天聖経: 第18話
第一篇: 神様
第三章: 創造主であられる神様
第三節 愛で創造された神様 09-19
9 神様は、真の愛の本体としていらっしゃいます。神様も、愛を体恤するためには相対が必要です。それは、愛が主体と対象の関係、すなわち相対を通して関係を結んでこそ可能な経験であり、喜びだからです。どのような存在も、一人で孤立していては愛を感じられません。神様の創造の動機は、真の愛と、その対象である真の人を創造することです。神様は、神様と自由に愛を与え合う存在として人間を創造されました。人間は、神様の完全な愛の対象体として造られました。人間は、神様の息子と娘です。創造主、神様は、人間の真の父母であられます。神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長して、真の人になることを願われました。
10 神様は、絶対者であるにもかかわらず、何が慕わしくて創造したのでしょうか。黄金や知識も必要ない全知全能の神様が、備えていないものがない神様が、何が必要で人を造ったのでしょうか。創造の根本動機とは何でしょうか。それは権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛することができません。ですから、天地創造の動機は愛です。
11 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その絶対者が、全知全能のお方が、何がないために人を創造されたのでしょうか。愛のために創造しました。愛は相対がいなければ現れません。相対がいないのに作用するようになれば損害が生じます。すべて自分を保護するようになっています。損害が生じる所では絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないように思えても飛び出してきます。神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が人間です。
12 神様が人を造ったのは、愛を成就するためです。その愛は、神様から始まるのではありません。相手から見いだされるのです。相手がいなければ探し出すことはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相手が必要なのです。神様も相手がいなければなりません。それで相対を造られたのです。神様御自身も、相手から絶対的な愛を成すことができるように相対を訪ねていくのです。ですから、神様も愛のために存在するというのです。それが愛の驚くべきところです。神様も人のために存在し、人は神様のために存在します。ですから、真の愛は、ために生きるところから始まるのです。
13 本来、人間はどこから生まれたのかといえば、神様の愛から始まりました。愛ゆえに生まれました。愛が起源です。人間が受け継いだその生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が現れたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして私たちの生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛で青ち、愛の相対に出会わなければならないのです。
喜びと愛のための創造
14 神様は、絶対者であり、唯一無二のお方です。しかし、そのお方がいくら偉大だとしても、一人でいらっしゃるのなら喜びや楽しいことはあり得ません。一人では楽しみがなく、絶対に喜びがありません。
例えば、世界に二人といない法学者や世界のあらゆる権力をもち、一言で世界を二転三転できる権威をもった人がいるとしましょう。そのような立場にいる人でも、一人でいては喜ぶことができません。いくらそのような立場にあっても、喜ぶことが一つもないというのです。
15 神様は、なぜ天地創造をしたのでしょうか。「私のような男性、私のような女性を、見えない性相から実体的形状に展開させ、その生命たちが動き回るのを見るのが好きで造ったのだ」ということと、「動き回るのを見るのもよいが、この二つが一つになって伸び、くるくると転がるのを見たかった」ということとでは、どちらが楽しいでしょうか。結局は、愛し合うのを見たいと思って造ったというのです。
互いに競い合う男性と女性を見たいと思うでしょうか、互いに愛し合う男性と女性を見たいと思うでしょうか。愛のほうです。創造の出発の動機は愛です。この宇宙もやはり、愛のために形成されたのです。ですから、神様が創造の存在世界の前に現れるようになるとき、愛の本質として現れなければならないというのは最も理論的です。
16 神様は、絶対者であり、唯一無二であられるお方なのに、なぜ宇宙を創造されたのでしょうか。絶対的な愛であり、生命であり、理想をもっていらっしゃる神様ですが、そのすべてのものを一人では実現することができません。ですから、いくら偉大な神様でも、一人では愛や理想の実現があり得ないので、その愛と理想を実現するためにされたのが宇宙の創造です。神様がなぜ人間を創造するようになったのかというと、神様が喜ぶためにお造りになったということです。一人でいては喜ぶこともないので、相対理想の実現のために創造したという結論を下すことができます。
17 神様がなぜ天地創造をされ、なぜアダムとエバを造られたのかというと、喜びのために造りました。神様が喜ぶために創造されたのです。アダムの中に神様が入って無形の父になり、アダムが有形の父になるようにしようとされたのです。ですから、アダムは実体をまとった神様にならなければなりませんでした。
それでは、神様はなぜ実体を必要とされるのでしょうか。御自身が造った実体世界は、無形では主管できないため、実体をまとった神様が必要だからです。それで実体の神様として造ったのがアダムとエバです。ですから、アダムとエバは神様と一体にならなければなりません。
18 絶対者が創造した天地間の創造物自体も、絶対的な価値をもつことはできなくても、絶対者と離れることのできない相対的価値をもつためには、その絶対者を中心として「相対的絶対」の位置を求めなければなりません。言い換えれば、お一人しかいない絶対者に造られたという事実は、「相対的絶対」の型を備えた存在であるに違いないというのです。ですから、絶対者自体だけでは喜びを得ることはできません。喜びは一人で成り立つものではないからです。
19 神様は、人間を造るためにあらゆる万物を造ってこられました。最初の日から造ったその万物を御覧になるとき、無限の願いと無限の希望をもって喜ばれました。そして、このすべての万物の主人として、神様の代わりに万物を主管する主人として私たちの先祖であるアダムとエバを造られたのです。それから、無限に喜ぶ心情で彼らのために祝福されたのです。彼らに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」とおっしゃいました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」という祝福のみ言を人間に下さったのは、神様を喜ばせることが目的で人間が造られたという意味です。神様は、このような目的を成すために、私たちを祝福されたのです。