では通じる何かがあります。その境地は、他の誰かが意のままにすることができません。絶対的な愛に結び付けられるのです。絶対的な愛を中心として、自分のためではなく、神様のため、全体のための愛を中心として誓うその場には、何よりも強い基準が立てられるようになるのです。そのような基準の上に立たずに、ただ言葉だけで、または見て、聞いて、約束することだけでは駄目です。それは、いつ変わるか分からないのです。
13 父母は、子女を切ってしまうことができません。愛の共同体であり、愛の実だからです。すべてのものは、実を結びます。すべてのものは、結実を求めていくのです。結実を否定することはあり得ません。すべての木も、実を否定するものはありません。それは永遠を持続させるのです。この実は、母親と父親の愛の要素を、すべて引っ張ってくるのです。すべて動員させます。
ですから、それを見ればうれしいのです。「私」の中に永遠の「私」がいて、歴史があり、発展する「私」がいます。現在と未来の愛が連結するのです。父母が子女を愛するのを罰する法はありません。罰することはできないのです。宇宙が保護するようになっています。父母が愛する子女を抱いて喜ぶその場は、この宇宙の法が攻撃することはできず、保護するようになっています。
14 子女がおなかをすかせてやって来ると、母親の胸が膨れ上がります。胸が膨れて痛くなると、ばんばんに膨れます。おなかをすかせた赤ちゃんを抱いてお乳を飲ませる母親の気分は、言葉で表現することが難しいのです。膨れ上がっていた胸が縮んでくると、母親はすっきりして気分が良くなります。お乳を飲ませる味は、赤ちゃんと母親でなければ分かりません。また、赤ちゃんがお乳を吸って触るのを見るとき、母親の愛がそこからあふれ出ます。ですから、すべての喜怒哀楽の双曲線がぶつかる母親の心は、体験しなければ分からないというのです。
15 本然の愛は、父母が子女のために命を捧げることができる、そのような愛です。自分の生命を超えて愛するのです。本来、この宇宙が創造されたのは、生命のためではありません。愛のために造られたので、愛が先なのです。ですから、愛に一致する生命であって、生命に愛が一致するのではありません。したがって、真の愛は、命を犠牲にして命を超えて愛する愛です。それが天の愛であり、宇宙と通じる愛です。自分の子女のために命を捧げられる父母であれば、その父母は、この宇宙に二人といない真の父母だというのです。
16 子女をたくさん育てた父母は、愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子女をたくさん育てた人は、悪の怨讐も打つことができないというのです。それほど広い土台に立っていて、広い法度をもって生きているからです。
17 赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しに行きます。器量が良くても悪くても関係なく、母であればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖な姿なのです。人は、愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父母の愛とはどのようなものかということを、実際の実として見せたのが私なのです。愛の実であるがゆえに、父母は私を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。
18 父母と子女の間の愛は、父母から来ます。私たちは、生まれた時から父母の愛を受けます。父母が生きていらっしゃる限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代ということに関係なく愛を受けるのです。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛が各自に起きるようになっています。夫婦の愛が続くためには、子女を生んで愛さなければなりません。
父母は、子女がいなければ、真の愛が何なのか知ることができません。対象がいてこそ真の愛を感じられるのです。兄弟同士は、父母の愛がどのようなものかを知らずに育ちますが、成長して結婚し、子女をもつようになると、父母の愛を知るようになります。言い換えれば、父母で始まって一回転し、父母に帰って、初めて知るようになるのです。ですから、子女を生んでみてこそ、成熟した人になると言うことができるのです。
19 夫婦の愛を通して一つになることによって、神様と同じ立場で、創造の能力を備えたものが子女です。神様が創造されて、どれほど喜ばれたのかを私たちに感じさせるために、子女を愛する心を与えられたのです。このように見れば、神様は、最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです。永遠の神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように人間を造られたのです。そのようになることによって絶対的な神様のみ前に、人間は神様の愛を中心として永遠に相対の立場になり、別れようとしても別れることができない、幸福な人として生きるのです。これが人間の本然の姿でした。
第三節 夫婦の愛
1 愛には犠牲が伴います。愛の道は、流れていきながら犠牲になってこそ円満なのであって、自分が犠牲にならなければ、すべての四方の均衡が壊れるのです。夫婦の愛とは、家の中の均衡を取るための心情作用と同じです。自分が一人独自的に行動していては問題が起きます。夫婦の心情は、大きくなればなるほど、大きな分野で欠如したものを補ってくれるので、貧民窟にいる人々も、愛に対して夢をもって生きるのです。「私たちは、このような愛の立場を探すためにこのような立場に来たので、ここに幸福があるのだ」と言いながら、その立場に定着して生きようとするのです。
神様の愛を体恤する夫婦の愛
2 四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ、子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は、天下を一つのふろしきに包んだようなものです。ですから、夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができるのです。四位基台は、地上天国と天上天国の礎石です。天国は、一人で立てることはできないのです。
3 夫婦の愛を中心として一つになった立場は、創造当時に、アダムとエバと天地万物を造った、神様の愛を体恤できる立場です。この立場で、子女、兄弟、夫婦、父母の実体的な代身者として完成したので、最初の創造主である神様の立場と同じように、霊肉を中心として第二の創造主の立場に立つのです。そこには、子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛が詰まっているので、第二の創造主の立場、対象の立場に立つようになります。それで、創造の喜びを感じられるように、神様が与えてくださったのが子女です。子女は、天の国の王子、王女です。
4 神様の愛、父母の愛は、縦的な愛であり、男女間の愛は、横的な愛です。男性と女性が会おうとすれば、横的な愛を縦的な愛の上に接ぎ木しなければなりません。九〇度で合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結しない愛は放浪者の愛です。破壊されるのです。縦的な愛と九〇度で連結するときには、作用するすべてのものが、球形に影響を及ぼすことができる力として現れます。縦横が一致した愛の圏内に入っていけば、愛を中心として万宇宙を治めることができます。万宇宙と関係を結ぶことができます。そこには、知識も、権力も、お金も、生命も、必要ではありません。生命も、その中では永生するのです。
5 人間の価値を知らなければなりません。夫も神様の代身者であり、妻も神様の代身者です。また、母親と父親も神様の代身者であり、「私」という存在も神様の代身者です。夫は四代を代表します。祖父、父、夫、兄弟を代表します。この四つの愛を中心に、その代表として相続されたのが夫婦です。それで、夫婦の愛が貴いのです。
ですから、夫婦が壊れる時は、人類の愛、祖父母の愛、父母の愛、兄弟の愛も壊れてしまいます。人間は、宇宙で神様に侍って生きるようになっているからです。
「私」には、祖父の愛が芽を出すことができ、父の愛、兄弟の愛が芽生えるようになっているのです。千年、万年、生命の連結とともに、血統を通して横的な繁殖の基台の上で発展することによって、家庭を中心とする氏族、氏族を中心とする民族、民族を中心とする国家、世界、天上の国が形成されるのです。
6 結婚すると、皆さんの思いどおりにはできません。神様の愛に出会うために行かなければなりません。人間が男性として生まれ、女性として生まれたのは愛のためです。愛で夫婦が一つにならなければなりません。二性性相として分立されたものが合性一体化すれば、どのようになるのでしょうか。神様の愛を受けるようになります。
神様の愛に出会おうとすれば、女性は男性と一つとなり、男性は女性と一つにならなければなりません。そうでなければ、神様の愛に出会う道がありません。神様の愛に出会うことによって同位格に立つことができるからです。神様の横の立場に行って立つことができるというのです。
なぜ神様は、その愛を、アダムとエバに求めたのでしょうか。その愛を中心として神様と一つになることができるからです。夫婦の愛は、神様の愛を連結させるためのものです。神様の愛を受けるようになれば、神様と同等の立場に立ちます。男性と女性は、夫婦の愛という概念の前では、同じ立場に堂々と立つことができます。愛したあとには、二人が一人です。逃げることができません。いつでも連帯責任を負うのです。