天聖経: 第65話

第三篇 真の愛

第一章 真の愛の根源

第二節 真の愛の根源 35-43

第三節 真の愛の属性 1-10

 

35 原因のないところから結果が出てくることはありません。体と心は父母から出てきます。母親と父親の愛によって、母親と父親の生命体が和合するようになります。愛は、すべてのものを調和させます。母親の内的な体と心、父親の内的な体と心が、真の愛を通してお互いに調和します。生命力が一つの扇の要のようになって、愛を中心として血統が連結されます。

「私」が生まれるようになった最初の動機は、母親と父親の生命ではありません。その母親と父親の生命が愛によって連結され、血統を通して生まれます。母親の血と父親の骨を受けて血肉を連結させ、十ヶ月が過ぎ、血統に従って母親と父親の生命力をもって生まれます。生まれた「私」の根本は、皆さん自身ではありません。根本は母親の生命であり、父親の生命です。その生命を一つにしたものは、生命に先立つ愛なのです。ですから、この世の中のすべての存在の起源、創造された存在の起源は愛から始まったというのです。

 

36 神様がアダムとエバを造った時、愛という概念がなかったなら、どうなったでしょうか。神様の愛の概念に合うように生まれたのがアダムとエバです。凸と凹は創造された時からそのようになっていたのです。ここには進化がありません。進化が成立しないのです。愛という概念のために雄と雌が生じたという事実は、進化を超越した概念なのです。

37 皆さんは、愛と生命と血統という、重要な三つの本宮をもっています。どのようにしてこの三つを完全に一つにするか、ということが本宮の目的です。それは、愛によって一つにするのであって、それ以外の他の道はありません。その場は、最も秘密になっていて、神聖な所です。ところが、なぜ悪化してしまったのでしょうか。堕落したからです。堕落したので、愛の王宮を破壊し、生命の王宮を破壊し、血統の王宮を破壊しました。そうして、その場は、かえって最も悪いものになり、恥ずかしい場所になったのです。

 

真の愛の中で暮らすことが人間の願い

38 愛と関係のある所に対しては、私のすべての神経が衝撃的な刺激を起こします。すなわち愛は、私をして最も近い所にいさせようとします。愛というものは、最も近いと同時に、私と離すことができない関係をもっています。そして、私に喜びの刺激と衝動を伝達してくれます。ですから、私たちは、懇切な心をもって「会いたい」と言い、懇切な心をもって「行きたい」と言うのです。

 

39 愛は、すべての感覚を集中させて、一点に結ぶ力として現れます。目は「ああ、見たい」と言い、耳は「ああ、聞きたい」と言い、口は「ああ、食べたい。話したい。学びたい」と言うでしょう。これだけではなく、すべての細胞が、そこに動いていこうとするのです。高い頂で避雷針が雷に合うのと同じように、神経のすべての感覚を避雷針のように束ねるための作用が愛の作用です。

愛の心が宿るようになると、すべての感覚は、一カ所で衝動を受けて作用するようになります。一度に作用するというのです。目は目なりに、耳は耳なりに、鼻は鼻なりに、手は手なりに、すべてがこのように作用します。そのようになるのは、「私」のためではなく、愛する人のためなのです。

 

40 自然は人間の母親です。ですから、その母親から供給を受けて生きるようになっています。このように供給を受けて大きくなるのです。腹中で水の中で生きていたのと同じように、地上で空気の中で生きるようになります。それでは、何を中心として生きるのでしょうか。愛を中心として生きます。ですから、いつも愛が問題です。父母の愛、妻・夫の愛、息子、娘の愛ですが、この愛が問題です。生命の一要素は空気です。

母親のおなかの中でも空気を吸収しなければならず、出てからも空気を吸収しなければなりません。母親のおなかの中から地上へと、方向が変わっただけであって、空気を吸収しなければならないことは同じなのです。それでは、人にとって第一の生命要素は何でしょうか。それは愛です。

 

41 なぜ人間が生まれたのでしょうか。「愛のために生まれた」という一言がすべてです。その愛が真の愛です。真の愛とは、堕落した世界の愛を超えた愛です。すべての宗教は、真の愛の世界に到達するのが目的なので、宗教の中の宗教であるキリスト教が語る愛は、世の中の愛の限界線を超えたものであると主張しています。それで、イエス様も、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ一四・二六)と言いました。自分の父母や妻子、あるいは誰よりもイエス様をもっと愛するまではイエス様の弟子になることができないとは、どういうことでしょうか。弟子というのは子女を意味するので、堕落線を乗り越えなければ天と関係を結べないということです。

 

42 真の愛は、横的な水平関係だけではなく、縦的な垂直関係も成り立ちます。真の愛の横的関係が縦的にだんだんその次元を高めると、結局、その頂点に到達するようになりますが、その場が真の人の王である神様の立場です。その立場では、すべてのものが結合して、抱かれ、愛と化して花開くことができるからです。ですから、宇宙の中にあるすべての存在は、愛で和合することを願い、愛の中で生きることを願うというのです。愛のために生まれ、愛のために生き、愛のために死ぬというのです。

 

43 真の愛は、人間だけでなく、すべての万物も願います。万物の霊長である人間には、神様が造られた傑作を抱いて愛するだけではなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があります。万物は、このような主人を求めています。このような基準から私たち自身を照らして見ながら、自分を恥ずかしく思うことができなければなりません。

ダーウィンの「弱肉強食」という言葉は、このような真の愛の論理で、もう一度解釈されなければなりません。ですから、ありや小さな虫までも真の愛を願うだけでなく、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。このような原則から、神様の愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物を食べて摂取できる立場にいます。このすべてのものを食べて摂取するときに、これらを造られた神様の真の愛の心で、食べて摂取しなければなりません。

第三節 真の愛の属性

 

1 愛には終わりがありません。すべて終えたという終わりを感じる愛は、愛ではありません。愛する夫や妻に、「あなた、私を愛していますか。愛しているのなら、どれほど愛していますか」と尋ねた時、夫や妻が「このくらい愛している」と言えば、気分が良くないでしょう。愛には終わりがないからです。自分だけのために生きる人々の愛は、一日もたたないで終わります。

なぜ夫婦がけんかをするのでしょうか。お互いが愛を受けようとするからです。お互いが愛を受けようとする者たちは長続きしません。しかし、お互いが愛そうとする家庭は、祭祀を行って「壊れろ」と呪っても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は永遠なのです。

 

絶対、唯一、永遠、不変の真の愛

2 創造主が男性と女性を造った目的は、愛のためです。真の愛とは、永遠で、変わらない愛のことをいいます。たとえ時代が変遷し、いくら環境が変わっても、その愛は変わらないのです。唯一で永遠、不変性をもった真の愛の理想を果たすために、男性と女性を造ったのです。それは、人間を中心として創造したのではありません。根となる神様を中心として創造が始まったのです。ですから、このすべての被造世界は、愛ゆえに生じたのです。

巨大な地球が数億年の間に一秒も狂わないで回っているのは、驚くべきことです。一秒違っても大問題です。このように真の愛は絶対的であり、永遠、唯一、不変なものなのです。

 

3 元来、愛というものは、人間の愛ではなく、永遠不変な神様の愛なのです。神様の愛に接して、神様を「私」の主人として侍るその瞬間、その方と一つになるのです。神様と「私」が与え合う喜びの場に入っていけば、世界を征服できます。「私」が神様と一緒に楽しめる場面は、天上天下のすべてのものを所有して喜ぶ、それ以上の喜びに酔いしれる場面だというのです。もし、人間がそのようなことを体験すれば、この体のすべての肉的五官の刺激は問題にはならないのです。

 

4 真の愛は誰もが願います。千年、万年たっても真の愛を嫌いにはならないのです。それを革命しようとする群れはいません。それでは、真の愛とは、どのようなものなのでしょうか。世の中で未婚の女性や未婚の男性が好むような一時的な愛ではありません。神様が介在しているので、永遠性、唯一性、不変性が連結されています。太陽系で太陽を中心として惑星が運行しているのを見ると、それは変わらないのです。地球は、太陽の周囲を一年に一回ずつ回っていますが、数億年の間、このように、一秒も狂うことなく回っているのです。

 

5 皆さんが生まれたのは、母親と父親の愛があったからです。原因がなく結果が出てくる道理はないというのです。ですから、天地のすべての生命は、自分のものではありません。皆さんを中心として、もっと大きな神様の目的があるというのです。愛は永遠です。しかし、愛も、天理の法度に違反しては出てくることができないというのです。ですから、愛の法度を守らずに出てきた人は、いるはずがないのです。一個人を中心として、愛が出てきたのではありません。母親の愛は、神様の愛です。姉と弟がお互いにけんかをしたとしても、母と父がいれば平和です。同じように、人間世界にも愛の母親がいなければなりません。しかし、人間の世の中の愛を見たり、宇宙間の愛を見ても、愛の母親がいません。元来はいたのですが、人間はそれを失ってしまったのです。人間が失ってしまったもの、これが正に神様の愛なのです。

 

6 真の愛とは、永遠に続く愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、老年時代にもその愛、永遠の世界である霊界に行ってもその愛なのです。変わらない愛なのです。

 

7 愛は、絶対、唯一、不変、永遠性をもっています。このような内的な属性の要素をもっています。このような全般的な面で、共通して関係を結ぼうとするすべての属性の根本は真の愛以外にはないので、どれほど絶対的で唯一無二の神様だとしても、真の愛の前では、「関係を結ばない」とは言わないのです。「関係を結ぼう」と言うのです。

 

真の愛だけがもつことができる特権

8 統一教会は、何をする所なのでしょうか。縦的には神様に侍り、横的には真の父母に侍って、完全に共鳴した場で、真の愛を受け継ごう、相続しようというのです。この真の愛の属性には、愛に同参(一緒に参加すること)できる同参権と相続権があります。その次には、同じ立場に立てる同位権があります。また、愛を受けるならば、どこでも一緒に行くことができるのです。どこに行っても同参する権限があるのです。このように、真の愛の属性の中には三大属性があるのです。愛の関係を結ぶようになれば、同位権、同参権、相続権をもちます。すぐに同じ立場に立つのです。

 

9 真の愛に接するようになれば、同位圏に立つことができます。父親と息子は立場が違います。しかし、父親の前で愛する孝子は、同じ立場にいつもいることを父親も願い、息子もそうであることを願います。そのような時に父親は、「息子よ、お前は子女なので立場が違う。自分の位置に帰りなさい」とは言いません。立場が違ったとしても、いつも同じ立場に座ることができる特権があるのです。愛の属性は、権威がいつも同じだというのです。その場には同参権があるのです。

 

10 真の愛と一つになると、同位権と同参権をもちます。どこであれ、離れないで夜も昼も一緒に参席できるのです。愛する人が大統領になれば、大統領の夫人として、彼が貧民窟を訪ねていったとしても一緒に行くことができ、どこでも同参することができます。その次に、相続権があります。これは、宇宙万民に共通に賦与された法です。公式です。ですから、私たちの心も、自然とそのようなことを考えるのです。

 

 

Luke Higuchi