天聖経: 第64話

第三篇 真の愛

第一章 真の愛の根源

第二節 真の愛の根源 17-34

17 偽りの愛と真の愛は、どのように違うのでしょうか。偽りの愛は、始まってからどんどん下がって落ちていく愛であり、真の愛は、始まってだんだん上がっていく愛です。とても大きいので、どこまで上がっていくかといえば、大きな世界までです。どんどん包括するのです。そのような無限な抱擁の心、かき抱いてあげる抱擁の心、「もっとかき抱こう。もっとかき抱こう」という心の本質作用をもっているものは、愛以外にはありません。真の愛以外にはないというのです。

18 愛というものは、行っても行っても終わりがありません。父母が子女を愛することには終わりがないというのです。父母がすべての精誠を尽くして子女によく食べさせ、よく着せ、内外に思い残すことなく育てたとしても、もしその子女が死んだなら、「私はお前のためにすべて与えた」と言う父母はいません。愛の道とは、本当に良いものを与えても、恥ずかしさを感じるものなのです。良いものを与えても、それを自慢の条件と考えるのではなく、頭を下げて恥ずかしさを感じるのが愛なのです。

真の愛の本質は人のために施すこと

19 真の愛とは、どのような愛でしょうか。真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与える愛です。与えても、与えたという事実自体を記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。ですから、母親は赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませ、喜びと愛の心情を感じるのです。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的な愛です。

20 真の愛とは、ために生きる愛です。真の愛は、愛する人が自分よりも気高いことを願うのです。自分の愛する妻や子女が、自分よりも立派になることを願うのが、すべての愛の本質です。人間の世界においてそうなのです。愛する人が父母よりも気高く、神様のように気高いことを願うのです。神様も同じです。神様のみ前に相対的な立場にいる人間を、神様は自分よりもっと愛するのです。神様は、投入して忘れてしまいます。これが神様の本然的な愛なのです。

21 愛の本質的な性格は、自分のために生きるのではありません。ために生きようとするところに、愛は繁殖します。自分を中心とした愛は消耗しますが、ために生きる愛は繁殖するのです。大きくなっていくのです。ために生きて愛そうとするところでは、繁殖が起きてどんどん拡張しますが、自分のために生きようとする愛には、ますます縮小が起きます。愛の本質は、ために生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようとする時は、だんだん小さくなっていくのです。

22 真の愛は、与えて記憶するものではありません。自分のために生きるのではありません。真の愛は相対のためにあります。ですから、愛するのに、「まず自分を考えてから、お前のことを愛そう」というような立場に立ってはいけないのです。愛したあとも恥ずかしさを感じる人、それ以上に多くのことを感じる人は、愛の原則の合格者になることができますが、「私がお前を愛したので、お前も私を愛さなければならない」という人は、理想的な愛の原則に符合しないのです。

23 子女を愛する父母は、子女を愛する時、「私は、お前にいついつの日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したが、その価値はいくらだ」と言いながら、帳簿に記したりしません。父母が子女を愛するところでは、世の中のどんな王宮の王子、王女よりもよくしてあげたいと思う心から、「私が精誠を尽くしても、これくらいしかしてあげることができなくて申し訳ない」と言いながら与えるのです。それ以上に、もっと良いことをしてあげたいと思う心を父母はもっています。ですから、父母の愛を喜ぶのです。父母の愛は、与えても不足さを感じて、愛してもまだ愛していないことがないだろうかと思ってもっと愛したい心、与えたあとにも「不足で残念だ」と思う心があるので、永遠の愛と通じるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。

24 真の愛は、誰でも願うものですが、愛というものは、ために生きてあげることによって可能になるというのが原則です。相対のために奉仕し、犠牲にならなければなりません。「私のために生きよ」という心で人に対するようになれば、皆が逃げてしまいます。利己的な個人主義は、サタンの戦略であり、目的であり、道具です。その結果は、地獄です。全体のために生きなければなりません。人のために、全体のために犠牲になり、奉仕するようになれば、皆が来て「私」を愛してくれるのです。

25 父母の愛はなぜ貴いのですか。これは、縦的な愛ですが、縦的な愛で終わるのではなく、横的な愛が宿るように努力するからです。父母の愛は、子女が間違った道を行かないかと、生活を通して子女の手本になろうとする内容を備えています。縦的な愛は、必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛も、このような原則によって神様の愛を中心として、縦横に集約してできているのです。

このように縦横の要素に責任をもっているのが父母の愛なので、自分の貴いものをそのまま子女に与えようとするのです。そのまま受けさせて、横的に広げようとするのです。愛の本質は、そのようなものです。なぜ愛の本質はそのようになっているのでしょうか。相対的な関係からできているのが愛なので、そのようにならざるを得ません。主体と対象の関係は、そうでなければならないのです。主体と対象の間は、お互いに授け受けして円形を描くのです。主体は縦的であり、対象は横的なので、これが九〇度の角度になって円形を描くようになります。

26 神様の愛は、縦的な愛です。しかし、神様の愛は、縦的な愛だけで終わるのではなく、横的な内容をも備える愛なので、横的な息子、娘の前に現れるのです。その息子、娘が縦的な基準で広がるだけではなく、横的にも広がっていくことによって、そこで万有の存在が縦的な環境を中心として、横的な環境に広がっていくようになり、世界と天宙にまで広がっていきます。この愛の心が動機になって、世界を治めよう、何をもとう、何をすればよいという考えをもつようになります。それは、私たちが知らない中で、縦横の愛が自分の本質的な心の根本に描かれているからです。その本質的な欲求によって、人間の欲望が充足される、という事実を否定することはできません。

真の愛は生命よりも貴い存在の起源

27 父母は、子女が死ぬ境地にいれば、その子女を救うために自分の家にあるすべての宝物を、その子女の生命と取り替えようとするでしょう。このようなことを見るとき、宝物よりも貴いものが生命です。それでは、愛と生命では、どちらが貴いでしょうか。夫婦で暮らしていて、夫が妻に愛をもって買ってあげる宝物は、千年、万年もっていたいと思いますが、愛のこもっていない宝物をもらっても、もっていたいとは思いません。宝物は、環境が変わるに従って変わる内容をもっているのです。宇宙の中で千年、万年変わらない愛を中心とした夫婦がいるなら、それは生命よりも貴いのです。ですから、愛のために生命を捧げるのです。生命のために愛を捨てることはありませんが、愛のためには生命までも捨ててしまうのです。

28 世の中には、ダイヤモンドや真珠のような宝石があります。なぜ、それらのものは宝石なのでしょうか。ダイヤモンドは、硬さにおいて誰も侵犯することができず、変わらない特性をもっています。真珠は、優雅な光において最高です。何ものももつことのできない、千年、万年過ぎても変わらない優雅な光をもっています。黄金は、なぜ良いのでしょうか。黄金は、黄金色の光において変わることがありません。千年、万年過ぎても、それを支配できるものはありません。このように、変わらないという性質をもっているので、人間世界で宝物として扱われているのです。このような宝物と取り替えられないものとは何でしょうか。宝物には生命がありません。愛する人の生命は、宝物と取り替えることができないのです。

29 天の国で定める第一の価値決定の基準は、愛です。生命ではなく愛です。その愛とは、唯一、不変、永遠の愛です。その基準を中心として、万事の価値基準を決定するのです。神様はそれ以上考えることができないので、それが決定基準になることは、極めて当然の結論です。「あの人は人格者だ。あの人は価値のある存在だ」というのは、そのような基準から見るのです。

30 すべての存在の共通分母とは、生命です。生命は愛から出てきました。ですから、生命よりも愛が貴いのです。生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。

31 愛は生命を屈服させます。生命を左右できる力が愛にはあります。しかし、生命は愛を左右することができません。それでは、生命の主体であり、愛の主体である神様は、どうなのでしょうか。神様も愛の前では弱いのです。生命の絶対的な基準それ自体だとしても、神様よりもっと強力な愛があるなら、その愛の前には屈服するのです。生命の力までも動かす力があるとするならば、それは愛の力です。

32 真の愛とは、どのようなものでしょうか。人間世界では、神様と出会うことができなかったので「分からない」と言います。母親が子女を愛する以上の愛、真の初愛に燃えて生死も忘れて突進できる力が爆発する、それ以上の愛をもって出発する道が、真の愛の道です。死の境地にいる子女を、父母が自分の生命を捨ててまでも保護しようとする愛の心は、天の愛に通じるのです。そこから天の愛は出発するのです。

33 全知全能の神様は、真の愛の主人公であるにもかかわらず、愛の根を御自分に下ろそうとはされません。愛の対象になり得る人間に、根を下ろそうと考えるというのです。ですから、真の愛を神様がもっているとしても、真の愛で愛することができる人に、すべてのものを投入しようというのです。投入するのに、悪いものから投入するのではありません。神様は、良いものから投入するのです。神様にとって最も良いものは真の愛です。その真の愛を、愛する人のために完全に投入するのです。

34 宇宙生成の根本動機は神様ですが、その動機の中心が、真の愛の道を立てようとするところにあったので、神様は、御自身だけを考えません。御自身を考える前に、愛の相対を尊重して、すべてのものを、その前に投入したというのです。それでは、愛の結実体とは誰でしょうか。神様御自身ではなく、投入したものに愛の結実が実らなければなりません。これは驚くべき思想です。これが宇宙生成、宇宙の始まりの根源です。それを端的に分かりやすい言葉で言えば、神様がなぜ天地を創造したのかということです。哲学的な問題です。なぜ天地を創造したのかといえば、見て喜ぶために創造したのですが、それよりも、愛を愛らしくするために天地を創造したのです。

Luke Higuchi