天聖経: 第17話

第一篇: 神様

第三章: 創造主であられる神様

第二節 神様が創造された被造世界 17-25

第三節 愛で創造された神様 01-08

神様の聖殿として創造した人間

17 神様もアダムとエバと連結しなければ、世の中と関係を結ぶ道がありません。アダムとエバと関係を結んでこそ、アダムとエバの息子、娘と関係が結ばれます。それは自然に結ばれるのです。神様が人を造った理由は、同じ父母の立場に立つためであり、体をまとうためです。ですから、外的な神様はアダムとエバです。アダムとエバを男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておいて、神様がそこに入るのです。神様が入って作用してこそ、アダムとエバの二人が理想的な作用をするのであって、神様が作用できなければ、神様のみ旨も何も分からないというのです。そうでなければ、神様が人間と関係を結ぶ基盤がないというのです。

18 神様は、無形の神様なので、どこにでも通じることができます。ですから、どこでも行けない所がありません。すべて通じるというのです。それでは、神様は、どこで暮らすのでしょうか。神様が暮らす家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性格の心情がとどまり、女性の心には神様の女性格の心情が入って暮らすというのです。したがって、本来の人類の先祖であるアダムとエバは、見える神様です。ですから、アダムが名前をつければそのようになり、アダムの願いはかなわないことがなかったということです。

19 アダムとエバが堕落しなければ、神様はアダムとエバの心の中にいらっしゃるのです。アダムとエバは、外的夫婦であると同時に、内的な夫婦です。したがって、神様と内外で一つになった体から生まれた息子、娘は、誰の息子、娘でしょうか。外的神様の息子、娘になると同時に、内的神様の息子、娘になります。

コリント人への第一の手紙第三章十六節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の聖殿であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在していらっしゃるということです。人間がそのような立場にあるので、神様は人間にとっては正に父になります。それができなくなってしまったのが人間の堕落です。

20 私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。皆さんが神霊的な世界に入って「神様!」と言えば、心の中から「どうした!」と答える体験をして、初めて分かるようになります。そのように尋ねれば、天から答えが来るのではなく、「私」の心から答えが来ます。本来、アダムとエバが堕落しなければ、神様がアダムとエバの本心の奥深くにいらっしゃって、アダムを操るのです。ですから聖書を見ると、「アダムが名をつけたとおりになった」と言ったのです。

21 「アダムは神様の実体であり、体は神様の聖殿だ」と言いました。神様は、アダムの心に臨在している見えない父です。この二人の父が一つになります。一体になるのです。ですから、無形世界と有形世界の一体の基点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は、お金の包みや欲の包みではありません。純粋な思春期を通してあらゆる細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨むことによって定着するというのです。神様がアダムの心に来て内的父となり、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性と横的世界で一体になることによって、愛を中心とした球形が生まれるのです。

神様と被造世界の関係

22 人間は神様に似ています。神様は絶対的な主体なので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は主体と対象の中和的主体として、人を造るときにアダムとエバを造りました。その全知全能の愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。神様がアダムとエバを創造したのと同じように、人間も創造の能力を賦与されるのです。神様から創造の能力を賦与され、私たちも人を創造できる位置が息子、娘を生む位置です。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に、人間も立つことができるというのです。

23 神様が遍在するので私たちも遍在したいと思い、神様が全知全能なので私たちも全知全能でありたいと思い、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二であることを望むのです。これが似ているということです。それでは、神様は、御自身の何に似れば最も喜ばれるのでしょうか。遍在より、全知全能より、唯一無二より、愛に似ることを一番喜ばれます。愛に似ることによって、神様と一番似るようになるのです。その愛さえ似るようになれば、何であろうと、すべてを失っても、結局は自分自身が行くとおりに、みなついてくるようになっています。

24 私たちの周囲において、私たちも知らないうちに繰り広げられている天下の万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定することができません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子のようなものは、無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。したがって、存在するすべてのものは、神様の愛のみ手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているというのです。

25 天地万物は神様に似ています。万物は神様に象徴的に似て生まれました。人は神様に形象的に似て生まれました。神様を中心として、人は形象的に似て生まれなければならず、万物は象徴的に似て生まれなければなりません。神様が造られたとすれば、そうでなければなりません。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛を備えた、全知全能で遍在するお方として存在されるのです。

第三節 愛で創造された神様

1 神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。一人でいるのに、絶対的権限があっても何かできるでしょうか。神様の本質とは何かという問題が重要です。それが愛です。「私のために生きなさい」という愛ではなく、人のために生きようとする愛です。

2 神様は全知全能であられ、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、そのすべての価値よりも貴いものとして立て、誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは何も必要でないというのです。愛以外は必要ありません。

神様にとって絶対に必要なもの

3 神様が最も好むもの、人間が最も好むものとは何でしょうか。真の愛です。それは異議がありません。聖書でも、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)とあります。ですから、神様が最も好むものが、自分を犠牲にして怨讐を愛する真の愛だというのです。

兄弟が愛で一つに結ばれ、神様に親孝行できる孝子、孝女にするのが神様の願いでした。それで聖書には、人間として守るべき戒めの中で、最初の戒めについて語られています。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあります。神様が最も好むものとは何だというのですか。お金を好むのではありません。知識を好むのではありません。権力を好むのではありません。真の愛です。自分の心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、すべてのものを尽くして神様を愛することが第一の戒めです。そして、自分を愛するように隣人を愛することが第二の戒めなのです。

4 天地を創造した天地の大主宰であられる主人の立場にある神様にとっても、必要なのは絶対的な愛です。大宇宙とも取り替えることのできない絶対的な真の愛を必要とするのですが、その愛をどこで探し出すことができるのでしょうか。神様御自身では探し出すことができません。自分の心に愛があっても、一人では探し出せないのです。愛は、どこから来るのでしょうか。自分自身から来るのではなく、相対から来るのです。相対がいなければ愛を探すことができないので、その愛を探し出すためには、相対のために与えなければなりません。相対のために与えなければ、愛の道を求める方法がありません。

5 神様が最高に喜ぶためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、お金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。そのお方は、全知全能のお方であり、創造の能力をもっていらっしゃるので、そのお方には欠如したものがありません。しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。このような点から見てみるとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます。

神様はなぜ創造されたのか

6 神様は、なぜ創造したのでしょうか。神様も愛が必要なので創造しました。神様は、愛のために天地を創造したというのです。愛の相対が必要で、愛の相対を求めるためです。そのような神様なので、絶対的に自分のために生きなさいと、「私のために生きなさい」という愛し方はしません。神様も、愛の相対は自分より優ることを願うというのです。神様が一〇〇〇パーセントをもっているとすれば、一〇〇〇パーセントを完全に投入しようとします。愛の相対が自分より優ることを願うのが愛の本質であり、本性だからです。

7 神様は、愛の対象が必要で人を造りました。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対に必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造ったものが人間です。ですから、人間自体は神様の体です。

8 神様は、なぜアダムとエバを造ったのでしょうか。神様は無形でいらっしゃるお方なので、実体の形状をもった父母にならなければ、形状の子女を愛することができません。それで、体をまとうために造りました。

第一に、無形の神様が体をまとうためであり、第二に、体をもつことによって震動するような衝撃が来るようにするためです。それは、言葉だけではできません。一つの言葉があれば、音楽がなければならず、その音楽に合わせなければなりません。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。第三に、神様は中心軸をもった垂直の父なので面積がありません。神様御自身を中心として見てみるとき、一点しかないこの軸には繁殖の根拠地がありません。なぜ体が必要なのかというと、東西南北の三六〇度を中心として面積が必要だからです。

Luke Higuchi