天聖教: 第14話

第一篇: 神様

第三章: 創造主であられる神様

第一節: 神様の創造 1-16

1 宇宙は、単純に物質に根源があるものであったり、自然発生的にできたりしたものではありません。宇宙の第一原因者であられる創造主、神様はいらっしゃいます。そのお方は絶対者であり、永遠不変であられ、善であられます。宇宙万象は、そのお方の基本設計である創造目的によって造られた被造物です。心情の本体であられる神様の創造目的は、喜びを享受されることです。しかし、喜びは一人では感じることができません。ある主体が喜びを感じるためには、必ずその対象の実体が必要です。喜びの中でも最高の喜びは、主体と対象が愛を与え合うときに感じるようになります。

2 宇宙は本来、一つのみ旨の中から生じました。この宇宙を中心とした天の父母様がいらっしゃって、その父母に由来して今日の、この被造世界が生じました。宇宙の父母である中心存在が神様です。ですから、存在世界と神様、「私」と神様は二つではなく、一つです。一つは、中心の位置に立つために、上から地に向かって垂直線で下りてきているのであり、もう一つは、平面の水準を通して中心と結びつこうとしています。そのような神様のみ旨があります。

3 神様が最初に天地を創造される時、この天地と御自身の内的基準と、永遠の関係を結ぶことを願われる宇宙観と創造理想と創造目的がありました。そのようなものの中心は、正に神様の心情でした。宇宙の根源はあくまでも神様自体ですが、宇宙の創造という現象を起こすようにした最初の根拠は神様の心情であり、その心情を中心として一体化することのできる理想圏がありました。

 

創造とは何か

4 アダムとエバは神様の体であり、見える神様です。アダムとエバは見える神様の立場です。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることはできません。体がありません。ですから、実体世界を指導し主管するためには、実体をまとわなければなりません。アダムとエバは、堕落せずに完成して地上で生きて天上に行けば、形状をまとった神様になります。見えない神様と、見えるアダムとエバが一つになるのです。そのようになれば、アダムとエバが「ははは」と笑うのは、神様が「ははは」と笑うことなので、それは正に宇宙が「ははは」と笑うことです。無形の神様が実体をまとった神様として登場するためのものが、被造世界の創造です。この世界を創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。

5 神様は人の母体であり、万有の核です。なぜあらゆる存在の核であられる神様が天地創造をされなければならなかったのでしょうか。それは、核が一人だけでは核自体が滅びてなくなるからです。電気で言えば、いくら完全なプラスだとしても、プラスだけがあってマイナスがないときは、「なくなるな」と言ってもなくなります。そのプラスがなくならないためには、なくならない原則に従わなければならないので、創造の役事を経て完全なマイナスが生じるのです。それは、互いが与え合うことで、初めて存在が決定されるからです。

6 天地万物を創造された神様は、その内的な心の世界で感じるあらゆるもので、外的な世界に完全な対象の実体を立てて、それと共に与え合うようになります。責任をもつことができる位置で、完全に与え合える対象を造っておこうとして造ったのが人です。ですから、神様が造られた被造万物の中で最も好むのが人です。また、人が最も好むのは神様です。神様を尊重するのです。ですから、人は神様を訪ねていくようになり、神様は人を訪ねていくようになるのです。

7 「神様が主人だ。天地を創造した創造主だ」というとき、その創造主という言葉は、根源を意味する言葉であり、主体を意味する言葉です。創造物は対象だということです。画家で言えば、自分の傑作を作ろうと構想したとすれば、その構想どおりにそのまま展開させて気に入ったものができなければなりません。気に入るということは、目で気に入り、鼻で気に入り、耳で気に入り、口で気に入り、無数にある自分の細胞まですべて和合して気に入る、ということです。それは全身が気に入った存在なので、自分の体を身代わりにしたものです。そのように見れば、心と体は本来一つになるようになっています。私たちの霊人体は霊的な五官をもっていて、肉体も肉的な五官をもっていますが、これが互いに和合して、理想的な和動が広がらなければなりません。それは食べることで広がるのではありません。体と心の和動は真の愛によって始まるのです。

8 神様は天地を創造した主体です。その主体であられる神様は、息子、娘である人類と向き合っていらっしゃるお方ですが、「人間のために私はいる」と言うのが原則です。そうだとすれば、人間は幸せな人になるのです。それ以上、望むものはありません。この原則は、私たち人間が本来もつべきものでしたが、もつことができなかったので、最高のものを望んでいます。その最高のものが神様の愛です。

9 創造は、根対的存在を造ったということです。本来、神様が力を大量に投入したのは、神様御自身のために、神様が良くなるためにではありません。自分が良くなるためではなく、先に相対を造るために苦労しました。先に投入して理想相対の追求という表題のもと、すべての天地万物を造っていったというのです。

10 存在と生命のうち、どちらが先でしょうか。哲学というものは、存在から始めるようになります。初めから生命を扱えません。それでは、生命はどこから出てくるのでしょうか。生命は独りで自ら出てくるのではなく、父母の愛から出てきます。生命の世界と愛の世界は、神様が管理する世界です。それ以下のものを扱ってきたのが哲学思想です。ですから、存在よりも生命が先です。存在を動かすのは生命です。生命を動かすのは何でしょうか。愛だけが生命を動かすことができます。愛によって出発したので、愛の関係に従って動き、愛の結果を訪ねていくのが生命の行く道です。このように、情緒的な問題が宇宙創造の根本です。

11 いくら偉大な神様だとしても、愛の情緒を感じられない立場なら、孤独な神様です。ですから、猫でも懐に抱き、「私は猫をうまく作ったな。私が耳をこのように作ったとき、気持ちが本当に良かった。この足の爪も、ねずみを取って食べやすいように、このように作ったのだ。はっはっは、気持ちが良い」と言わなければなりません。その良いというのは、情緒的な動機を中心として、あらゆることが関係しています。

12 神様は、今も創造の能力をもって、古い環境を片づけて新しい環境をつくろうとされます。そうすることのできる能力をもったお方です。それが不可能なのは、堕落圏だからです。ある条件の提示が成立しなければ不可能です。それでしないのであって、できないのではありません。環境的条件さえ提示され、天が活動できる内容さえ提示されるようになるときには、新しい歴史は、新しく創造される環境は、いつの時でも、どのような時代でも連結することができます。創造当時の神様も、歴史過程を経てきた今日の神様も、未来の神様も、創造主としての権限は、いつももっています。

13 神様が創造するときに、神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造して、これこれこのような人間世界を造ろうという、本来の神様のみ旨と計画があったというのです。ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間は、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければいけません。ですから、神様は、人間を御自身のみ旨と計画圏内に入れるように準備されるのです。神様の計画とそのみ旨を中心として、環境と与件を開拓しながら、人間を計画圏内に立てるために前面に立てたのが、歴史時代に現れた数多くの宗教です。

 

完全投入を通した創造

14 神様が天地万物を創造されるとき、なぜ人間を造ったのでしょうか。相対がいない神様としては刺激を受けることができないので、相対を造って理想の愛と生命と希望の刺激を感じるために造りました。聖書で見るように、神様が人間を造るとき、「おい!人よ、現れよ」と言って簡単に造ったのではありません。神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。結局、神様と人間の関係においては、投入という言葉、無条件投入という言葉、全体投入という言葉を語ることができます。ここから、神様が真の愛を成すための方向性を探ることができます。相対に一〇〇パーセント投入したのです。投入する過程は、神様自体の消耗です。しかし、完全投入したという日には、問題が異なります。一〇〇パーセント投入して完成する日には、百を投入したものは百のものが完成して、そこに相対的な愛がプラスされて神様に帰ってくるというのです。ここに相対的な愛の権限、相対的な特権の価値、自分が投入したすべての内容がプラスされて登場するようになるのです。そうすることで、神様は初めて刺激的な幸福を感じられるというのです。

15 父母は愛する子女に対して、全体を投入しようとします。神様と同じです。神様は、神様のために投入したのではありません。神様のために存在するのではなく、相対のために存在しようという、相対のための神様の位置に立とうというのです。神様が神様のために存在しようといえば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子女に投入して、その子女と共にいようとするところにおいて、愛と生命と希望が成り立ちます。結局、真の愛と真の生命と真の希望をもったそのお方が最初に人間に与えたいと思うのは、真の愛と真の生命と真の希望です。それを与えるときに、自分の立場で与えたのではなく、相手の立場に立って与えたというのです。

16 真なる神様は、相対を造るときに、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様は、アダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようとするのです。神様のためではありません。自分のためにいた時から、相対のために生きる時へと展開していくのです。理想的存在というものは、自分を中心とはしません。理想的存在は、他のために生きるところに、対象のために生きるところに存在します。この原則が宇宙の根本です。

Luke Higuchi