天聖経: 第19話

第一篇: 神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の恨と復帰摂理 1-13

1 天地万物を造られた神様は、人間をこの上なく愛してお造りになりました。造ったどのようなものよりも、一人の人間に対して、その栄光と希望と篤実な心情を中心としてお造りになりました。その一人の人間が成長して希望を成就することによって、幸福を謳歌し、平和の家庭を造って、神様と共にあることを神様は願われました。

堕落していない本来のアダムとエバを造って喜ばれた神様、アダムとエバが成長するたびに、神様は切ない心情、懇切な心情をもって一つの希望の勝利を完結できる、その時を待ち望まれたのです。成長するアダムとエバを前にして、造られた創造世界を見つめるたびに、「お前のために造った万物も良いが、万物を治めるお前を見つめるのはもっと良い」とおっしゃる父の心情、父の気持ちだったというのです。

そのように、希望として映ったアダムとエバ、幸福の根拠地になれるアダムとエバ、またあらゆる万物世界においてよりどころとなる中心存在であるアダムとエバ、あるひと日、堕落の日があってはいけないアダムとエバ、悲しみのひと日があってはいけないアダムとエバでした。しかし、そのアダムとエバがある日、失敗することによって、堕落という言葉がもたらされ、悲しみという言葉がもたらされ、神様の希望の世界に暗黒の権勢が侵入したという事実は、恨めしく、悔しい出来事だったのです。

2 人類始祖が堕落することによって、人類始祖の悲しみは当然のことですが、人類始祖を見つめ、希望をもっていた神様が、人間によって悲しみに遭遇したのです。人間が悲しむ立場に藩ちることによって、神様御自身がかわいそうな立場、悔しくて苦痛な立場に立たなければなりませんでした。これは、この地上と天地間においては、残念な、あるいは考えることすらできなかったことですが、人類始祖の失敗によって、そのような事件が起こりました。これが人間の堕落です。

なぜ悲しみの神様なのか

3 アダムとエバが堕落することによって、永遠の神様の愛と理念を中心として愛の園で永遠の福楽を享受するようになっていたその創造の理想が挫折し、今まで神様は、数千年の歴史の中で苦労されざるを得なくなりました。ですから、皆さんは、アダムとエバが堕落することによって果たせなかった創造理想を成し遂げるために、神様が今までサタンと闘いながら感じられた、その悲しい心情を体恤しなくてはいけません。

皆さんは、アダムとエバを失ったその時の悲しみ、アダムとエバが神様を裏切って堕落した時の神様の、その悲しい心情を体恤しなければならないのです。そのためには、先に神様の愛とは何なのかを知らなければならず、神様が人間をどの程度まで愛されるかを体恤しなければなりません。それができなければ、神様がアダムとエバを失って悲しまれた、その心情を到底体恤する道はありません。

4 神様は、栄光をもって出現される存在です。人間の喜びが神様の喜びであり、神様の喜びが人間の喜びになることが創造理念なのですが、その理念は行き場を失い、神様は凄惨な姿になりました。人間の前に現れる神様の姿は、栄光の姿ではありません。どのような凄惨な個人や民族とも比較できないほど、凄惨な立場にある神様です。

本来、神様は栄光の姿でしたが、人間が堕落したその日から、その反対の姿でいらっしゃるようになったのです。神様はあらゆるものを子女である人間に任せることができ、人間はあらゆるものを父なる神様に任せることができるというのが、神様と人間の相互の立場でしたが、そのようにすることができなくなりました。凄惨な姿で子女たちの前に現れるしかない父母の心情が、どれほど苦しいでしょうか。しかし、自分の苦痛と事情を告げたいと思わず、無限に骨を折られる悲しい姿を見せたくないと思われる神様です。

5 今まで人間は、神様が栄光の中で、苦難や苦痛がない中でいらっしゃるお方だとばかり思っていました。数多くの宗教も、今まで歴史過程でそのように考え、信仰生活をしてきました。本当の意味で神様は、御自身の家庭、御自身の子女、御自身の財産、御自身の国と世界を失った立場にいらっしゃいます。そのような立場にいらっしゃるお方が私たちの父です。

その父に出会えば、自らのすべての恨が解怨され、今まで待ち望んできたすべてが解決されると思っていました。ところが今日、この道を求めてきて父母と対面してみると、その父母がもっている財産はもちろんのこと、世界と父母のあらゆるものが怨讐の手の中に置かれているというのです。

6 皆さんは、歴史的に悲痛な神様のお姿を心中に抱き、悲しい神様の心を慰労し、喜びと栄光をお返ししてさしあげる孝子にならなければなりません。神様は、今も落胆し、嘆息していらっしゃいます。私たちは、神様をお迎えし、民族を越え、世界を越え、万民と共に天宙の全権を身代わりして神様の恨を解いてさしあげ、勝利の一日を迎えなければなりません。神様が、審判する代わりに祝福してあげたいと思うことのできる、そのような息子、娘になるために身もだえしなければなりません。そのような人になってこそ、残る群れになります。

激しい環境と逆境に苦しめられても、それに屈することなく、「私だけが残りました」と言えなければなりません。このような心情をもってこそ、神様と命の関係を結ぶことができます。このような心情と結ばれていれば、いくら強い北風や暴風が吹きつけてきても、このような生命力をもった心情の絆を、あえて崩すことはできません。

7 神様は、玉座に座って栄光を受ける神様ではありません。堕落した人類に対して、神様は今まで救援するために、毎日痛哭していらっしゃいます。そのような立場で人類を導いてこられたのが神様の姿です。神様は、このように悲惨なお方です。悲惨な姿に落ちた人類を救援するために、神様は寝ている人類を起こして、「来なさい!来なさい!」とおっしゃるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていないのです。責任分担を果たさなければなりません。これを身代わりしてあげられない立場でみ業を成し遂げようとするのですから、どれほど大変だったでしょうか。

8 神様は、悲しみの主人公であり、苦痛の主人公です。このように私たちが侍るべき父は、喜びと栄光を享受したいと思う心はもっていますが、そのような内容をもって喜んだり栄光を享受したりしてみることができなかった神様です。堕落の恨とともに、悲しみと苦痛の内容をもたれた悲しみの神様であり、苦痛の神様です。

私たちは、神様が幸福な方だと思っていますが、決してそうではありません。喜ぶ内容があるかと思っていくら隅々まで探してみても、そのようにはなっていません。世の中を治める権力をもって栄光を享受し、幸福を謳歌する内容だけをもつべき神様には、喜びと栄光と善の結実、理想の要素がすべてなくなり、悲しみと苦痛だけが残っています。これが恨めしいというのです。この上なく悲しいことの中でも、これ以上に悲しいことは、天地のどこにもないでしょう。

9 神様は最も悲しいお方です。死んでいく自分の母がかわいそうだと言って泣く人よりも、神様はもっと悲しいお方です。善を主張することで、万民が公認する立場で民族の反逆者として追われて、恨めしく死ぬ人よりも、もっと無念なお方です。最も悔しく、最もかわいそうな主人公が、正に神様です。それを実感できるように教えなければならないのが宗教です。神様が着ている服は、栄光の服ではありません。血の汗に浸っている服です。その服は、御自身の息子、娘たちが手でつかもうとしてつかめなかった、血のにじんだ手で作った服です。神様の足は、茨の道をかき分け、数多くの闘争歴史で傷を負った足です。神様は、一人の個人が恨を解こうとして倒れるとき、代わりに打たれてきたお方であり、一つの民族を立て、その他の様々な民族が倒れ、裏切るようになるとき、その一つの民族の代わりに打たれながら闘争するお方です。私たちが信じてきた神様は、このようにかわいそうなお方です。

かわいそうな神様

10 神様は軟禁状態にあります。息子を失った、永遠のひとり子である息子、娘を失った父母の苦痛を抱いて生きる神様です。恨の神様です。今まで涙を流し続け、胸をたたきながら救援歴史のために人間の後ろについていきながら、数限りなく死に遭遇し、ありとあらゆることを見ても、耐えに耐えた神様です。その胸に、釘が打ち込まれているとすれば、世界を覆って余りある釘が打ち込まれているのであり、恨があるとすれば、この世の中にない恨を抱いてきたというのです。それが神様です。

11 神様は万物の主人ですが、その主人の行動を一度もしてみることができませんでした。愛の主体ですが、人間に対して「私はお前を愛している」と言ってみることができなかったのです。あらゆるものをもち得る自由な立場にいても、人間に対して「お前は私のものだ」と言って、思いどおりにしてみることができない神様です。

また神様は、地上に多くの人類が生きていますが、彼らを一度も御自身の息子、娘、あるいはサタンをはねのける勇者として立ててみることができませんでした。イエス様を信じているキリスト教徒たちがたくさんいますが、神様は彼らを、サタンに対する総進撃の命令を下せる総司令官として立ててみることができず、イエス様を立てて天使世界に命令して地上と関係を結ぼうとしましたが、そのようにすることができませんでした。地上の人間に新婦の理念を与えて新婦を探し回りましたが、新婦だと言ってサタンに誇ることのできる一人に会うことができなかった神様です。そのような神様のみ前に、私たちはあまりにも申し訳ない群れです。

12 神様は、無限にかわいそうなお方です。罪悪の子女を抱き、「愛する息子だ」と言わざるを得ない不自由な立場にある神様は、罪悪の息子、娘が生きているこの地上に来られて、引き裂かれ、傷つけられ、追われる神様です。神様は痛哭していらっしゃいます。神様の心情には、ずたずたに裂けた傷があります。民族が倒れて新しい民族がつくられるたびに傷を受けられ、歴史のどの一ページにも、例外なく神様の心情の曲折が隠れているというのです。

13 神様には恨があります。人間の堕落によって生じた恨があります。語ることのできない曲折と恨の内容があります。人類を救援されるためにあえぎながら探し求めてこられた神様は、悲しい身の上です。この地上の、どのような物乞いも、神様よりはましです。神様がそのようになりました。

神様が玉座に座って天地万物に号令し、あらゆることが思いのままになるとすれば、なぜ六千年の間、罪悪の人類を導いてこられたのでしょうか。一番かわいそうなお方です。主人であるにもかかわらず、主人の本分が果たせませんでした。父であるにもかかわらず、父の本分が果たせませんでした。これほど悔しいことはないというのです。御自身が造ったものであるにもかかわらず、御自身の思いどおりにできず、御自身の息子、娘であるにもかかわらず、息子、娘だと言うことができませんでした。この壁を崩すために摂理してこられたのが六千年の歴史です。

Luke Higuchi