天聖経: 第2話

第一篇: 神様

第一章: 神様の存在と属性

第一節: 神様の実存 15-28

15 何のために耳を作っておいたのでしょうか。それは空気が流れて、そこに引っ掛かることで音が集まるようにするために、そのようになっているのです。耳を一度よく見てください。大きな輪があり、小さな輪があって、声をうまく調節します。大声が聞こえてくれば、この大きな輪でその声を弱めます。大声がそのまま耳に入ると衝撃を受けるので、大きな輪で声を一度弱めてから、小さな輪に入るようになっています。そうでなければ大変なことになります。耳自体は知らなかったのですが、もともとの動機がそうなので、そのような形になったのです。誰かが知っていたので、そのように作ったということです。造物主か何か分かりませんが、その何かが存在するというのです。

16 顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜ、こんなに真っ黒なものがあるのだろう」と言いながら気分を悪くするかもしれません。これがなければ、顔がどれくらいすっきりしてよいでしょうか。それなのに、なぜこれをつけておいたのでしょうか。人の顔に毛が生えていれば眉毛が必要でしょうか。獣は四つ足になって這い回るので、眉毛が必要ありません。それでも、その形態はあります。しかし、人は立って行き来するので、眉毛が絶対的に必要です。眉毛が生えている所は、大抵わずかに高くなっています。眉毛の部位がわずかに高くなっていて、山脈をうまく形成しています。それこそ、良い場所の中でも一番良い場所です。なぜこのように作られたのでしょうか。人が立って行き来することを知っていたからです。

17 人が這って行き来するなら、眉毛は必要ありません。本当に、よくぞくっついているというのです。そして、この眉毛が片側方向に出ています。なぜそのようになっているのでしょうか。雨が降って水が流れるとき、一カ所に流すためです。眉毛が片側方向に向かっていて、横のほうに流れるようになっているので、水が流れ落ちるとき、間違いなく下に流れ落ちるのです。もし、眉毛がなければどうなるでしょうか。汗や雨水がすべて目に入ることになります。汗が目に入ると痛くてたまりません。我慢できないというのです。目をよく見ると、眉毛だけでは頼りないので、さらにまぶたで丸く囲んでいます。まぶたで囲んで目を保護するようにしてあるのです。涙はへこんだところを通って、横に流れ落ちていくようになっています。安全が保障されているというのです。誰が設計をしたのか分かりませんが、何千年、何万年研究して作ったはずです。

18 鼻がもし逆さまになったとすれば、どうなるでしょうか。夕立でも降れば、大変なことになります。どれくらい深刻なことか考えてみてください。笑い事ではありません。鼻は顔の中で人間を象徴します。人間には天道があります。上下関係の秩序を守らなければならないというのです。鼻はなぜ下に向かって広がっているのでしょうか。もしそのようになっていなければ、口が大変なことになるというのです。雨水のようなものが口に流れ込むようになれば、口はどうなるでしょうか。それで鼻は下向きの形になったというのです。このように考えながら顔を見ると、何とも不思議に感じられます。

19 唇を見ると、とても不思議です。唇と歯はよく調和しています。唇と歯はどれほど離れていますか。わずか数ミリしか離れていません。これが危険だとすれば、これ以上危険なことはありません。まかり間違えば大変なことになります。しかし、不安を感じますか。食べるときは、ただ食べることに忙しく、不安を感じたりすることはありません。舌も、どれほど不思議でしょうか。口の中で引っ張ったり押したりしながら、押し切りのような歯の間を出入りしながらも、衝突することなく、どれほど上手にリズムを合わせるでしょうか。よく調和しているというのです。先生は本当に早く話します。このように早く話しているのに、どうしてこのようにリズムを合わせ、初めて会った皆さんと親しくなるように話せるのか、本当に不思議で、よく調和しているというのです。もし舌が指と同じような仕事をするとすれば、どうなるでしょうか。大変なことになります。

本心作用から見た神様の実存

20 神様がいるのかいないのか、どのようにして知ることができるのでしょうか。私たちは、見えはしませんが空気があることを知っています。どうして知っているかというと、空気を吸って生きているからです。空気は何か味がしますか。味もなく、見えもしませんが、はっきりと空気があることを知っています。同じように、私たちには心があります。見えはしませんが、心があることを私たちは、はっきりと知っています。心が見えないからといって、ないと言ってはいけません。心がどのような姿形をしているのか分かりませんが、本当に不思議です。

21 神様が暮らすところはどこでしょうか。神様は、最も価値のある愛に定着されます。男性と女性の二人がいれば、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。神様は、一体化して変わらない、統一された愛の最も根底に、垂直にいらっしゃいます。男性と女性が一つになれば、そこが中心点になるのです。神秘的な祈りの境地、霊的体験圏に入って「神様!」と呼べば、内から「なぜ呼ぶのか。ここにいる、ここだ!」と答えられるでしょう。「ここ」というのは、自分の心の中です。心身一体化した愛の中心点、垂直の場です。それでは、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の中心はどこでしょうか。いくら小さくても、その中心は良心です。宇宙の愛の軸がとどまるところ、支える先端の地は、自分の良心です。心身一体化した、その良心です。

22 神様は、愛の根、生命の根、血統の根、良心の根です。これは間違いないことです。そのような神様がいるとすれば、なぜ感じられないのでしょうか。「私」と一つになっているからです。愛と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになっています。神様は根です。神様を現そうとすれば、四方に愛をまきなさいというのです。投入しなさいというのです。それは、自分の生命と愛と、このすべてのものを犠牲にして完全にゼロの位置に戻れば、神様が主人として現れるということです。ですから、ゼロになったその位置で、神様を中心として横的に連結するのです。堕落したために、これが縦的に押さえつけられています。これを横的に連結できるようにすれば、神様が、自分の良心の中で主人になるのです。

23 人間には、否定しようとしても否定できない良心があります。良心があることを否定する人はいません。堕落した人間は、神様がいるのかいないのか分かりません。もし神様がいる場合、神様は創造主であり、人間はその神様が造った被造物だとするならば、被造物と創造主が一つになることができ、一つの共同目的を提示し得る何かがなければなりません。神様が人間を造ったとすれば、その造られた人間を神様が望む創造の目的と一致する点に到達させる、そのような力が作用するものがなければなりません。そうでなければ、人間を造ることができません。神様は絶対者なので、絶対者である神様と、被造物である人間が一つになれる第一の基盤、接触できる第一の土台が必ずなければならないのです。ですから神様は、人間に対してその目的とする結果に到達できるように、人間の中で作用できる何かを存続させなければなりません。それがなければ、神様も喜び、人間も喜べる位置を発見できません。

24 絶対的な神様が人間を造るとき、人間を創造した創造目的の基準と、造られた人間として行くべき目的の基準が、それぞれ異なることはあり得ません。必ず一つになってこそ、神様も喜ぶことができ、人間も喜ぶことができるのです。絶対的な神様を求めて上がっていけるようにする何かの作用が、人間の中になければなりません。その作用がなければ到達できないので、それを望む力がなければなりません。「私」を刺激して引っ張り、押してくれる力がなければならないのです。それが、私たちが否定できない良心の力です。良心は高くなることを願って作用します。良心は、現在の自分より良くなれ、良くなれと催促します。この作用だけは否定できません。良心は、現在の自分よりも高くなれと促すのであって、低くなるように促したりはしません。きょうよりもあす、あすよりもあさって、今年よりも来年、行けば行くほど、さらに高く、さらに価値のある自分を形成しなさいと促す、その力が良心作用です。 

25 人間の良心は、あくまでも対象的なものであって、主体的なものではありません。何か分かりませんが、作用の原則に従って求めていけば、必ず作用せざるを得ない一つの主体が存在します。その主体と対象は、互いに損害が発生することを望んで作用するのではなく、より利益になることを、より良くなることを願って作用します。私たちの良心は、より良い、より大きい、より価値のある、より世界的なことに向かって作用しています。したがって、良心作用は、単独で働くものではなく、主体と対象が一つの目的を願って働くものだという結論を下すことができます。

26 主体と対象が私たちの良心の中で作用するのを見るとき、その良心作用は、主体がなくては作用できないというのが天地の原則です。良心が作用を継続して高次元の何かを追求するのを見るとき、高次元の主体がなければならないという結論を下すことができます。ですから、良心の主体となる神様が存在しないと言うことはできません。神様は絶対的に存在します。神様が絶対的に存在しないと言う人は、絶対的に良心作用を否定しなければなりません。良心があることを絶対的に認める限り、神様は絶対的に存在します。

27 人には、絶えず作用している良心があります。皆さんが深い眠りから目を覚まし、良くないことをしようとすれば、心はいつも番人のように「おい、こら!」と言います。その良心作用があることを否定できません。良心をもった人間は、結果的な存在です。結果的な存在が絶えず良心作用をしているという事実を中心として考えてみるとき、作用をするには必ず主体と対象の関係がなければならないので、主体を公認せざるを得ません。その良心作用は、下りていきなさいというのではなく、最高の所に上がっていきなさいと催促しています。なぜでしょうか。ある偉大な主体者と一つになろうとする、より価値のある要求を作用させるプラス的要件がそこにあるので、そのような作用をしていると見ることができるのです。

歴史の中で摂理してこられた神様

28 神様は、きょう、この時点内にのみ存在する神様ではありません。いつも「私」の生活感情にのみ相対される神様ではないのです。その神様は、過去から今まで存続してきた神様、すなわち歴史的な神様です。ですから、その神様が歴史を継承させてこられながら望んできた道は、自ら自覚したことに夢中になって努力する人を通して、その歴史の背後において従っていく道ではありません。摂理の内容を先に悟り、その歴史を輝かせ得る時点に立った人が描いていく生活基盤を通して、神様は、摂理を発展させてくるのであり、摂理のみ旨を存続させてこられるのは間違いありません。その位置は、自分のための位置ではなく、公的な位置です。

Luke Higuchi