天聖経: 第23話

第一篇: 神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の恨と復帰摂理 55-67

55 アダムとエバが善悪の実を取って食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。直系の子女は心が一つになっているので、神様のようにすべて通じるようになっています。一体になってすべて通じます。

心と体が闘うことが問題です。一つにならなければ、皆さんが天上世界に行っても、億万年にわたって一つにしなければなりません。真の愛を中心として一つにするのです。真の愛でなければできないのですが、真の愛の道理を教えるその代表者が真の父母様です。あらゆる歴史的な罪を取り除いてしまうことのできる内容になって、初めて解放が始まります。

56 宗教は、人間の志を成し遂げるためにあるのではなく、神様のみ旨を成し遂げるためにあります。神様のみ旨が成し遂げられてこそ、人間の志が成し遂げられます。これが創造の原則であり、神様が人類を創造された目的です。堕落した人類世界は、まだ神様のみ旨の完成時代を経験したことがなく、今日、人間の志の完成時代を経験したことがありません。

ですから、今まで人類歴史は、理想世界に向かって、より次元の高い本然の地に向かって、それを追求してきたのです。その追求する目的は、結局、人間の意志で一つの目的を達成しようとするのではありません。神様のみ旨を完成するところから人間の志が出発すると見るのが、神側から見る摂理史的歴史観です。神様が目指されるのは、第一次としてアダム完成とエバ完成です。さらには霊界の完成です。天使世界の完成です。今まで救援摂理は、神様のみ旨を成し遂げるために神様が中心となってやってきました。

57 神様のみ旨の完成は、あくまでも世の中の観点とは異なります。物質的条件ではありません。世の中で言う知識の条件でもありません。権力の条件でもありません。それでは、何の条件でしょうか。愛を中心とした完成を標準としています。

数多くの宗教は、歴史の背景が異なり、時代的な差があり、その差に従ってこのような目的を標準としてきたので、どのような宗教でも慈悲や愛の内容をもたなければならなくなっています。その愛は、どのような愛でしょうか。アダムに対する愛はアダムにだけ及ぼされるものではなく、エバの愛はエバにだけ及ぼされるものではありません。その愛はアダムとエバの愛として、今後、家庭、氏族、民族、国家、アダムの子孫全体に及ぶのです。そうしてこそ、その愛の理想の夫婦から愛の理想の氏族、民族、国家、世界の形成が可能になります。

58 神様が立ててきた宗教の中には必ず主流宗教があり、その次には主流民族がいます。主流民族と主流宗教を連結させ、主流思想にまで結びつけて、神様の理想実現を経綸することが神様のみ旨です。ですから、神様のみ旨は、理想実現のための土台にならなければなりません。

神様のみ旨を成そうとするその土台の上には、神様のみ旨を成就させる民族がいなければならず、国家がなければなりません。これが形成されなければ、神様の創造理想を受け継ぐことができません。それで歴史が始まって以降、神様の理想を受け継ぐに当たって、必ず神様のみ前に近かった宗教を通して民族が編成されます。宗教を中心として神様の理想を受け継ぐ個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に連結されます。神様の理想を受け継ぐ道を行くのが、み旨の道です。

59 神様のみ旨を中心として生きようとし始めたのが宗教の道なので、宗教は神様のみ旨の道を行くのです。神様のみ旨は絶対なので、永遠に一つです。二つはあり得ません。ですから、絶対的なみ旨、絶対的な神様のみ旨を中心として生きる人は、個人の天国生活をするのです。家庭でそのように生きる人は、家庭の天国生活を神様と共にするのです。民族、国家、世界を越えて、世界的なみ旨を中心として世界が一つになって生きるようになれば、それが地上天国です。

天運を動かす摂理の主役

60 み旨の道は一つです。み旨が行く方向は二つではありません。み旨が安着できる所も一つです。しかし今日、この地上に生きている人たちを見ると、自分の意志だと決めているその方向が複数の系統に分かれています。意志が様々だというのです。方向も様々です。また、その意志を中心として、自分が成功することや定着すべきものなど、このようなものがすべて多様です。

61 神様と人間が一つのみ旨を中心として、一つの愛によって和合して生き、全天地が神様の愛を楽しみながら、その愛を実際の生命の中心として立て、すべてが一つになって生きることが神様の創造本然のみ旨でした。しかし、アダムとエバが堕落することにより、神様の愛は、神様の愛としてのみ残るようになりました。すなわち、人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました。

ですから、神様は、御自身が立てようとされたその愛を中心として、すべての万物を糾合し、神様と万物が共に喜ぶその一日を願われながら、六千年の歴史を経過してこられたのです。しかし、いまだに神様の愛を中心として全被造万物が一つに統一されないまま、その神様の理念は理念のまま残っていて、取り戻すべき希望の愛もそのまま残っています。ですから神様は、そのみ旨を必ず成し遂げるために、今まで摂理してこられたのです。

62 私たちは今、希望成就の過程にとどまっています。ある目的を見つめてその希望を成し遂げていく過程にあります。この過程において動いているとすれば、皆さんは立てた信仰の約束を終結することができなければなりません。そのような限界を越えた一個体は、最後の一時に主の血と肉を受けたことに報いる存在です。

このような意味で、「私」はいかにすべきなのでしょうか。イエス様の前後、左右、上下、また聖霊の前後、左右、上下、神様の前後、左右、上下を身代わりすることができなければなりません。天上のみ旨であると同時に地上のみ旨である、人間を通して決着をつける限界の日を地上に立てることができなければ、イエス様のみ旨も成し遂げることができず、神様のみ旨も成し遂げることができません。そのようなみ旨を考えれば、今日、取るに足らない私たちの価値はあまりにも大きいというのです。

63 皆さんは、六千年の歴史の最後に残った、一つの宇宙的で冒険的な任務を遂行しなければなりません。その任務が宇宙的ならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならなければなりません。冒険的な内的覚悟をもって立ち上がってこそ、その任務を遂行することができます。神様のみ旨が私たちの信仰生活と異なって成されたら、どうするのですか。

今まで超現実的な冒険の路程を通して、神様の歴史は進展してきました。このような宇宙的な冒険の関門を経てこそ、最後の勝利の旗を掲げ、父の前にホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を身代わりできる存在になることができます。またそうしてこそ、どのような条件にも引っ掛かることがなく、どのような環境で、どのような迫害と非難があったとしても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子、王女になることができます。

63 皆さんは、自由の中でも最高の自由、栄光の中でも最高の栄光、喜びの中でも最高の喜びの位置で主に侍らなければなりません。そうして、歴史的に現れたサタンのあらゆる讒訴条件から逃れて、父を呼び求めることができなければなりません。そのような人になれば、神様は、皆さんが語る前に、先に皆さんを訪ねてくださいます。ですから、皆さんはそのような基準を、皆さんの生活過程で立てなければなりません。

神様は、このように御自身の宇宙的な愛を中心として体恤する人格の価値をもった一人、イエス様を身代わりし、歴史を代表した人格の価値をもった一人を先に訪ねてこられます。このような人々が集まって国を復帰し、世界を復帰し、天地を復帰してくれることをイエス様は願っています。これが神様のみ旨です。

65 神様が摂理歴史を繰り返してこられたのは、人間をしてその摂理に相応させることで、人間の前に理想の神様として立つためでした。ところが、サタン圏内にいる人々には、神様が審判の神様であり、恐怖の神様として現れるようになります。ですから、私たちが神様を理想の神様として迎えるためには、人間の堕落による神様の悲しみを私たちが代わりに体恤して、神様と同じ悲しい立場に立ち、神様と同居できる関係を結ばなければならないのです。そうでなければ、神様は私たちに理想の神様として現れることができず、また創造理想の主人公としても現れることができません。

私たちが理想の神様を迎えるために進む路程において、この道を遮っているサタンとの闘いの路程を経なければなりません。これが、堕落した人間が必然的に行くべき蕩減復帰の道です。

原理原則による救援摂理

66 私たちは、神様の摂理が復帰摂理であることを知っています。復帰摂理とは何でしょうか。失ったものを回復する運動です。失ったものを再び取り戻すことです。造った人が壊れたので、み言を通して再創造することです。再創造されるべき人間です。体に通じるみ言も失い、心に通じるみ言も失い、心情とともに永遠に楽しめるみ言も失ったのが堕落した人間なので、私たちは、み言、すなわち真理を探し出さなければなりません。

真理はみ言だといいました。真理は組織を導いていく原則であると同時に、天倫の根本です。したがって、世界は今まで真理を求めてきました。ところが、まだ真のみ言が現れていません。真のみ言がないので、真の生命の実体がありません。真の生命の実体がないので真実の愛の実体がありません。真実の愛の実体がないので、真実の宇宙、真実の天地が現れていないのです。

67 神様は復帰摂理の役事をするとき、大ざっぱにされるのではありません。復帰摂理は再創造の役事であり、再び取り戻す役事なので、原則に従って行います。創造原則に従って再創造の役事をしてこられたのです。人が堕落したので、神様が人を造ったのですが、造られていなかったのと同様の立場に人が立っているので、再び造られたという条件的な立場にもっていって合わせなければなりません。

Luke Higuchi