天聖経: 第3話
第一篇: 神様
第一章: 神様の存在と属性
第一節: 神様の実存 29-43
第二節: 根源であり本体であられる神様 1-3
29 私たちは、何によって神様をつかむことができるのでしょうか。精誠です。今の時代には信仰の自由があるので、迫害がありません。言論、集会、結社、信仰の自由を所有できる時代をつくっておいたのは、終わり日の一時のためです。自由に信仰できるようにしておいたのは、み旨があったためにそのようにしたというのです。今、私たちの時代は、いくら天のために苦労し、命を差し出して忠誠を尽くしても迫害されません。そのような時は過ぎ去りました。ですから、心情をもたなければなりません。歴史的な神様の心情をもたなければなりません。神様は、その時代の神様ではなく、歴史的な神様です。歴史路程で、数多くの預言者を立てて苦労された神様です。皆さんを生かすために、歴史路程で数多くの人に迫害の道、殉教の道を歩ませて今日まで来られたのです。ですから、歴史的な神様だというのです。
30 今までの歴史を見れば、世界の文化圏は、宗教文化圏内に吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や極東アジアを中心とした儒、仏、仙の文化圏、インドを中心としたヒンドゥー教の文化圏、イスラーム文化圏などの形成を中心として見てみるとき、数千年の間、人々は宗教文化圏内に群がってきたことが分かります。これは、修理工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属材料がその周辺に集まるのと同じことです。このような事実を見るときに、神様が役事(働き)していらっしゃるというのです。
無形でいらっしゃる神様
31 神様は、この宇宙の中で、存在されない所がありませんが、私たちは、そのような神様がいるのかいないのか知らずに生きています。そして、空気があるのに、空気があることを普段は感じることができず、息が詰まって初めて存在していることを感じます。また、脈が一分に七十回ほど打っているのに、これも普段は気づかずにいます。歩くとき、脈に歩調を合わせ、まばたきするときも、脈に合わせてまばたきして暮らすなら、神経が衰弱して、三日もたたずに倒れるでしょう。ですから、私たちがそのようなことに気づかないのは、よくできているからです。全知全能の神様、全天下を料理する神様が私たちのそばにいるとしましょう。力で言えば山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることのできる神様を、私たちの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。ですから、神様が見えなくて良かったというのです。見えたとすれば、私たちは神経が衰弱して、一時間も我慢できないでしょう。ですから、神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。
32 私たちは、太陽の光を受けて生きていますが、それに対する有り難みが分かりません。それが有り難いといって、「お天道様、ありがとうございます」と挨拶はしません。このように、私たちは大きなことについては感謝しようとしないというのです。もし、この世界に空気が一リットルしか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地の悪い方ならば、世界の統一は問題ありません。恐らく五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって、「お前たち、統一するのかしないのか」と言えば、世界人類が声を合わせて「統一します」と言うでしょう。そのようにすれば、一遍に統一することができるかもしれませんが、神様がそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素です。
33 知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在として治めるのが、一番便利だと考えられました。神様は無形なので、存在世界を思いのまま突き抜けてきたとしても、誰も、全く支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに通り過ぎていかれても、気づきません。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれても知らずにいます。ですから、どれほど便利でしょうか。神様は、考えた末に、見えない神様としていらっしゃるのが一番便利だと考えて、そのように見えない神様になられたという論理が妥当です。
34 私たちは、空気が流れていることを知っていますが、それを感じられません。空気が流れることも感じられないのに、神様が通ることを、どうして感じられますか。神様は、無形の神様としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。それでいて、この大きな宇宙を治めることができる、それをふろしきで包んで余りある神様でなければなりません。
無形の神様ですが、神様の気持ちは、この宇宙でさえ小さいと思い、もっと大きなものを求めていらっしゃるのです。
35 皆さんは、最も大切なものを、人が見たり触ったりできる所に置きたいとは思わないはずです。それを誰も盗んでいけないように、とても奥深くに隠そうとするでしょう。皆さんにとって最も貴重で、たった一つしかない最も良いものなら、それを誰も持っていくことのできない所に隠しておこうとするでしょう。心の深い所、心の根底、正にそこに、そのようなものを隠したいと思うのですが、そこは、皆さん一人だけが神様と出会うことのできる唯一の場所です。皆さんの心は、一人で神様に出会える唯一のものなのです。神様も、開放された場所で皆さんに出会うのは好みません。独特な人間性、独特な思考、独特な感情をもっている、個人としての皆さんに出会える、一つの場所を願われます。それが、神様が人間の良心を無形につくられた理由です。
36 世の中にたった一つしかない宝物があるとして、それを失った日には世界がひっくり返るとしましょう。そのような貴重なものを、心の中の隅に持っていって置くでしょうか、心の中の一番中心に持っていって置くでしょうか。その貴い宝物を、心の一番中央にしまっておくはずです。それでも安心できずに、しっかりと包んでおくでしょう。また、誰かが入ってきてそれを見物するのも嫌なので、ふたを締めてしっかりと包み、絶対にほかの人に見えないようにするでしょう。このようにしたいと思うのが人の気持ちです。神様が見えるとすれば、この天地のダイヤモンドが問題ではありません。宇宙で一つしかない唯一無二の存在である絶対者、無限の価値の絶対者、無限の生命の絶対者、言葉で表現できない大切なお方を、どこに隠したいと思うでしょうか。心の中にしまいたいと思うでしょう。ですから、誰も知らない所に、何千年、何万年研究しても分からない所に隠したいと思うというのです。ですから、神様が見えないのは良いことなのです。
37 神様は無形の存在です。無形と有形はいかにして結合するのでしょうか。無形世界と有形世界はいかにして一つにすることができるのでしょうか。これは理論的に難しい問題です。肉的な何かが母体になっていては、霊的な自分と肉的な自分を一つにすることはできません。霊的な父母と肉的な父母、堕落していない本性の基準で、霊的な神様と、見える実体である太初の堕落していない人類の先祖が、何を中心として一つになれるのかというのです。
縦横が必ず一つにならなければなりません。縦横が一つにならなければなりませんが、何を通して一つになるのかというと、愛です。真の愛は最短距離、直短距離で通じます。
遍在される神様
38 神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあります。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。ですから、神様は存在しないところがない、すなわち遍在すると言われています。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが見つめる物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のあらゆる存在物を自分の物としてかき抱こうとする心をもたなければなりません。私たちの心は、この民族を越え、世界を越え、被造万物を越えて神様と共にいたいと思うのです。神様までも「自分のものだ」と言える立場に行くことを、心は待ち望んでいます。そのような心をもった人は、神様と共にある人です。
39 皆さんは、神様の遍在性を、どのようにして感じることができるのでしょうか。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いてくれば、それを神様の鼻の息のように感じなさいというのです。流れる水があるなら、それを、神様がこの世界のために受難の道を克服しながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。神様の心情を体恤するための一つの教本であり、教材として展開させ、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てておいたものが自然です。
40 「天上天下、唯我独尊であり、全知全能で遍在し、私を経ないものがない」と言うとき、それは愛を中心として語る言葉です。愛を中心として遍在するということです。愛を中心とすれば隠すものがありません。みな現れます。愛する正にその瞬間に、みな現れるのです。愛を中心とした遍在の立場、愛を中心とした全知全能の立場にいたいと思うお方が、神様です。
41 神様が宇宙にいないとすれば、宇宙は空(から)と同じです。しかし神様がいるとすれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。それは愛があるからです。ですから、「私」が一人でいても、神様がいることを知るようになるときには、宇宙はいっぱいに満ちているのです。神様はどこにでもいらっしゃいます。どこにでもいらっしゃることを感じるようになります。ですから、愛の中で遍在されることに感動するのです。しかし、私が神様が分からなくなるときは、すべてのものが空になります。
42 神様がいるのかいないのかというと、神様は明らかに存在します。どこにいるのでしょうか。私に一番近いところにいます。ですから、見ることができません。一番近いので見ることができないのです。皆さんの目が皆さんの目を見ることができますか。近いので見ることができません。ですから、神様も近いので見えないのです。
43 男性なら男性、女性なら女性は、すべて神様を身代わりします。神様がほかのところにいるのではありません。「私」の心の中にいます。ですから、祈るときは心と会話しなければなりません。神様は心の根にいます。心をどんどん掘り下げれば、最高の良心の根に神様がいます。その次には、愛の根にいて、生命の根にいて、血統の根にいます。ですから、家でも感謝、社会に出ていっても感謝、国と世界のどこに行っても感謝なのです。天国に行っても、この公式どおりになります。どこに行っても通じるのです。それが地上天国であり、天上天国も同じです。
第二節 根源であり本体であられる神様
1 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らかにしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そのお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって、平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。
第一原因者であられる神様
2 この世の中には、男性と女性の二種類の人間が暮らしています。彼らは、自ら立場を変えることはできません。皆さんは、自らが願ってそのように生まれたのではありません。自分が考えもせず、願いもしなかったのに、そして、原因はもちろん、結果や過程も知らないのに、そのように生まれたのです。人間がいくら偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定できません。したがって、第一原因的な存在がなければなりません。第一原因的な存在を神様と呼んでも、何かほかの名で呼んでもかまわないのですが、その原因的な存在がなければなりません。
3 人間は、あくまでも第一存在ではなく、第二存在です。第二存在、すなわち結果的存在があるためには、原因的存在である第一存在がなければなりません。第一存在と第二存在は、離れようとしても離れることはできません。その第一存在と第二存在は、原因と一体となることのできる結果を望みながら、その関係が結ばれます。神様が人類の中心となって人間の原因的な存在になったとすれば、結果的存在である人間には、その理想を実践できる過程が必要です。それが、私たちが成長して生きる生活過程であり、また長い時間で見れば歴史過程です。