天聖経: 第70話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第三篇 真の愛
第一章 真の愛の根源
第四節 真の愛の力 58-63
第二章 真の愛の類型
第一節 祖父母の愛 1-7
58 数多くの境界線がありますが、この境界線をすべて打破できる、一つの中心ポイントとは何でしょうか。世の中では、お金のために境界線を打破します。知識のために境界線を打破されることもあり、また権力のために境界線を打破されることもあります。それを打破されたとしても、打破されたその国にもまた境界線が必要になります。ですから、知識も制限されたものであり、お金も権力も制限されたものです。この上下、前後、左右、過去から未来まで、東洋と西洋を中心として人類全体の境界線を克服できる一つのポイントが、真の愛です。これが真の愛の力です。これさえあれば、父親と母親の頭の上に踏んで上がってもよいというのです。愛を中心としては通じないところがありません。これは、この世界にも通じることができます。真の愛は、世界までも管理して、主管できるのです。
59 真の愛というものは、常に秩序を守って余りあるものです。それができる絶対的なものです。息子が父親と母親の立場を侵犯することはできず、息子と嫁の立場を父母が侵犯することはできません。それは絶対的です。お互いが完全な秩序を維持できる立場で、愛が起こらなければなりません。愛は無秩序なものではありません。真の愛には、必ず前後関係、上下関係、左右関係がすべてあるのです。それは境界線ではなく秩序だというのです。
60 愛の目で世の中を見るようになれば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜピーチク、バーチク鳴くのだろうか。ああ、愛する相対を慕っているのだなあ」と思うようになります。そこから詩が詠まれ、文学作品が出てきます。そこでは人生や生活の歴史的事情が反復し、再現するというのです。普通の人は、流れていく水が、ただ地形に従って曲がりくねって流れ、岩があればぶつかって水しぶきを出しながら流れていくとだけ見ています。しかし、それが愛を中心として流れていくことを知れば、千年を経ても残る詩が詠まれ、小説が作られるのです。ですから、愛の息吹も、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて良いのです。
61 愛を通して人間世界に幸福が始まります。人間自身が成し遂げようとする完成や理想実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。宇宙万物は、愛を基礎として生きていきます。万物は、神様の愛を中心として始まりました。被造世界の中心である人間は、より一層愛を中心として出発したというのです。愛から出発し、愛によって成熟した基準を通し、愛を通して社会生活をし、愛を完成して霊界に帰っていくようになっているのです。
62 世の中のすべてのものは、一度与えれば、なくなってしまいます。しかし、愛は、与えれば与えるほど、さらにたくさん帰ってきます。ですから、愛を好むのです。愛には、いつも与えることができ、満たすことができるので、いつもうれしく、楽しむことができる内容があります。お金がどれほど良いといっても、与えてしまえばなくなり、権力がどれほど良いといっても、使えば擦り減るのです。知識も限界線があります。しかし、愛は与えれば与えるほど、無限に通ずるようになるのです。
63 永生は、何から始まるのでしょうか。神様の愛です。その愛は、神様のお金でも権力でも知識でもありません。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言には、一つ抜けています。それが最も重要な「愛」です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である」としなければならないのに、「愛」が抜けました。これを、これから聖書に載せなければなりません。このようなことを言えば、無知な人々は、「なんと不敬な者か」と考えるでしょう。しかし、神様に尋ねてみると、「そのとおりだ」と言われるでしょう。このように見るとき、神様は、愛を好まれるのです。愛の中でも、真の愛を好まれます。これは理論的です。盲目的ではありません。
第二章 真の愛の類型
第一節 祖父母の愛
1 韓国の家庭制度は原理的です。血統もそうであり、歴史もそのようになっています。祖父と祖母、母親と父親、その次に自分、三代が一つの家庭で生活しています。神様が自分の孫を愛してみることができず、アダムが自分の息子、娘を愛することができなかったのが堕落です。アメリカの家庭では、自分の息子、娘の家に行くのも自由にできません。孫や孫娘にも思いどおりに会うことができず、自分の息子、娘の家に、まず電話をしなければ行くことができません。世の中に、そのような道理がどこにありますか。それを見ると、どれほど悲惨でしょうか。父母よりも孫を愛するのが祖父母です。神様も、孫を愛することができませんでした。祖父は天国の大使と同じです。神様の代身者だというのです。祖父は、神様の代身者であり、母親と父親は、世界の王を代表した方であり、「私」は、未来の天の国の世界の王なのです。これが統一教会でいう三大王権です。
孫に対する祖父母の愛
2 家庭を中心として見るとき、その家庭を良い家庭にしようとすれば、父母と息子と孫が心情一体を成さなければなりません。その家の中でどのような複雑な問題が発生したとしても、父母が息子を愛する心、あるいは祖父が孫を愛する心は、変わることがあってはいけません。皆さんの心に、このような絶対的な基準を立てて、断片的な個体の生活観、あるいはそのような環境を抜け出て、四方性をもたなければなりません。
3 祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は祖母、祖父と一つになるべきです。祖父と祖母は、神様と同じ立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を探すことができません。これを立てたのちに、横的なものが生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができます。縦的なものは一つの点では動くことができますが、分離することはできません。
4 祖父と祖母を愛し、父と母を愛し、息子、娘を愛する心には差がありません。同じ愛です。祖父と祖母の部屋に孫が入っていっても、祖父は喜ぶようになっていて、父母が入っていっても喜ぶようになっています。このような原則において、祖父と祖母は、孫をもっと愛するというのです。ですから、孫が育つ時、母親や父親よりも祖父と祖母が育ててくれることを願います。道理、原則、公式がそうだというのです。家庭は、このように、四位基台の理想を中心とする球形を備えた平均的愛が一体化した世界なのです。統一された世界が理想的家庭にあるのです。
5 神様は、真の愛の前であれば、ひざまずいて、這って歩くこともできるのです。愛する孫のためならば、祖父は、喜んで孫を乗せる馬にもなります。髪の毛をつかんで頭の上に上がっても、「そうか、乗りなさい、乗りなさい」と言うのです。「天地」が「地天」になり、「父母」が「母父」になり、「父子」が「子父」になってもよいというのです。愛は、そのように上から下に行っても、下から上に行っても、すべて和合できるのです。ですから、真の愛をもてば、天国の何であろうと手に入れることができるというのです。
6 神様は、恐ろしい方ではありません。神様は、最も近いのです。神様に会えば、神様の背中に乗って、神様の髪の毛をつかんでも神様は喜びます。孫たちが祖父の髪の毛をつかんで背中に乗っても、愛する孫なので喜ぶのと同じです。神様は、私たちの父母ではないですか。分かってみると、神様は、恐ろしい方ではないのです。世の中で最も近い方が神様です。父母よりもっと近く、夫よりもっと近く、息子よりもっと近い方が神様です。そのような神様を知り、最も近く、最も尊く、「私」と共に永遠に一緒に生きる方であることを知るようになるときに、万事がすべて都合良く運ぶのです。
7 祖父は、孫に会う時間が最もうれしいのです。ですから、健忘症が生じるのは、幼子と友人になるためなのです。愛の心、美しいものを愛する心を大きくするためです。ほかの考えはすべて忘れて、愛の心を、孫を愛する心を育てていくのです。それは、あの世に拍子を合わせるためのものであり、神様の創造過程なので悪いことではありません。健忘症が生じて、すべて忘れるのです。しかし、愛する人だけはもっと愛し、もっと会いたいと思うのです。そうして、あの世に行って高い立場に上がっていくのです。それが神様の愛です。