天聖経: 第39 話

第二篇 真の父母

第二章 真の父母とメシヤ

第二節 イエス様の再臨と真の父母 11-19

第三節 メシヤは真の父母の起源 1-3

11 再臨思想は、真の父母の思想です。真の父母を意味するのです。真の父母を通して血統を転換するのですが、その血統転換をするには、男性一人でもできず、女性一人でもできません。縦的に結ばれたものなので、横的に入れ替えなければなりません。逆にならなければならないというのです。父母様の心情を中心として連結していかなければなりません。

12 統一教会の教会員たちは、キリスト教と関係がないと思っていますが、それは絶対に間違っています。旧約時代も、結局は復帰のためのものであり、アダムとエバ、真の父母復帰のためのものです。新約時代も、真の父母の復帰のためのものであり、成約時代も同じです。真の父母の復帰という内容は同じです。メシヤは真の父母です。したがって、キリスト教も、ユダヤ教も、統一教会も、その目的とする内容は同じです。

それでは、違うこととは何でしょうか。ユダヤ教は、国家的次元でメシヤを迎えようとしました。国家的次元で真の父母を迎え、世界へ拡大することが目的でした。キリスト教はどうでしょうか。イエス様が逝かれたのち、世界的な基盤でメシヤ、真の父母を迎えるためのものです。成約時代とは何でしょうか。これは天宙的です。霊界まで真の父母を迎えるようにしようというのです。次元が違います。それを、はっきりと区別しなければなりません。

13 天の国が来る前に、天の国の民族が出てこなければなりません。その民族が出てくるには、どのようにすべきでしょうか。民族は一度には出てきません。特別な氏族が出てこなければなりません。その氏族が出てきて、民族を動かさなければなりません。その氏族が出てくるには、親族がいなければなりません。その親族が出てくるには、親族の中心になる家庭が出てこなければなりません。その家庭が出てくるには、子女がいなければなりません。その子女が出てくるには、父母がいなければなりません。その父母が出てくるには、天の国のすべてを代表できる一人の男性がいなければなりません。それがメシヤです。その男性が父母になるには、相対をつくって、その相対と一つにならなければなりません。それがキリスト教の教えです。それが終末です。このように逆さまに落ちたのを、世界的なキリスト教の基盤の上に、二千年間イエス様を中心として、反対に霊的な復帰をしてきました。これが霊的なキリスト教です。ここでメシヤを迎えれば、すべてが終わるのです。

メシヤがすべきこと

14 宗教の中で最高の宗教は、愛の論理を立てて、堕落した世の中に対する完全否定を主張する宗教です。堕落した世の中を否定してから、そこで否定した以上に肯定的な愛を展開させることができる宗教でなければなりません。そのような世界になれば、理想世界が訪れるのです。統一教会は、何をするところでしょうか。神様が人間との愛の味を味わえるようにしてさしあげ、また人間世界に下ろせなかった神様の愛の根を、下ろせるようにするところです。

15 善悪の主人が闘っています。人間を中心として善悪の闘争をしています。その闘いを誰が終わらせなければならないのでしょうか。神様もその闘いを終わらせることができず、サタンも終わらせることができません。悪神と善神の闘いを、誰が終わらせてあげることができるのでしょうか。それは、神様でもなく、サタンでもありません。人間は人間なのですが、真の人間です。真の愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていける愛の主人公にならなければ、神様とサタンの闘いを終わらせることはできません。

それでは、誰がこの闘いを解決することができるのでしょうか。神様は、その代表者を送られたのですが、その主流思想をメシヤ思想と言うのです。

16 メシヤが来て何をするのでしょうか。メシヤは、歴史上初めて、一つの国の主権と国土と民を取り戻し、それを基盤として、横的な世界を復帰するための闘いを指導する司令官として来るのです。それがメシヤの使命です。サタンを屈服させようとすれば、国家を屈服させるだけではいけません。サタンは世界的な主権をもっているので、世界の主権までも追放しなければなりません。そうして初めて、この地球星に解放圏ができるようになります。地球星のどこに行っても、サタンが反対する影があっては、神様が自由と平和の園としてつくられたエデンの園の理想が実現されません。地球星にサタンの反対する影がなくなってこそ、地上天国が完成します。

17 メシヤがすべきこととは、個人的にサタンを屈服させ、サタンの血統を除去し、個人的に勝利の道を築かなければならず、家庭的、国家的、世界的に勝利の道を築かなければなりません。これがメシヤの行くべき道です。第一は、個人が行く道を築かなければならず、第二は、家庭が行く道を築かなければならず、第三は、国家が行く道を築かなければならず、第四は、世界が行く道を築かなければなりません。個人的に勝ったのちに、世界的なサタンが動員され、国家と民主世界が一つになって攻撃してきても、それと闘って勝たなければなりません。家庭的にも、世界的にも、そのようにしなければなりません。言い換えれば、ヤコブが天使と闘って勝ったように、勝たなければならないのです。これは一対一の闘いです。しかし、今は、サタン世界全体を打たなければならず、そのためには、そうすることのできる最先端の代表的な国がなければなりません。そこが韓国です。

18 来られる主は、どのようなお方でしょうか。悪魔サタンを屈服させなければならず、数多くの霊人、数多くの教祖、数多くの霊界の指導者たちを屈服させなければなりません。神様の人格と真の愛を中心として、宗教とこの宇宙はこのようなものだということを、すべて納得させることによって屈服するのです。この地上の、より高い愛の主人公の前に吸収されようとするのが、この万有の存在です。ですから、真の愛を中心として屈服させ、彼らのすべての権限を相続しなければなりません。統一圏の相続を受けなければなりません。それが、メシヤという方がこの地上で果たすべき責任です。

19 道人たちの中には、自分は天下で何々になると言って誇る人々がいますが、彼らはこの堕落圏を収拾する内容がどうなっているかも知らず、ただ時だけを願って精誠を尽くしています。それではいけません。サタン圏で勝利し、その次には霊界圏で勝利しなければなりません。それは、見える世界ではなく、見えない世界です。見えない世界と闘争してサタンに勝利しなければ、霊界に進める道が生まれません。必ず妨害を受けるので、霊界に入ることもできず、入ったとしても闘って勝つことができません。

したがって、サタン圏で勝利圏を備え、その次には霊界に入って勝利圏を備え、雑教から、すべてを経て最高の宗教まで、キリスト教が最高の主流宗教であれば、キリスト教まで屈服させなければなりません。それは、彼らのすべてのものを相続しなければならないということです。このような闘いの過程を経て、天地に勝利の公認を受けるようになるとき、神様から「お前は、サタンと霊界の勝利者だ!」という立て札をもらって、地上実践路程が始まるのです。そのような歴史が残っているのです。

第三節メシヤは真の父母の起源

1 今日、堕落した人間は、希望の理念と一つの帰一点を求め、さまよっています。その最後の目的は、天地と共に喜び、天地と共に通じ、天地と共に和動することができ、天の栄光を表すことができる人を探すことです。そのような一人の人が、信仰の目的体であり、希望の目的体であり、愛の目的体であるということを知らなければなりません。

復帰原理を通して知っていることですが、信仰基台を立てるための蕩減条件や、堕落性を脱ぐための蕩減条件など、すべてのものは信仰を基盤として出てくるのです。堕落性を脱ぐためには、希望の結実体であるメシヤが来なければなりません。私たちが、今まで希望の一時を願ってきていることは、来られるメシヤに帰結するのです。メシヤは、そのものが信仰の目的体であり、希望の目的体です。それでは、メシヤを中心として目的を果たしたその時には、何が残るのでしょうか。愛だけが残ります。その愛は、信仰の完成実体を通じた愛であり、希望の完成実体を通じた愛です。その一つの愛を中心とした代表者として来られる方がメシヤです。

メシヤは信仰、希望、愛の結実

2 人間は、不可能なことが可能になる一時を願っています。不可能であるがゆえに、その時、その人を求めてさまようのです。信仰の目的体であり、希望の目的体であり、愛の目的体であるその一人を求めるために、堕落した人間は苦しんでいます。ですから、私たちが信仰を叫ぶときは、信仰の結実体が必要なのであり、希望を叫ぶときは、希望の結実体が必要なのであり、愛を叫ぶときは、愛の結実体が必要なのです。

信仰と希望と愛の結実体は、堕落の因縁を受けず、堕落の世界とは関係ない真の人です。その方によって天地は収拾されるのであり、その方によって初めて天の栄光が始まるのであり、その方によって父と息子の愛が始まるのです。また、その方によって父子を中心とする夫婦の関係と、夫婦の関係を中心とする家庭の絆が連なり、新しい天地の起源が始まるのです。

3 来られるメシヤは、信仰の実体、希望の実体、愛の実体になる方です。信仰の実体になるためには、信仰を主として世界史的な闘争過程で勝利した資格を備えなければなりません。功労がなければならないのです。希望の結実体になるためには、世界的な希望の闘争歴史で勝利した価値をもたなければなりません。愛の結実体になるにおいても同じです。

信仰生活をしている私たち個人が、信仰と希望と愛を求める目的とは何でしょうか。個人を救うために信仰する場合もあり、家庭を救うために信仰する場合もあるでしょう。さらには、氏族、国家、世界、天地のために、信仰の結実体を求める場合もあるでしょう。個人より家庭を救うことがより難しく、家庭より氏族を救うことがより難しく、氏族より民族を救うことがより難しいのです。範囲が広くなればなるほど、救うことがより難しくなるのです。

Luke Higuchi