天聖経: 第20話

第一篇: 神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の恨と復帰摂理 14-28

14 世の中で、最もかわいそうなお方が神様です。最も多くの苦労をした、苦労の大王が神様です。人間を創造したその日から、人間を見るまいとしても見ざるを得ない運命を抱えた父の立場にいらっしゃる神様、春夏秋冬はもちろん、六千年の歴史の中で、一時でも手放すことのできない人間の姿を見つめながら、苦しみあえぎ、泣き叫ぶことが生活哲学となり、それを掲げて人間を支える生活をしてきた神様なのですから、どれほどかわいそうなお方でしょうか。

15 歴史的な神様、時代的な神様は、悲しい神様です。過去と現在の神様は、悲しみの神様です。この悲しい神様を知って迎えることのできない者は、審判されるというのです。

この世の中で本当に神様を愛する者だとするならば、自分の悲しみと自分の苦痛があるとき、これを解決してほしいと神様に祈ることはできません。歴史的な悲しみと苦痛を担って今まで訪ねてこられたことだけでも恐縮で、有り難いのに、これを知らずに自分の悲しみと自分の苦痛まですべて表す者たちは、審判されるようになります。

歴史的な悲しみの神様であり、時代的な悲しみの神様に、とても自分の苦痛を祈ることができず、一人で泣く人がいるならば、神様は同情してくださるでしょう。「私の苦痛より神様の苦労がどれくらい大きいでしょうか。私が死ぬとしても、その苦労を私にお任せください」と言う息子、娘にならなければなりません。

今日、ただ福を下さいといって祈る人々は、行けば行くほど神様のみ前に頭を上げることができない罪人になるでしょう。恩賜が多い神様の愛の圏内に入れば入るほど、頭を上げることのできない罪人です。

16 神様は永存されるお方です。神様が涙を流すのは、死の道を一掃し、苦痛の道を一掃し、悲しみの道を一掃するためです。神様が悲しみと苦痛と死の道を一掃するために、先に涙を流し、血と汗を流してきたことを知って、私たちは、そのみ旨を身代わりしなければなりません。神様が死の場に行かれてはいけません。

今まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てました。このようにしたのは、神様に愛がなくてしたのではありません。そのような場を解消するために、神様も、それ以上の痛みを感じられました。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心は、どれほど苦痛であり、愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情は、どれほど痛むでしょうか。自分が死ぬよりも、もっと痛むのです。このような痛む心情を抱え、人類歴史が始まって以降、苦痛を受けてきた神様です。私たちは、一代を中心として一度苦痛を越えれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、神様は、今まで私たちのたくさんの先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けてこられました。

父母の位置を奪われた神様の恨

17 神様は、本然的真の父母の立場にあるお方です。真の父母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じました。この創造世界にはあり得ないことに対して、創造主であられる神様は、干渉することもできず、それに責任を負って消化する立場にも立てないというのです。

18 神様は、王の座を怨讐に奪われました。神様は、栄光の神様となることができず、悲しみの歴史を抱えていらっしゃいます。御自分の国の王として、宇宙の王として存在するにもかかわらず、王が生きているにもかかわらず、王は死んだと蔑まれていらっしゃいます。結局は、御自分の愛する息子、娘をすべて奪われ、地球星は完全に怨讐によって、籠絡の場となってしまいました。

19 人類始祖の堕落によって、神様は愛する子女を失った父母になりました。子女が監獄生活をしているのに、栄光を享受する父母がいるでしょうか。神様の心情は限りなく痛むのです。また、堕落によって、人間のために造った宇宙万象までも、すべてサタンの主管圏に差し出してしまいました。

真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になりました。万有の主宰者としての権能を、一度も主張してみることができませんでした。愚かな堕落人間もみな自分を誇って生きているのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながらも、それらの前に至尊な御自身を現すことができませんでした。

20 人間が堕落することによって、何を失ったのでしょうか。第一に、真の愛の理想世界を失い、第二に、真の愛の理想家庭を失いました。真の愛の夫婦を失ったというのです。第三に、真の愛の息子、娘、宗家の一番上の孫を失いました。これが神様の三大悲哀です。

21 み旨の完成を望んできた神様の時代は、堕落によって、成し遂げられずに消えてしまいました。天地万物を造られた神様の希望の場に、根本的な破綻をもたらしました。神様が計画していたあらゆるプログラムが完全に破壊され、蹂躙されました。永遠の愛の理想対象圏が破綻させられたというのです。純粋な本質的な愛をもった神様が、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落していった時、神様の心はこの上なく悲しかったでしょう。これ以上ない極めて悲痛な思いだったでしょう。

22 キリスト教では、「神様は栄光の中にいる審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世で最もかわいそうなお方が神様です。最も悲痛で身もだえしながらも、光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるのを防ぎ、そこで体を支え、目を見開いて気を取り直し、死に至った子女たちを生き返らせようという心をもたれたお方が神様です。

23 人間と永遠に共にいるべき神様が、その人間と引き裂かれるときの、その悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほど大きなものだったでしょうか。人間は、全宇宙とも取り替えることのできない一つの愛の基地を目指して成熟し、平衡を保った上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そのようになっていたならば、それが一つの基準となり、天地のあらゆる万物の測定基準になることができました。その愛と関係が結ばれたすべてのものは、どこにでもみな合うようになっています。

24 神様も、自分の愛の相対が自分より優ることを願います。その愛の相対が人間なのです。それなのに、人間が特権的な価値を喪失して苦しむ、そのような無価値な人生を見つめる神様の心情は、どれほど悲惨でしょうか。その人たちが、本来は自分の愛と自分の生命と自分の血統を通して直系の子女となり、天の国の勝利の栄光を占有するはずだったにもかかわらず、敗者の仮面をかぶって呻吟と苦痛と嘆息と絶望の中であえいで、生命を断つ立場にあるというのです。それを見つめる神様は、どれほど胸が詰まる思いでしょうか。そのように悲しい神様なのです。

25 皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されるときには、慰めを受けることができます。神様は誰よりも悲痛さを経験していらっしゃるので、その神様を誰も慰労することができません。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなっている恨をいかにして解くかということが、神様の内的な事情です。神様は、このような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられました。

霊界は、時間と空間を超越した世界なので、六千年前の悲しみも、歴史時代圏内に永遠に残るのです。もし、自らを祭物として捧げたという体験によって喜びを感じたとすれば、それが時間圏の内容であっても、生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、それが無限の根源と関係が結ばれるというのです。これから皆さんが、このような神霊的な体験をして、そのような内容をもって実行するようになれば、神様が今まで受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながってきたということが分かるでしょう。

26 私たちは、自らを前面に立てて自分のことをむやみに話してはいけません。長い歴史の裏道で、真の自分を語ることのできる子女を探して、恨に絡まった復帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも知るならば、むやみに自分を主張できないのです。

私たちは、寝ても覚めても理想家庭完成のために生きなければなりません。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年待ち続けてきた理想家庭さえ立てるならば、そこが正に地上天国の出発地になるでしょう。そこで、かわいそうな神様の恨を解いていけるようになるでしょう。

変わらない神様のみ旨

27 神様は絶対者であられるので、志されたことを成就しないわけにはいかず、なさろうとしたみ旨を必ず成功させなければならないお方です。堕落したアダムとエバを再び収拾して、再生工場で修理し、本然の神様の愛を受けることができる、堕落していないアダムを再び造り出さなければならず、エバを再び造り出さなければなりません。そうして再び探し出された父母に連結させて、子女を探さなくてはいけません。そのような立場にあるので、救援摂理が始まったのです。

28 神様のみ旨は変わりません。人がいくらたくさんいるとしても、み旨に向かって行く道は一つしかありません。絶対的な神様なので、み旨も一つであり、そのみ旨の道に向かっていく道も、二つの道にはなり得ません。自分勝手に行き来することはできないのです。一つの直線しかないというのです。

Luke Higuchi