天聖経: 第22話
第一篇: 神様
第四章 解放してさしあげるべき神様
第一節 神様の恨と復帰摂理 43-54
43 この世の中の主人は神様でなければなりませんでした。神様と愛の関係を結んだ直系の子女で構成された家庭を主として、氏族が編成され、国家ができ、世界ができていたとすれば、それこそ、神様が主管できる世界であり、神様が主管できる国であり、神様が主管できる家庭であり、神様が主管できる個人になっていたでしょう。
ところが、人間が堕落することによって、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、このように全体が神様と反対する立場になってしまいました。これが堕落の歴史であり、堕落の世界です。この世界をこのまま放っておけば、神様が創建しようとされる創造理想である永遠の愛の世界を成し遂げることができず、また絶対者であられる神様は、本来意図された創造理想を実践させてこそ、神様の本来の権威をもつことができるので、その位置を標準として、悪の世界を収拾し、本来理想とされた本然の世界に導いてこられたのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理です。
44 今まで神様の願いは、人間が万物と心情関係を結び、神様と心情関係を結ぶことでした。それで神様は、堕落した人間を僕の僕の立場から始めて、僕、養子の立場を経て、子女の立場、そして父母の立場にまで引っ張り上げるみ業をしてこられました。それは嘆かわしい堕落の因縁を切り捨てて、万物と人間と神様が一体の心情関係を結び、神様の喜びが人間の喜びであり、人間の喜びが万物の喜びになるようにしようというものです。
神様は、息子、娘を万物世界と天使世界にまで誇り、見せてあげ、慈しんであげたいと思われました。人間は、誰も創造当時の姿ではありません。人間には情的な性稟があるので、悲しみや喜びなどの感情を感じることができます。相対を通して喜びや悲しみを感じることができます。相対の喜びが「私」の喜びになるとき、互いに誇りたいと思い、見せたいと思うのが人間の気持ちです。神様も同じです。神様は、人間が喜ぶのを見て喜ばれ、人間は自分たちによって喜ばれる神様を見て喜ぶのが、正に授け受けする喜びです。
45 本来の世界に戻るには、人間の力だけでは不可能です。それで神様は引き上げる役事をされます。これが復帰摂理です。ここに人間が協力すれば復帰摂理は易しいはずですが、今まで人間は、このような神様の摂理に協力しませんでした。そのような中で神様は、家庭、氏族、民族、国家、世界にまでみ旨を広めてこられました。その過程で内的、外的に受けられた苦衷は言うに言えないものでした。いくつかの国家や民族も、平面的には苦労したと言えますが、神様のみ前では苦労したとは言えません。個人はより一層、そうです。地上だけではなく、今まで生まれては逝ったあらゆる人間をすべて総合してみても、み旨のために苦労して協助したと言える人がいません。これは否定できない事実です。このような人間を導くために、神様は責任を負い、自ら苦労され、闘ってこられたのです。
46 数多くの人類を中心として、神様は六千年の間苦労してこられました。六千年の間苦労してこられましたが、末世のこの時、終わりの日とは、どのような時でしょうか。この世界には本然の僕として生きていく群れがいて、本然の養子のような群れがいて、本然の子女のような群れがいます。その子女のような群れが生まれた基盤の上に、本然の父母が来るというのです。これが再臨思想です。それでイエス様が「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。
地上に、一人の父と一人の母が現れなければなりません。小羊の婚宴とは、この地球上に人類が失ってしまった本然の私たちの家を、初めて建設する瞬間です。私たちの家を建設しようとすれば、そこには父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。これを基盤として子女が繁殖することによって、本然の氏族が広がり、本然の民族が広がり、本然の国家が広がり、本然の世界が広がるのです。そのようにして今までの悪の世界を清算し、善の世界に向かって摂理していくのが復帰摂理です。
47 人間は、堕落することによって、原理圏内でない無原理圏に落ちました。天使は神様の僕ですが、人間がどの程度落ちたのでしょうか。天使世界、僕よりも悪い世界に落ちました。主人になるべき、王子、王女になるべき位置から、僕よりも悪い位置に落ちたので、再び上がらなければなりません。それで僕の僕から僕、養子、庶子、直系子女の位置まで、その次に母を通して父の位置に戻らなければなりません。これが復帰です。救援摂理は、病気になる前の基準に再び戻すものです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は適当にするものではありません。
48 神様は、堕落によって汚された地を再び回復されようと、残された天使たちを通して、人間と関係を結ぶ救援摂理をしてこられました。堕落することによって、聖なる神様に背いた立場に立っている人間、万物とも比較できないほど完全に落ちた人間と再び相対されるために、神様は救援摂理をしてこられたのです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を、神様が主管されるために、橋を架けて役事してこられた歴史が、旧約時代を経て、新約時代を経て、今に至っています。
49 神様が数千年の間、復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様がお人よしだから耐えてきたのでしょうか。今まで人類歴史の数万年の間、神様が救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続ける、その原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからではありません。愛の道を求めてきたためであり、愛の息子、娘を探し求めてきたからです。ですから、愛は、千年を一日のごとく、その受難の道を何度も越えさせる、偉大な力です。
50 神様は、投入して忘れ、また投入して忘れる真の愛をもっているので、今まで救援摂理をしてこられたのです。真の愛を中心として投入して忘れる役事を繰り返してきたので、今日、世界がこのようになりましたが、今も投入していらっしゃいます。ある団体を通したり、どこかの誰かを通したりしてでも、投入しなければなりません。ですから、神様が堕落したこの宇宙を回復し、本質的な愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために、今まで投入してきた本然的基準を永遠に続けなければ、絶対者である神様の権威を取り戻すことができません。
51 人間が罪を犯したからといって、「おい、お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく御存じの神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ろうとされる神様です。神様は悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。
皆さんは、神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にも、そのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。「お前が私を裏切っても、私はお前の父親だ」という心があるので、六千年という長い歳月を訪ねてこられたのです。
52 子女は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、育成するのは、非常に困難です。
人間は、神様がいくら泣いても、いくら悲しんでも、見て見ないふりをします。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。
神様は、このような人間を中心として指導し、開拓の方向を教えてあげようとするので、どれほど御苦労が多いでしょうか。しかし、一から百、千、万までために生きようとされる心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、神様が今まで摂理歴史を続けてくることはできなかったというのです。
53 人間が堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲惨の歴史が始まりました。これは、創造当時に神様が計画した本来の目的ではありません。神様もこのような世の中は願わなかったのであり、人間もこのような世の中に生まれて生きることを願いませんでした。ですから、神様はこのような悲惨な歴史、悲しく苦痛な歴史を清算し、本来願っていた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すという目的を立て、この堕落した世の中を収拾しているというのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道です。
宗教を立てた理由
54 神様は、堕落した人間と復帰の縁を結んで、失った理想の園を探してこられました。神様が堕落した人間を復帰して、昔、堕落していないアダムとエバと向き合っていたその喜びの園を建設し、天の喜びを基点にして、世界的な理念を創建するために摂理される歴史が救援摂理歴史であり、私たちが歩んでいくべき復帰歴史です。
したがって、復帰の路程を歩んでいる皆さんが、自分の一個体を天倫の路程の前に立てて、冷静に批判してみなければなりません。皆さん自身がどのような位置に置かれているのか、どのような立場であえいでいるのかを反省してみなければなりません。その位置と方向を人間に教えてくださろうとする神様の愛があったので、今日、人倫を代表する宗教が立てられたというのです。ですから、神様は信仰という言葉を立てて、歴史過程に宗教を中心として人間を復帰してこられたのです。