天聖経: 第25話

第一篇: 神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の恨と復帰摂理 79

第二節 再創造される神様 01-13

79 神様はどのようにしても、本来計画された真の愛と、平和の理想を回復しなければなりません。神様の救援摂理は、原状回復の摂理、すなわち復帰摂理です。このような復帰摂理のために宗教を立て、善の版図を広めてこられました。

神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する、総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られて、根本から正しく回復しなければなりません。メシヤとして来られたイエス様は、真の父母の使命をもって来られました。彼は地上で、人類を真の愛で重生させ、真の人、真の夫婦に回復させて、真の父母にさせるために来たのです。不幸にも、彼は地上の不信によってみ旨を成し遂げることができず、亡くなられるとともに再臨を約束しました。真の父母として再び来られて、神様の創造理想を完全に回復しなければならないのです。

第二節 再創造される神様

1 神様は、人間の堕落によって、六日の創造期間、すなわち最初の日から六日目までに創造したあらゆるものを失いました。人のゆえにすべて失ったというのです。神様は、これを再び取り戻すために、六千年の歴史を摂理してこられました。この六千年を中心として、七千年の歴史へと越えていくのです。キリスト教では千年王国を主張していますが、一日が千年になり得ます。千年王国というのは、世界的な復活圏を意味します。

 

復帰摂理歴史の足跡

2 皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠の生や世界的な生と関係を結ぶことのできる、生の足場を立てなければなりません。そうでなければ、皆さんの今の生が世界的な生を経て、永遠の生になることはできません。このような宇宙的な生を立てるべき人間の先祖アダムとエバが、堕落することによってそれを失ったので、これを再び復帰するために神様が六千年間苦労してこられましたが、神様のこのような苦労の歴史を復帰摂理歴史といいます。

3 神様を中心として人間が完成していたならば、人間の楽しみが神様の楽しみとなり、人間が享受する栄光が神様の栄光になったはずですが、人間が自らの楽しみと自らの栄光を神様が望まれる基準で享受できなかったがゆえに、人間には悲しみが始まりました。そして、罪を犯した人間であるがゆえに、その理想の園とはあまりにも遠い距離にまで落ちてしまいました。このように落ちた人間を、再び取り戻すための苦労の歴史が復帰摂理歴史です。

4 歴史始まって以来、今まで、「人類歴史は復帰歴史である」ということを知った人はいませんでした。歴史の背後関係を「復帰」という概念で定義を下したというのは、統一教会が歴史に残した大きな功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任を負い、今まで歴史をずっと治めて発展させてこられました。そのため、復帰の使命を担った数多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって歴史は段階的に発展してきました。

5 神側から見れば、歴史が始まって以降、今まで完全に勝利してその勝利の日を称賛したことがありません。アダムとエバが堕落したその日から数千年の間、復帰摂理歴史をたどってきましたが、神様の創造理想を見てみるとき、天が勝利した、あるいは天が栄光を占有したという位置には未到達の過程にあります。

神様が望むことは、あくまでも真の勝利、すなわち真が絶対的な権威をもち、その権限を行使することです。その行使は、一時だけではなく、歴史性をもち、過去もそうでなければならず、現在もそうでなければならず、未来にも連結される勝利として、天を中心として行われるのです。それにもかかわらず、神様はそのような時をいまだに迎えることができていません。復帰摂理路程、あるいは歴史時代のある一部分では勝利したことがありますが、その勝利もまた、再び歴史過程を経てくるときには、失敗の結果として帰結されたというのです。

6 復帰摂理歴史は、アダムとエバを造った基台の上で、縦的関係によって今まで役事してきたのです。人間は神様を中心として、「神様!神様!私たちの完成の基準をお立てください」と言って、僕の僕から僕、僕から養子、養子の立場を経て、直系子女の立場を経て、父母の立場にまで上がらなければなりません。

旧約前の時代である僕の僕から、ヤコブ以降の時代である僕を経て、ずっと上がるのです。ですから、養子の立場を経て、息子、娘の立場を経て、息子、娘が初めて真の父母であられるメシヤに出会って人類の父母の位置に立つようになれば、僕の僕の時代から僕の時代、養子の時代、息子の時代、父母の時代を迎えて救援されるのです。

7 歴史的な希望と信仰で求めてきた天国、すなわち勝利の園を取り戻すべき私たちです。皆さんは、天が喜ぶ個体を求め、天が喜ぶ家庭を求めて天国に入らなければなりません。しかし、その家庭を求めようとすれば真の父母を求めなければならず、真の夫婦、真の兄弟を求めなければなりません。これを求めるためのものが、神様の摂理歴史です。ですから、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。これからは愛を象徴する時代が来ますが、その時代は成約時代と言うことができます。ですから、そのような関係が天上から地上世界にまで広がっています。

8 本来、一つのみ旨として立てられていた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、神様は絶対的な権限をもった方なので、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることはできません。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様はやはり神様であり、絶対的なお方なので、本来は天使長である悪魔サタンまでも自然屈伏させなければなりません。いてもいないのと同様の立場において、絶対的な神様の権威を立てなければなりません。

善なる神様は、悪なるサタンを先に打つことはできません。善なる神様の愛の本質世界に、先に打てる原因、動機がありません。怨讐に対してまでも、ために生きなければなりませ

ん。万物のために投入に投入を重ね、ために生き、またために生きる神様の威信とその絶対的な権威は、いくら悪魔が生まれ、反対しても崩れません。そのような立場で、ために生き、またために生きながら来てみると、神様の救援摂理は、このように数千年の歴史を経てくるようになりました。そのようにしながら自然屈伏させてきたのです。 

9 人類歴史は、善悪の闘争史です。神様は、真の愛を中心とした真の父母、真の子女、真の家庭、真の国家、真の世界、そして真の天宙を立てて、真の愛の理想で主管しようとされましたが、サタンが偽りの愛を中心として偽りの父母、偽りの子女、偽りの家庭、偽りの国家、偽りの世界、そして偽りの天宙を立てて支配してきました。これを取り戻そうとするので、人類歴史は、善悪の闘争史として繰り返されてきたのです。すなわち、個人から永遠の世界に至るまで、サタンは神様の原理的歴史発展に従っていきながら、原理的世界をまねて、真のものが来る前に真のものであるかのように先手を打ちながら、原理の世界を破壊しようとするので、善悪の闘争を避けられなくなったのです。

神様は、利他主義の立場で再創造摂理をされながら、ために生き、また、ために生きながら、打たれて奪ってくる作戦を取る一方、サタンは自分中心の立場で、先に打っては損害賠償までしなければならない道を歩んできたのです。神様の作戦は、打たれて奪ってくる作戦であり、サタンは打って滅びていくのです。このように、善の側は打たれ、迫害され、犠牲を払いながら発展していきますが、サタンはその反対です。

 

旧約時代、新約時代、成約時代の意味

10 歴史的な復帰路程を総括的に見ると、神様は今まで、蘇生、長成、完成の三段階を通して摂理してこられたことが分かります。旧約時代の僕の時代、新約時代の養子の時代、成約時代の真の子女の時代を超えて、真の父母の時代になるのが復帰路程です。

11 人類歴史を見ると、旧約時代、新約時代、成約時代、このように三時代があります。旧約時代までは、祭物を犠牲にして子女を救う時代です。神様の息子が来る準備をするのです。新約時代は、イエス様が祭物となって父母を迎える時代です。ですから、再臨時代を迎えて新郎新婦を立て、父母を迎えるための準備をしてきました。成約時代に先生が中心となり、真の父母という名をもって今まで四十年間以上苦労してきたのは、神様を地上に迎えるためです。そして、神人一体となるのです。

12 恨が宿った六千年の歴史過程は、どのように続いてきたのでしょうか。神様とサタンと人間を中心として、ある条件を立ててくるものなのですが、これがすなわち祭物の峠です。六千年の摂理歴史を回顧してみるとき、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越え、新約時代にはイエス・キリストの実体を通して祭物の峠を越えました。

それでは、成約時代には何を基準として祭物の峠を越えるようになるのでしょうか。聖徒たち、すなわち皆さん自身を通して越えるようになります。このように、全体的な摂理歴史は祭物を中心として成されますが、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければなりませんでした。しかし、成約時代である今は、新郎新婦の名前を身代わりする皆さん自身を条件として、祭物の峠を越えなければなりません。皆さんがそのような祭物の峠を越えるまでは、この地上に真の平和と自由と理想の世界は成就されないのです。

13 旧約時代までは万物を犠牲にし、新約時代は息子を犠牲にし、成約時代は父母を犠牲にするのです。万物を犠牲にさせたのは、所有権を否定する立場で息子、娘を取り戻すためです。息子を否定したのは、父母を取り戻すためであり、父母様が十字架を負ったのは、神様に侍ってさしあげるためです。ですから、旧約時代は行義時代、その次に、新約時代は信義時代、その次の成約時代は侍義時代です。

Luke Higuchi