天聖経: 第24話
第一篇: 神様
第四章 解放してさしあげるべき神様
第一節 神様の恨と復帰摂理 68-78
68 救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理は、どのようになるのでしょうか。神様が創造する時に、何を先に造ったでしょうか。天使世界を先に造りました。その次は万物世界を造りました。その次にアダムとエバを造りました。このように三段階を経てきたのです。このような三段階の原則を通して、今日、歴史も発展してきました。この全体歴史は再創造歴史圏内にあるので、神様が今まで堕落した人類を救援するところにおいては、形態としては再創造歴史の過程を経るというのです。
69 神様は、救援摂理を通して本然の理想形態を復帰するのです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は、どのような摂理を通過するのでしょうか。再創造摂理です。再創造は、神様が投入した愛を人間が代わりに再び投入してこそ、再現された理想的創造物になります。
ですから、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言いましたが、これが第一の戒めです。第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)です。第三の戒めは、万物をあなたの父母の代わりに、夫婦の代わりに、子女の代わりに、愛する心をもちなさいということです。最初の戒め、第二の戒め、第三の戒め、このように終わるのです。縦横を中心とする愛の理想圏内において、球形的な理想がここから始まるのです。
70 サタンは、神様のみ旨を破綻させ、破壊する分子です。神様は、その破壊するサタンに対して勝利して、再創造過程を経て復帰してきます。しかし、そのまま復帰してくることはできません。蕩減させるには、大ざっぱではできないというのです。創造したその過程に戻っていかなければなりません。ですから、救援摂理の全般的内容を見れば、神様の蕩減復帰摂理はまず、救援摂理をしてくるということです。
歴史的なあらゆるものを私たちが総評すれば、第一に救援摂理、第二に蕩減復帰摂理、第三に再創造摂理です。このように見れば、救援摂理は復帰摂理です。救援摂理は本然の立場に戻ることです。病院に入院して生死の境で呻吟していた人たちが、本来の立場に戻るようになれば、「救われた」と言います。救援は本然の立場に戻ることを意味します。その救援摂理は蕩減復帰摂理だというのです。戻るには、そのまま戻ることはできません。必ず蕩減しなければならないのです。
71 神様の救援摂理は復帰摂理なのですが、復帰摂理は蕩減復帰摂理です。復帰摂理は、そのままでは推進されません。必ず犯した罪を蕩減しなければなりません。蕩減するということは、サタンを分立させることです。罪を犯せばサタンの所有権内に存在するようになるので、それを蕩減してサタンを分離し、分離することによって本然の基準に原状回復して、帰ってくることができるのです。
今まで、長い間の歴史過程を通して犯した人類の罪は、どれほど大きいかというのです。その悪なる人々が犯した罪をどのようにして蕩減しなければならないのでしょうか。人間は知りませんが、善なる人々が犠牲になることによって蕩減されるというのです。国も同じです。国が犯した罪があれば、その国の善なる人を何人かずつ連れていくことによって、それを埋めるのです。そのようにしなくては蕩減になりません。人類全体を見ると、このようにしながら世界的な舞台まで発展してきました。その過程で人類が犯したあらゆる罪を蕩減し、世の中を正常に変えるために、蕩減の祭物として善なる人々がたくさん逝ったというのです。
72 歴史路程において蕩減というものを中心として善悪が分かれ、また不幸と幸福が分かれ、福を受ける道と罰を受ける道が分かれます。世の中も同じです。それと同様に、神様の復帰摂理も例外なしに蕩減によらなければなりません。堕落したので、蕩減がなければなりません。堕落に対する憤りをもたずに生きる人は、毎日のように堕落の道を経ていくのです。
堕落したために、神様の復帰摂理路程において、神様は悲しい神様になりました。これだけではなく、神様は苦痛の神様になりました。悲しみと苦痛の神様だけでありません。神様が苦痛を受けて悲しむことで終わるのではありません。神様が願うあらゆる貴いものを、すべて失いました。すべてを失ったので、神様は復帰摂理路程において、それを再び取り戻そうとするのです。ですから、苦痛に遭わなければならず、それを取り戻そうとするので、悲しい道を行かざるを得ません。失ったものを取り戻そうとするので、そのようになるというのです。
73 人間が堕落することによって、神様は最も貴いものを失いました。神様は何も関係がないのではありません。神様と人間は父子の関係です。愛を中心として一体理想を成し遂げようとした関係があったのですが、人が落ちることによって神様の一体理想、愛の理想を成し遂げることができなくなったので、これを再び取り戻さなければなりません。
再び取り戻すには、蕩減復帰をするのです。ただそのままでは取り戻すことができません。人間が落ちることによって、故障したのと同じようになったので、復帰摂理は蕩減に向かって行きますが、蕩減の路程をすべて行ったからといって、神様が取り戻さなければならない愛の理想を取り戻すことはできません。これを取り戻すためには、再創造のプログラム、工場のあらゆる生産品をつくるときの青写真を中心として、再びつくり直さなければならないのです。
メシヤの役割と使命
74 神様がイスラエル民族をカナンの地に呼び入れられたのは、カナンの地に天国を建設するための勝利的な民族基盤を完結して、一つの主権を立てたあと、将来送るメシヤを迎えるようにするためでした。ですから、イスラエル民族は、自国を統治できる主人公としてメシヤを迎え、メシヤを中心としてサタン世界を打って、神様の復帰摂理を終結しなければなりません。
このような使命があったにもかかわらず、イスラエル民族とユダヤ教団には、それが分かりませんでした。その当時、イスラエル民族は救世主が来さえすれば、自動的に世界を支配する民族になるとばかり考え、民族的な勝利と国家的な勝利の土台の上に、世界的な勝利の土台を築いて、復帰の歴史を終結しなければならないということが分かりませんでした。
75 個人が完成できなければ、新しく自覚された家庭が形成されず、新しい家庭が現れなくては、新しい民族と新しい国家も出てくることができません。ですから、統一教会では、個人の完成を決意して立ち上がるのです。神様は、個人復帰の完成を何よりも待ち望んでこられました。男性なら男性一人を完成するために、今まで六千年の歴史がかかったというのです。
これまで神様は、復帰摂理の全般的な目的を、時代を超越して一人の完成した男性に置き、それを標準にしてこられました。そして、その完成した男性を中心として一人の女性を立て、一つの家庭完成の標本をつくろうとされたのですが、それがメシヤ思想なのです。神様は、このメシヤ思想を中心として新郎新婦を立てることによって、復帰摂理の決着をつけようとされたのです。そのようにして、全体の生活基盤を立てるのです。そのお方が立てておいた生活観や、そのお方が指向する理念は、後代の万民が見習うべき標本です。
76 神様の復帰摂理のもう一つの公式は、メシヤを遣わされるのに先立って、中心宗教と中心国家を立てて役事するということです。神様はまず、イスラエル民族とユダヤ教をお立てになり、その準備された土台の上でメシヤ、イエス様を送られて、すべての人間が次第に彼と一つになるようにされることによって、善の版図を広めていきながら、世界復帰、すなわち天国理念を実現しようとされました。アダムから四千年もかかって準備されたイスラエル民族とユダヤ教が、イエス様を迎えて一体となることによって、犠牲を払って一つのみ旨に従っていたならば、その当時に、すぐに中東とアジアを統合し、西洋を連結して全世界の地の果てまで急速にみ旨を伝播することによって、神様の主権で統一された地上天国を建設したでしょう。
77 真の愛と真の生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時にアダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理でも、堕落と無関係な息子を先に立てなければなりません。これがメシヤ思想の根本です。
メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人々の生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人です。根は神様に置いているのですが、後のアダムとして来て、アダムが犯した罪を清算しなければならないのがメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人をメシヤとして送ることができない事情が、ここにあります。
78 救世主は、神様のみ旨を中心として、成し遂げられなかった愛の恨を解く代表者です。人間は、その愛を成し遂げられなかった恨をもった絶望的存在です。これを解怨成就するために来られるお方が救世主です。本然の愛を求めるために来るのです。御飯が食べられない人に、御飯を食べさせるために来るのではありません。神様を解放しなければならないのです。男性を解放する道には、心から愛する妻がいなければなりません。そのような妻が永遠に愛して残ることができるとき、その男性には拘束がありません。解放です。本質的中心である神様は、今まで愛を求めて投入しながら忘れる立場にある、悲しい神様です