天聖経: 第71話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第二章 真の愛の類型
第一節 祖父母の愛 8-14
第二節 父母の愛 1-10
老年に訪れる健忘症
8 老人ぼけした母親と父親を無視してはいけません。老人ぼけした母親と父親は、天上世界に行って、地上での生活のあらゆる不品行を忘れ、本心から湧き出してくる関係を整えて、後代に自分の息子、娘が来る時に備え、きちんと橋を架けて道を固めるために、父母の行く道を準備しているのです。ですから、ぞんざいに扱ってはいけないというのです。父母は、神様を身代わりした存在です。私たちの最初の先祖が神様です。生きている時に四代祖まで、高祖父、曽祖父、祖父、父を、神様のように侍らなければなりません。これらの方々を自分の夫以上、自分の妻以上、息子、娘以上に侍る家は、千年、万年続くというのです。
9 人間は、愛から生まれ、愛の実体になり、愛で始まって愛で終わらなければなりません。また、愛する人に出会って、愛する息子、娘を生み、その愛する息子、娘を愛しながら生き、再び幼子のようになって帰っていくのです。老人ぼけは、悪いことではありません。それを悪いことと考えてはいけません。そうなることによって、子女たちが以前に父母に世話になったことを、限りなく恩返しできるのです。
10 祖父と祖母の願いは、息子、娘よりも、孫と孫娘をもっと愛することなのです。息子、娘を育てる時は、忙しくて愛する暇がありませんでした。祖父と祖母になれば、そうではありません。霊界に行く準備をするのです。幼子と友人になるために、健忘症が生じて、すべて忘れてしまいます。純粋な子女に帰っていくのです。純粋な子女になって母親、父親を忘れ、兄弟を忘れてしまいます。
11 年を取ると、子女の友人にならなければなりません。孫が友人です。純真で欲望のない人になって、天国に帰っていかなければなりません。子女たちは、いろいろなことを知っていきながら大きくなりますが、祖父と祖母は、だんだんと記憶を失っていきます。零から出てきたので、零に帰っていきます。それは、本然に帰っていくのです。人格や誇りや欲望などというものがない立場で出発したので、その立場に帰っていってこそ天に連結されます。孫がいるその一族では、父母が子女を育ててくれたのと同じように、家庭と国が代わりに祖父と祖母に侍って、天に帰らせてあげなければなりません。
12 健忘症は、なぜ生じるのでしょうか。見える時代から見えない時代に移っていく境界線を越えるための準備をしなければならないので、年を取れば健忘症というものが生じます。単純になるのです。子女は、平面的な愛の正午に出会うために生まれるのですが、年を取った「子女」は、立体的な神様に会うために新しく生まれます。それは平面的な世の中から立体的な世の中に行くという意味です。自分が死ぬと、立体的な希望をもつために再び生まれるのです。女性と男性が一つになって、立体的な世の中に向かっていくのです。それで霊界に入っていきます。二性性相になって、神様の立体的な二性性相の主体を中心として、愛の正午に向かって前進するのです。新しい思春期に向かって出発します。
13 愛を中心とするようになれば、霊界と肉界の間隔が打破されるので、死亡の恐怖心から抜け出ます。死ぬことは、恐ろしいことではありません。どこに行くか知っているというのです。ですから、大概、健忘症が生じる年を取った人々は、あの世に対する関心がだんだん広くなっていきます。既に知っているというのです。「ああ、私はいつか行かなければならないのだなあ。整備期間なのだなあ」と理解するというのです。世の中のすべてのことを忘れて、きれいに整備してから行きなさいというのです。ですから、健忘症が生じたといって、いい加減に扱ってはいけないというのです。人生のすべての過去、先祖からの罪悪のすべてのことを清算できる自らの清算期間をおいて、自分の行く道を正すためのものとして、健忘症が生じるようになるのです。
14 人が六十を超え、七十になっていくと、精神世界が発達します。霊界に行くための準備をするためです。ですから、肉体のすべてのものを忘れて健忘症が生じるのです。それで、自分の体の中に潜在している以前に楽しんだ精神的意識は、愛することと食べることです。ですから、祖母と祖父は、ひたすら食べるものを探し、人が恋しければ泣くのです。それが人間の本能です。生命は、食べることで維持されます。生命と愛は貴いので、その表示として、愛の対象者と食べるものを恋しく思うのです。これは、創造原則による本能的な欲求なので、不可避なものです。
第二節 父母の愛
1 子女は、父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子女を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで、愛する息子に対して、「これは、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。子女は、愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的相対として登場するのです。
変わることのない父母の愛
2 伝統的で、縦的で、標本的な愛が、母親と父親の愛です。これは縦的です。縦は変わることがありません。夫婦の愛は、この縦的愛を横的に引き継ぐための愛なので、夫婦は離婚することはできても、父子の関係は切ることができません。天地の道理が、そうなのです。縦的な愛なので、そうだというのです。横は四方があるので、三六〇度回っていくことができますが、縦は一点しかありません。これは、移すことができないというのです。
3 愛の中で、最も貴い愛が父母の愛です。真の愛は、直短距離を通るからです。父母の愛は、真の愛を中心とした縦的な愛です。縦的な愛は、とどまる所が一つしかなく、分けることができません。その位置を変えたときには、天地がひっくり返ります。どれほど能力があって、どれほど良い手段でも、垂直に訪ねてくる愛を移せば、天地が暗黒天地、地獄になるのです。これは、直短距離を通るので、垂直にならざるを得ません。これに傷をつけることはできず、これを横に移すこともできません。ただ一つしかありません。絶対的です。父子関係は、縦的関係であり垂直的な愛の関係なので、分けることができないのです。
4 父母は、唯一であり、その次に、不変で永遠です。父母が変わることはありません。ですから、父母の愛も革命することができません。どれほど革命が起きるといっても、愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続します。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、「私」を絶対的に必要とするのです。唯一的に必要とし、不変的に必要とし、永遠に必要とするのです。
5 母親と父親は、息子、娘のために犠牲にしたこと、夜通し働いて食べさせ、学校に送って勉強させたことを、帳簿につけたりしません。「いくら使ったので、これが十年過ぎれば、銀行の利子ならいくらになる」と計算して取り立てようとはしないというのです。投入して計算するのではなく、すべて忘れてしまうのです。ですから、父母が良いというのです。最も良いのが父母の愛です。
父母がいない人を孤児と言いますが、孤児は悲惨なのです。根をもつことができずにいるので、方向ももつことができないのです。
ですから、犠牲になるところにおいてのみ、真の愛を探すことができる、というのが宇宙創造の原則です。
6 父母が子女を育てる時、赤ん坊の時から「お前がやがて大きくなって分別がつくようになれば、私がお前を育ててあげたことを覚えておかなければならない」と教育する父母がいたなら、その父母は正常な父母ではありません。そのようなことをするくらいなら、牛を育てて仕事をさせるほうがよいのです。自分の子女に、「私がこのように愛してあげたので、お前はそれ以上に私にしてくれ」と言う父母はいません。愛する人のためには、犠牲になるのです。与えて、もっと与えても、不足ではないかと感じ、与えても、もっと与えたい心があるのです。価値の究極を永続的に刺激することができ、未来の希望を続けて補充してあげることができる道が愛の道です。
7 堕落した世の中でも、母親の愛は、子女のために投入して忘れ、また投入して忘れ、奉仕し、犠牲になって子女が良くなることを願いますが、その子女が良くならず、老いて死ぬほど苦労しなければならないのであれば、老いて死ぬまでもっと投入し、投入することを続けるのです。それが母親の愛です。堕落した世界でもそうです。
そのようにして逝った父母であることを知るようになれば、お墓に行って、「この親不孝の子女を赦してください」と痛哭し、今からでも何倍も親孝行をしようと、一八〇度変わって孝子の道を行こうとするのです。手段と方法を通した道ではありません。これは、本当に血と肉を絞り出す愛の道においてのみ可能です。
8 子女に対する父母の愛は、ただそのまま生活的な関係だけで通じる愛ではなく、骨髄から湧き出てくる愛なのです。忘れるに忘れられず、切るに切れない愛の心を父母はもっているのです。それで、生命の余力がある限り、父母は子女を愛するのです。子女と生命の関係が結ばれていることを感じる時、父母には子女を愛する心が自然に湧き出るのです。「私の息子なので愛する」という意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりも先立つ自分の生命力が、子女と連結されているので、愛さずにはいられないというのです。
9 真の愛とは何でしょうか。ために生きる愛ですが、いくらでも与え、千年与えても忘れようとします。千年与えても忘れてしまうのです。記憶しません。愛の世界では、入力よりも出力が大きいのです。父母は、七十歳になった息子だとしても、その息子がどこかに出ていくとき、「きょうは車に注意しなさい」と言うことができます。九十歳の老年になるまで毎日のように繰り返したとしても、疲れることを知りません。それは、永遠に続けても疲れないのです。それが愛です。
堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の本質世界である神様の愛に属しているとすれば、疲れることがあるでしょうか。ここで初めて、私たちの人生において、真の神様の対象圏を確定することができます。神様の愛が永遠不変であることを知るようになるとき、私たち人間の愛を中心として永生の論理が妥当なものになるのです。愛を中心として見るので永生するのです。
10 父母が子女を愛するとき、「父母はこうでなければならない」というある固着した形式をもち、自分を主張する場において子女を愛するのではありません。自分を主張せずに自分を否定するのです。すなわち、自分がない立場から子女を愛するのです。言い換えれば、父母は、父母の権限をもって、いつも堂々とした立場で子女を愛するのではなく、父母の権限を忘れた立場、それ以上の立場で子女を愛するのです。そのような愛をもって子女の前に臨むのが父母なのです。