天聖経: 第63話
第三篇 真の愛
第一章 真の愛の根源
第一節 神様の真の愛 37
第二節 真の愛の根源 1-16
37 人のために責任を負って犠牲になるのは、何のためでしょうか。自分が困難を克服しなければならないことがあったとしても、「私」を通して相手方に影響を及ぼすためです。あたかも、何もないところから神様が力を投入して創造されたのと同じような立場に立つためです。神様は、造られたものを見て「良し」とされたので、そのような結果として現れたものも善になっています。ですから、神様の原理原則に従って、神様の創造原理に従って、神様のような立場に立たなければ善になることができません。
第二節 真の愛の根源
1 真の愛は、どこから始まるのでしょうか。皆さんから始まるのではありません。神様から始まりました。その真の愛を中心とした神様は、真の愛の理想相対が必要なので、この世の中を造られたのです。天地創造も、真の愛から始まったのです。愛の概念は、必ず相対的世界で成し遂げられます。相対の観念を離れては、愛を求めることができません。
ですから、男性がいれば女性がいなければならず、右側があれば左側がなければならず、上があれば下がなければなりません。上下、前後、左右がなければならないのです。これらが連結して一つの球形が形成されます。創造の前から、神様にも心と体がありました。心と体が一つになった立場で、衝突することのない愛の中で、理想的な愛の世界の実現を夢見ながら生きていらっしゃったというのです。それで、神様は、ほのかな愛ではなく、爆発的な愛、三六〇度を回転させることのできる愛を願われます。そのような愛の相対を求め、つくるために天地創造をしました。
神様は真の愛の根源
2 皆さんの中で神秘的な体験をした人がいれば、その人は、宇宙の根本を尋ね求め、宇宙の根本は何かを知りたいと思うでしょう。このような問題を提示して宇宙の根本を尋ねていく時、宇宙の根本とは、この万象の世界を代表している人間なのです。それでは、人間の根本とは何でしょうか。生命です。生命の根本とは何でしょうか。愛です。愛がなければ、生命は生じません。それでは、愛の根本とは何でしょうか。ここでは、人間以上のものに上がっていきます。そのような方が神様です。それで、神様は、愛だというのです。神様が愛という言葉を掲げて出てこられる時、その愛という言葉は、一人では成立しない言葉です。愛は、必ず相対的関係をもつ時に、使える言葉なのです。
3 愛という言葉は、相対的関係で成立する言葉です。どれほど全能であられる神様だとしても、神様お独りでは、愛は成立しません。必ず相対的関係があってこそ愛は成立するのです。ですから、アダムとエバを造った目的がどこにあるかといえば、喜ぶためです。何を中心として喜ぶのでしょうか。見て喜ぶのではなく、話して喜ぶのではなく、触って喜ぶのではありません。愛を中心として喜ぶのです。したがって、喜びを得るために万物創造を始めたのです。
4 愛は、「私」から始まるものではありません。愛は、相対から来るのです。ですから、その愛を受けようとすれば、「私」が門を大きく開けて、そのために投入しなければなりません。押してあげなければなりません。天地を創造された神様、真の愛をもつ神様は、世の中を造る時、自分のためではなく、相対のために造られたのです。相対のために神様は、全体を投入されたのです。
5 真の愛は、ために生きるところから出てきます。神様が宇宙を創造された時、愛の理想をかけて始められたので、神様御自身も、造られたもののために数千年の歴史を経てきながら、人類に何度も裏切られ、何度も辱めを受けましたが、それを忘れて、さらに、さらに、さらに、さらに続けて愛を下さるのです。そのような愛がこの地上に、堕落した人間世界に残っていますが、それが父母の愛です。それでは、真の父母の愛とは何でしょうか。子女を愛する時、「ああ、私はすべて利子をつけて返してもらおう!」という心をもった父母は、真の父母ではありません。
昼も夜も犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛し、また愛し、どんな立場に行っても、忘れることなく、もっとやってあげようとして、二十四時間、空間を超越してその人のために生きようとする愛が、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救うことができ、救援できる基礎を取り戻すことができるのです。
6 愛は、自分を中心とした立場では、成立しません。相対を身代わりして、相対の立場を擁護して敬うところから、相対の立場を立てるところから、愛という言葉が初めて成立するのです。愛する人に、「こいつ!お前は私の僕だ」と言いますか。相対を誰よりも尊敬し、誰よりも相対のために生き、相対を通して存在しようとするところで愛は成立するのです。「私」を中心として「お前は私の言うとおりにしなさい」と言うなら、それは愛ではありません。
7 神様が被造世界を創造したのは、神様も独りでは幸福になれないからです。幸福という言葉は、相対的な関係から始まります。愛という言葉も、相対的関係から起こり、楽しいという言葉も、相対的関係から起こります。自分独りで幸福だという人がいますか。独りで楽しいという人は狂った人です。喜び、愛、幸福、希望というものは、より次元の高い相対的関係を求めるときに必要とするのです。そこから、幸福の条件の等級を満たす位置が決定されるのです。
8 愛は、自分を中心とするようにはなっていません。愛は、「私」から来るのではないのです。愛は、相対を通してのみ関係が結ばれるのであり、相対がなければ成り立ちません。ですから、男性も女性も相対が必要なのです。それは、自分のものではないからです。それは共有物です。宇宙全体を抱くことができる力です。その愛は、自分から来るものではなく、必ず相対を通して来るので、相対がいなくなる時には愛を感じることができず、作用もしないのです。
9 父母の愛が良く、夫婦の愛が良いというとき、真の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というものは、「私」から始まるものではなく、相対から始まるのです。夫、妻から愛が生じ、息子、兄弟から愛は始まるのです。また、愛は自分独りでいるところから始まるのではなく、相対から始まります。ですから、愛の主人は相対です。
相対のために無限に投入する真の愛
10 神様の真の愛は、相対のために無限に与えようとするものです。愛の心をもった父母は、すべての子女が父母よりもっと立派になることを願うので、子女のために大きく与え、さらにもっと大きく与えようとします。愛し合う夫と妻も、やはり相手が自分よりもっと素晴らしい人間になることを願うので、相対のために投入し、また投入して忘れます。このように、真の愛は、相対のために投入し、また投入しようとするところからその作用が誘発されるのです。神様は、人間のために真の愛の主体的な立場から与え、また与え、また与える作用を続けることによって、永存されるのです。
11 神様も、人間のために投入しました。神様は、人間のために存在するのです。ですから、人間は、千年、万年、神様についていこうとするのです。ために生きる天理の存在世界の前で、自分自らの存在位置を維持するためには、何かのために存在しなければなりません。ために生きることが、古今東西に通じることができるのです。
神様は、昔も今も、東洋にも西洋にも変わらない愛をもっているので、東洋と西洋を克服することができ、過去、現在、未来を克服できるのです。それは、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展でき、東洋と西洋を克服するので、東洋と西洋を統一できるというのです。これは、愛でのみ可能なのです。
12 自分の愛の相対が、自分の息子、娘が、自分よりも劣ることを願う人はいません。そのような心はどこから来ましたか。神様から来ました。神様も同じなのです。自分の愛の相対が、自分の息子、娘が、神様よりも優れていることを願うのです。ですから、その優れた息子、娘、優れた愛の相対を造る時には、自分以上のものを投入しなければなりません。千倍投入しても忘れ、一万倍投入しても忘れてしまわなければなりません。投入するという概念がない時には、それ以上の相対は出てきません。
ですから、真の愛で愛する人は、自分の生命を与えても、もっと与えたいと思い、千年を生きても、もっと与えたいと思う心の本性をもっています。神様が自分の相対を、その限界にまで素晴らしく造りたいと思い、もっと造りたいと思う、そのような論理をもっているので、その神様を占領するためには、神様以上に投入しなければなりません。真の愛は、自分の生命までも投入して忘れようとするところに根拠地があるのです。
13 神様は、全知全能の方なので、自分以上の一千倍、一万倍を思い描きながら投入できる自主的力をもった方です。投入しては忘れてしまいます。愛は無限に投入するので、無限の価値が生じます。投入してみると、自動的に上がっていくのです。循環運動をするのです。循環する球形の範囲の中にあるものは、自分の所有とすることができ、天上世界の愛の所有権を相続することができます。
愛には、相続権があり、同居権と同参権があるので、その活動舞台は「私」のものです。そのように見れば、神様は、本当に知恵の王です。なぜ投入して忘れるのでしょうか。そうしてこそ、投入しても、さらに投入できるからです。自動的な循環原理を通して、永遠の回転が始まるので、永生の論理が設定されます。投入し、投入し、さらに投入するところに永生の論理が展開します。
14 愛して忘れ、もっと愛そうとするところに、生命を投入しても忘れ、もっと投入するところに真の愛が住むようになります。価値のあるものを一度に、すべてあげても忘れてしまうのです。なぜ忘れなければならないのでしょうか。もっと与えようとするので、忘れなければならないのです。母親の愛は与えて、それを忘れてしまう愛です。それをすべて帳簿につけて、見返りを受け取ろうとはしないのです。自分のお乳を、生命を分け与えてあげながらも喜びます。堕落した母親でもそのような心情なのですから、皆さんは、それ以上にならなければなりません。すべてのものを投入しても忘れてしまう人の中には、真の愛が永遠に存在するのです。
15 真の愛は、自分を完全に投入するところから生じます。自分の生命も忘れてしまう時まで、すべて犠牲になるところから真の愛は引き継がれます。生命を投入した以上の立場で、真の愛は相続されるのです。真の愛が生命の根源だからです。生命以上に投入しなければ、真の愛として引き継がれる道がありません。真の愛は生命の根源なので、自分のすべてを犠牲にしなければ、本来の立場に帰っていくことができません。
16 愛は、与えれば与えるほど生じるものであり、終わりのないものです。さらに加重して与えることができる余裕が生じるのです。しかし、他のものはすべて終わりが来ます。お金も、知識も、権力も、終わりがあります。世の中のあらゆる人間の事情や人情を通したものは、すべて終わりがありますが、永遠の真の愛は、どれほど与えても終わりがないのです。もっと無限に近い内容が永続的に続く、驚くべきものです。ですから、この力をもてば宇宙に作用して余りあるというのです。