天聖経: 第21話
第一篇: 神様
第四章 解放してさしあげるべき神様
第一節 神様の恨と復帰摂理 29-42
29 絶対的な神様は、歴史観をもっていなければなりません。その歴史観は、摂理を通して現れます。摂理の中には、摂理のみ旨に従う人と、従わない人がいます。言い換えれば、信仰生活をする人と、しない人、この二種類がいます。こうした東西南北の文化圏を収拾して、一つの世界へと指向する絶対的な神様の理想、すなわち神様のみ旨は絶対的に一つです。
神様のみ旨、神様の指向するその目的は、人類を破綻の渦中に追い込むためのものではなく、人類を解放と平和の境地に導くためのものです。ですから、平和の終着点に向かって、統一された世界に向かって歴史は動いていかなくてはなりません。
30 あなたと「私」の二人が神様の愛を中心として愛し合い、み旨を中心として愛し合うなら、どれほど素晴らしいでしょうか。そうすることのできる家庭、そうすることのできる氏族、そうすることのできる民族、そうすることのできる国家、これが私たちの望む願いです。
そのような圏内に「私」が包括されて生きている立場、すなわち歓迎し、呼吸し、授け受けする圏内で、私が主体的な立場で挙動しながら生きるという立場に立つとき、それこそ痛快なことではないでしょうか。無限の世界が伸びていき、無限の世界が縮小され、主体としての調和の関係を提示できる私であり、脈拍の起源に波動を起こさせる私だということを考えるとき、どれほど痛快な立場かというのです。そのような私がどこかに行くようになれば、神様もついてきます。私が隠れてしまえば、神様も困ります。それができると自覚されたところから統一の要因が決定されるのです。
31 いくら外的勝利が完結したとしても、内的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体目的を完成することができないと見るのが原理の観点です。ここで、内的なものが重要か、外的なものが重要かということが問題です。二つのうち、内的なものをより重要視せざるを得ません。内的な問題は、神様のための問題であり、外的な問題は、人のための問題だからです。
このような観点から、私たちは神様のみ旨を重要視せざるを得ません。神様のみ旨は、神様と内的に一つとなった個人を通して家庭を形成し、その家庭を通して内的に一つになった氏族を形成し、その氏族を通して内的に一つになった民族を形成し、その民族を通して内的に一つになった国家を形成して発展させようとするのです。これが神様の計画です。
32 罪のある世の中から、罪のない世の中に移さなければなりませんが、これが救援です。移すということが救援なのですが、それがすなわち復帰だということを知らなければなりません。本来、神様のみ旨は、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければならないのです。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成し遂げるためのものです。
神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンの世の中にいる人たちを、すべて自分の所に救い出すことであり、悪魔サタンを追放することです。
今日、皆さんが生きている所には、罪を犯せば讒訴する悪魔サタンがいます。これを追放しなければなりません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類を滅ぼし、人類を蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが神様のみ旨です。
33 神様にとって一番重要なことがあるとすれば、それは何でしょうか。み旨の成就であることは間違いありません。み旨を成就すること、言い換えれば、創造理想を完成すること以上に重要なことはありません。しかし、創造理想、すなわち、み旨を成し遂げなければならないということは、神様御自身のこととしてのみ残される問題ではありません。み旨の成就というものは、あくまでも神様を離れた相対の立場にその成否がかかっているという問題になってくるのです。ですから、神様御自身にのみ直接的な問題になるのではなく、相対的問題としても現れるのです。
神様がアダムとエバを造る前に天地万物を造っておき、その次にアダムとエバを造って中心の位置に立てておきましたが、その中心存在が勝利の結実体になることがもちろん神様の望みですが、そのようになれるかなれないかということは、神様御自身に鍵があるのではなく、人間自身にあるのです。
34 堕落した父母、すなわち偽りの父母から生まれた人間は、神様と関係を結ぼうとしても結ぶことができなくなりました。すなわち、天地を創造した創造主と内縁の関係を結ぶことのできる何ものももてなくなったのです。
創造の原則を中心として見てみるとき、人間は神様が造ったという由来があり、そして、神様が人間を造った目的が人間を堕落させるためではなく、完成させるためであり、創造の標準となる法度があるので、このようなものを中心として人間が再び責任を遂行するようにするためのものが、第二次的な復帰摂理路程です。
復帰摂理は、堕落する前の状態に引き上げる路程です。人間は堕落することによって無原理圏の世界に落ちてしまいました。言い換えれば、原理がない世界、神様が干渉しようとしても干渉できない世界に落ちてしまったのです。
35 神様が主体と動機にならなければなりません。人間だけでは、神様と関係を結ぶことができず、恨のどん底から抜け出すことはできないのです。創造の原則から見てみるとき、人間は本来、神様と父子の関係を結ばなければならないことを御存じの神様なので、神様は落ちた人間を再び子女の立場に引き上げようとしますが、そうするのは容易なことではありません。創造より何倍もの受難の道を行かなければならないのです。神様は、今まで無原理圏内に落ちた人間を、はしごを置いて引き上げる摂理をしてこられたのです。
36 神様は、アダム家庭が堕落したその日から、アベルを中心として摂理しました。父母が誤ることによって、子女を中心として摂理したというのです。
摂理の目的はみ旨を立てることですが、それではみ旨の目的とは何でしょうか。創造理想、創造目的を完成することです。創造目的の完成は、愛の一致であり、理想を実現することです。ですから、アダム家庭において、このことが成就しなかったという事実が堕落だと見るのです。それでみ旨と心情の喪失が堕落によって成立したのです。これを復帰するために、これを再創造するために、アベルを立てて役事したのです。
アベルの意志と神様のみ旨は分離されるのではなく、一致しなければなりません。神様が御覧になる次元とアベルが向き合っている次元が一致しているでしょうか。次元は違いますが、行く方向において、個人としてアベルが向き合っている立場は、神様の全体のみ旨の前にはもちろん差がありますが、み旨を行っていく過程で、向き合うみ旨の立場と方向は一致しなければなりません。ですから、アベルは救援摂理を完成するためにカインと一つにならなければなりません。カインを一致化させることが問題です。
37 堕落した人類は、いまだに世界が立証することができ、地が立証することができ、天が立証することができる、永遠の生の価値を見いだすことができずにいます。ですから、堕落した人間には、個人の生の価値を取り戻し、個人を経て世界的な生の価値を取り戻し、世界を越えて天的な永遠の生の価値を取り戻さなければならない復帰の使命が残っているのです。
それでは、神様が今日まで摂理のみ旨を立て、全体の生の価値を求めてこられた目的は、どこで終結するのでしょうか。それは、皆さん一個体や世界で終結するのではありません。天と地が一つになって神様が喜ぶことができると同時に、世界が喜ぶことができ、世界が喜ぶことができると同時に、個人が喜ぶことができる生の価値を取り戻さなければなりません。その時になって、初めて天の救援摂理も終わり、サタンを中心とした世界的な人倫も終わり、個人的な道徳観念も終わるようになります。堕落した人類には、このような生涯路程を開拓していかなければならない責任があるのです。
38 原罪を取り除くための闘いは、アダム家庭から始まりました。アダム家庭の二人の息子であるカインとアベルを分立したところから、摂理歴史が始まったのです。神様はアベルを愛し、アベルに供え物を捧げるようにしました。供え物を捧げるときは、誰よりも神様のみ言を絶対視しなければなりません。サタンが反対しても、それを克服して越えなければなりません。アベルは精誠の限りを尽くして環境上の困難を克服し、み旨にかなうように供え物を捧げました。
供え物を捧げるアベルは、堕落したアダムよりも神様のみ言に絶対順応しなければなりません。アベルはサタンとは永遠に関係がない、神様と永遠に一つになる実体にならなければなりません。それでこそ神様の愛を受けられる立場になります。そうすることで、悪の主権から解放されて、善の主権に入っていくというのです。
39 天と地の中からは探し出すことができず、被造物の中から探し出すことができない一つの貴い存在、神様の内部に隠されている全体の性相を新しく示すことのできる、より次元の高い新しい実体が主人公として現れて、神様のみ旨を成就させる日はいつでしょうか。このような感激的で衝撃的なひと日を迎えるために、今日まで神様は、この一つの目的を立て、復帰摂理をたどりながら絶え間ない苦労の中で役事してきていらっしゃるのです。
40 神様は千辛万苦しながら、人間を救援するために多くの蕩減の歴史を経てきました。神様は悪魔を思いどおりに打ちのめし、悪魔から人々を思いどおりに奪ってくることのできる能力があるお方ですが、それは不可能です。神様が人間を愛で育て、愛で家庭を築き、愛で氏族と民族と国家と世界を形成しようとしていた本意のみ旨がある限り、アダムとエバは堕落したとしても彼らが堕落する前に対していた心を、神様は永遠にもっていらっしゃらなければなりません。
アダムとエバは堕落することによって神様の心の世界から離れましたが、力をもってこれを強制的に元に戻すことはできません。既に悪魔と愛の関係を結んだからです。愛という関係を結べば、所有権が決定されるのです。相続権が決定されるのです。同居権、同位権、同参権が決定されることによって、完全にサタンの所有権に移るようになるのです。
41 人間が堕落することによって、神様が喜びの日を迎えることができず、人類始祖が喜びの日を迎えることができず、神様と人間のために造られた万物も喜びの日を迎えることができませんでした。その主人たちが悲しい立場に立っているので、それに伴って喜ぶ立場に立つことができないというのは当然の道理です。
神様と人類始祖が悲しい立場に落ちていくことによって、万物も悲しい運命の立場に立たざるを得ません。ローマ人への手紙第八章二十二節には、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とあります。万物の嘆息も嘆息ですが、人類も嘆息します。人類も嘆息しますが、万物と人類の主体的な立場に立った神様も、嘆息圏内に立っているというのです。喜びではなく、悲しみから始まった歴史なので、悲しみの歴史を元に戻して、喜びの歴史に復帰、救援しようとするのが神様の摂理です。
本然の世界を復帰するための摂理
42 神様が今まで苦労して摂理してこられたのは、ただみ旨を成就するためでした。そのみ旨の帰一点をどこに置いたかというと、人間と神様が苦楽を共にできるところに置いたのです。人間が、神様の希望されるみ旨を成就して、神様と永遠に苦楽を共にできる関係を結ぶようになれば、神様は人間の真の父であり、人間は神様の真の子女になるのです。このようになれば、神様の意志がすなわち人間の意志になり、人間は全被造万物とも和動して、神様に栄光を返しながら、神様の知恵深さと慈しみ深さと恵み深さを、永遠に称賛するようになるでしょう。そのような日が来ることを、神様と人間と万物は願っているのです。
み旨は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。ですから、そのみ旨が成し遂げられれば神様と人間が一体となり、神様が楽しければ人間も楽しく、人間が楽しければ神様も楽しくなります。すなわち神様の意志が人間の意志になって、二人ではない一人として和動できるようになることによって、人間は神様に永遠の理想の喜びをお返ししてさしあげ、また自らもそれによって永遠の喜びを感じるようになります。