天聖経: 第1話
第一篇: 神様
第一章: 神様の存在と属性
第一節: 神様の実存 1-14
1 先生はかつて、長きにわたる祈りと瞑想の生活の末、ついに実存する神様と出会い、絶対真理を伝授されました。それは、宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする、驚くべき内容でした。この内容を社会に適用すれば社会の問題が解決され、世界に適用すれば世界の問題が解決されます。それだけでなく、宗教の未解決問題や哲学の未解決問題も解決されるのです。これは、かつてなかった新しい世界観であり、新しい宇宙観であり、新しい人生観であり、新しい摂理観であり、新しい歴史観です。また、あらゆる宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもあるのです。
2 「神様がいる」と言うとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざるを得ない、ということではないのです。神様は、「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっしゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定するかということ、これが問題だというのです。
3 人生において最も問題になることとは何かというと、まず神様がいるのか、いないのか、ということです。罪人の中で最も大きな罪人とはどのような人かというと、神様がいるにもかかわらず「いない」と言う人です。例えば、父母が元気に生きているのに、子女が「父と母はいない」と言えば、その子女を孝行者と言うでしょうか、不孝者と言うでしょうか。不孝者と言います。それでは、神様がいらっしゃるにもかかわらず「いない」と言う人は、どうなるでしょうか。そのような人は、みな滅びてしまうのです。ですから、存在する神様を「いない」と言うこと以上に大きな罪はありません。「神は死んだ」と言う人たちがいますが、これ以上に大きな罪はないというのです。
4 皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。なぜなら、論理圏内だけにとどまる神様ではないからです。論理的に神様を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、ここには問題点が多いというのです。それでは、このような環境で生きている私たちは、どのようにすれば真の主であられる神様の前に出ていくことができるのでしょうか。皆さんが、神様の存在を認めるならば、自分がもっている神様に対する疑いの心を率直に明らかにする、信仰の対象者としてとどまることができなければなりません。
結果的存在に対する原因的存在
5 自分が生まれたいと思って生まれてきた人は誰もいません。男性なら男性、女性なら女性、その誰もが、生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。父母を通して生まれましたが、自分自身が願って生まれてきたのではありません。私たちの父母も、やはり同じです。父母の父母、このようにして最初の先祖であるアダムとエバまでさかのぼれば、アダムとエバも、やはり同じです。すなわち、人類の始祖となる先祖も、自分たちが願って存在するようになったのではありません。誰か、あるお方が動機となって存在し始めました。
「人」と言えば、男性と女性がいます。男性には女性がいなければならず、女性にも男性がいなければなりません。また、男性は、自分が願って男性として生まれてきたのではなく、その男性に必要な女性も、自分が願って女性として生まれてきたのではありません。生まれてみると男性だったのであり、女性だったのです。そうして女性として、男性として育ってみると、夫婦になるにはお互いが必要だ、ということを知るようになります。このように見るとき、この根本原因になるものは人間だと見ることはできません。もし神様がいなければ、人間は存在することができないでしょう。
6 男性と女性が互いに出会って生活していくうちに、膨大な数の人類になりました。その人類は、数多くの国家に連結されていて、数多くの国家は、数多くの氏族、数多くの家庭、数多くの個人に連結されています。「私」自身も、その個人の中の一人であり、その家庭の一員です。ですから、現在の私たちに結ばれたその家庭、あるいは親族は、自分たちが願って形成されたものではありません。神様によって生まれて、家庭の一員になったのであり、親戚の縁を結ぶようになったのです。私たちは師弟の縁や父子の縁を論じますが、その縁も、神様がいなかったとすればあり得ません。このすべてが神様による結果の世界です。
7 この地のあらゆるものが存在するためには、存在させた原因がなければなりません。今日、私たちが生きている社会、私たちが暮らしている国、私たちが見つめる世界も、結果の立場にあります。このようなすべての環境のつながりが備えられるためには、その環境を備えさせた動機が存在しなければならない、ということを否定できません。一つの社会の形成、一つの国家の形成、一つの世界の形成について見てみるとき、それを受け継いでいくのは、もちろん人間です。しかし、人間自体が人間を形成させ得る根本原因になることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられないのです。ですから、人間を形成させ得る動機と内容が存在しなければならず、その原因が必ず存在しなければなりません。
8 私たちの心と体は、神様を中心として一つにならなければなりません。心と体が神様と完全に一つになって、三位一体にならなければなりません。神様を中心として一つにならなければならないというのは、神様が原因だからです。神様と人間は原因と結果であり、人間の心と体は相対的です。宇宙の根本がそのようになっています。宇宙の根本は、原因と結果が一つになったものであり、主体と対象が一つになったものです。原因と結果、主体と対象が一つになること、それ以外に、理想的環境、理想的存在は見いだせません。
9 人間は、あくまでも原因的な存在ではありません。ある原因による結果的な存在です。結果は原因と関係なく成り立つことはありません。紆余曲折を経たというとき、その結果は必ず原因と相応する内容と連結されて成り立っています。人間も、ある原因に似てそのようになっているというのです。その原因的な存在が神様だとすれば、人間は神様に似てそのようになったという結論が出てきます。
10 神様は、この宇宙の原因的な存在です。あらゆる作用の原因的な存在であり、力を加える原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。私たちはそのお方について、「人格的な神様である」と言います。なぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの明確な立場なので「人格的な神様である」と言うのです。ですから、原因を通して方向を定め、目的の世界に進んでいきます。そのような観点において、全体の原因的な存在が神様だというのです。
人体の神秘から見た神様の実存
11 人は、宇宙の被造万物の中で、皆さんが推し量ることができないほど偉大で、素晴らしい傑作です。それでは、その主体者、すなわち絶対的な神様がいらっしゃって人を造ったとすれば、神様御自身が語ること、見ること、感じることが分からないように人を造るでしょうか。神様を作家に例えてみましょう。作家は心で考え、頭で構想して、最高の作品を作ろうとします。一つしかない最高の作品を作ろうと構想して作った作品が、それこそ一つしかない作品になるときには、無限にうれしく思うのです。その作品が自分の思っていたものよりもっと素晴らしくなったというとき、「私が考えていたものと違うものになったので壊してしまおう」と言って壊してしまう人はいないはずです。自分が考えていたものよりもっとうまくいったときには、自分の一生の宝物だと思い、どこに行っても自慢したいと思うのが作家の気持ちです。人間が自分の思っている以上のものを望むとすれば、神様もそれ以上のものをお望みになるはずです。そのようにして人間を造ったとすれば、どれほど素晴らしく造ろうとされたでしょうか。ここにおいて、神様は人間を、最高の傑作として造りたいと思わざるを得なかった、という結論を下すことができます。
12 私たちの人体の構造は、本当に神秘の王宮です。数多くの細胞が個別的であると同時に、相応的な関係を中心として、相反することなく協調した構成を通して、私という個人の自由解放圏を形成しているというこの事実は、驚くべきことです。膨大な世界が流動し、運動するのは、「私」一人を完成するためであるという結論にもなります。さらには、神様のみ旨を成すために動いているという結論が出てくるのです。
13 人間において、最も重要なところが顔です。顔の中でも、最も重要なところが目です。この目を中心として考えてみるとき、目は父母から来たと言うことができます。それでは、その父母の目はどこから来たのですか。先祖の先祖をさかのぼっていくと、最初の人間であるアダムとエバにまで至るようになります。それでは、最初のその目が生まれる時、太陽があることを目が知っていたでしょうか。いくら考えても、知っていたとは思えません。目自身は、輻射(ふくしゃ)熱によって水分が蒸発しかねない、この地球というものを知りませんでした。また、眉毛は目にほこりが入るのを防止するためにありますが、眉毛が生じる時、空気の中にあるほこりが目の中に入ってくるのを防ぐために生じたことを知りませんでした。このように、目は無尽蔵な神秘の王宮になっているという事実を考えるとき、目自体が生じる前に、既に太陽があり、空気中にほこりがあり、水分が蒸発していることをはっきり知って、これに合うように誕生させた存在があったということが分かります。その誕生させた主体を、私たちは「神様」と言うのです。
14 耳を見ると、耳は前に向いています。それが反対になっていたとすれば、また、なかったとすれば、どうでしょうか。前から来る音がそのまま通り過ぎてしまうでしょう。遠くの話し声も聞こえないはずです。耳は、前から来る話し声を受け止めるようになっています。なぜでしょうか。相手と向かい合って話をするからです。後頭部に向かって話す人はいません。人と会って話をするとき、向かい合って話をするので、そのようになっているのです。耳が前に向くようになったのは、前から来る声を聞くようになっていることを、耳が生じる前から先に知っていたということです。