天聖教: 第15話
第一篇: 神様
第三章: 創造主であられる神様
第一節: 神様の創造 17-32
17 聖書では、神様は全知全能なので、言葉一つで、「このような天地になれ」と言ってそうなったとあります。しかし、そのようにはなっていないのです。神様は、あらゆるものを投入したというのです。もっている力をすべて投入しました。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための贈り物として万物を造ったというのです。
18 創造とは力の投入を意味します。この世の中に芸術家がいるなら、その芸術家は傑作を作ることを願います。芸術家は、傑作を作るために、ありとあらゆる思いと精誠を投入します。すべてを投入するところからのみ完全な傑作が生まれます。不完全投入ではありません。完全投入、それ以上できないというときに初めて傑作が生まれます。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。「私」の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。ですから、創造自体が投入から始まったというのです。力を投入しなければなりません。力を投入しなければ何も生じません。完全な投入をするところで完全な対象が成立するという原則を中心として見てみるとき、神様は主体として対象に対して完全に投入したというのです。神様御自身が自らのために存在するのではなく、対象のために存在するという運動を始めたのが創造の役事です。
19 万物を創造するということは、自分の本質を取り出すことです。結局は、エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の投入を意味するのです。投入するのです。対象を創造する理念の世界は愛によってなされたので、そのみ旨を成し遂げるために神様は投入されたのです。投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。ですから、愛で造りました。それで、投入して神様が願うことを感じるのではなく、満足を感じることができたのです。それが原則になることによって、愛の伝統においては父母の愛の本質が残りました。自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です。
20 力学世界では、入力が出力より大きいのです。しかし、真の愛の世界は、入力が出力より小さいのです。ですから、これが平面に展開して永遠の宇宙が存在するのです。消耗すればすべてなくなります。運動するからです。しかし、無限に投入する愛の力が作用するので、消耗なく大きくなるのです。神様が、愛を中心として存続する立場に戻るのです。反復作用によって循環作用を継続する形態をもって、永遠に存続するようになっています。ですから、家庭から氏族、氏族から民族、民族から世界まで同位、等価の基準で拡大し、一人の人間の頭で構想した宇宙のように、人類と宇宙を、合性体と同様に、理想世界、統一世界、平和の一体圏、統一圏にすることができるのです。
原則と法則による創造
21 神様は、アダムとエバには相対的立場で命令され、相対的な立場で信仰の条件を見て彼らに対されましたが、これからは実体を求められるようになります。ですから、相対的な立場ではなく、「私」の心と体が一体になることによって、自分の一つの実体を求めなければなりません。このような実体を求めるためには、創造の法則を通さなければなりません。
22 聖書を見ると、天地を創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「おい、何々」と呼べば、「はい」と言って現れたというのです。「星よ、生まれよ」と言うと星が生じ、「地球星よ、生まれよ」と言うと生じたということになっています。しかし、ここにおいては、無限な秩序と法度に従って前進するという原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたのです。
23 人間の生活の中で、ために生きる真の愛があらゆる相関関係の基本ですが、これは父母の真の愛を動機として体恤するものです。神の真の愛を根とした父母の真の愛は、人間の個体を完成させるようになります。完成した個体が真の愛の理想的な夫婦となった家庭において、彼らの子女に真の愛を伝授するようになるのが創造の秩序です。地上の理想世界は、完全な一人から、真の愛による家庭、社会、国家、世界に拡大していきます。
現在の世界は、このような理想世界とは、その出発を異にした世界です。神様の創造原則のうち、最も貴い真の愛の秩序から人間が離れた、堕落の結果が拡大してきた世界です。神様の創造秩序を度外視したまま、人為的な組織形態や法則、秩序だけを重視する現在の世界は、理想的な個人、家庭、そして民族を養成することはできません。
24 神様は、天地を創造されるときに、万物を造られ、人を神様の対象として造られました。対象として造られたのですが、授け受けする授受作用の原則が天地の作用として、運動法則になっているので、すべてを完全に与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛されたというその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」このようになるのです。完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けてこそ、完全に返すのです。それを受ける前に返し始めれば、完全なものは戻ってきません。それが愛を中心とした授受作用、原理原則を中心とした宇宙の原則です。
25 神様の創造過程を中心として見てみると、三段階の原則があります。先に神様の考えがあり、その次に心を通してその考えを現し、その次にそれが実現します。そのような三段階を経て創造物が形成されたのです。もちろん、み言を実践するに当たっても、心だけではできません。そこでも、やはり神様を中心として神様の心と神様の体が一つにならなければなりません。そうして「このようになれ。このように創造されるのだ」と言うとき、初めて創造が実現するのです。
26 神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念をもち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて目的を具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。
27 神様が創造主として、歴史的で内情的な原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を、実体的に展開してきたのがアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから連結されるのでしょうか。細胞が一つになって大きくなるのと同様に、赤ん坊が十ヶ月間の成長過程を経て、男性と女性の形態に分かれていくのと同じではないかというのです。そうでなければ、生命の遺伝をどのように展開させるのかという論理に対して、解釈する方法がありません。言い換えれば、主体には相対圏が必要だということです。統一教会の言葉で言えば、性相には形状が必要だということなのです。
28 内的な性相は、あらゆる根源的な面において外的な形状と一致することもでき、通じることもできる関係があります。ですから、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、自分の内的なあらゆる存在が表現されるので、愛さざるを得ないというのです。それが「私」です。「私」が現れた実体です。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。
神様の臨在と顕現
29 神様は、どこにとどまりたいと思われるのでしょうか。アダムとエバが堕落しないで完成し、真の愛を中心として一つになるとき、神様はそこに臨まれます。結婚した日に初愛が植えられる、そこにおいて中心となって出会おうというのです。神様の血と愛と生命を、どこに植えますか。内的なものと外的なもの、プラスとマイナスが同化して一体にならなければならないのです。ですから、初愛が最も貴いのです。縦的な永遠の愛の主人が神様であり、横的な永遠の愛の主人が夫婦です。
30 神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありませんでした。縦的な愛を完成して、アダムとエバの横的な愛の結実をもたらそうとされました。その瞬間が、正に内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとって有形世界に永存する父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです。
31 神様が天地を創造されるときには、復帰は必要ありませんでした。神様が創造本来の世界でアダムを中心として願ったことは、今日、復帰すべき世の中で待ち望む願いとは本質的に違います。アダムとエバを創造したすべての願いは、何よりもまず神様御自身を顕現させることでした。言い換えれば、アダムとエバを通して神様の内的な要素を外的実体として展開させ、神様が願われる遠大な希望と人間の願いが一致した一時を迎えることを願われたのです。
32 神様が被造世界を造られた目的は共に生きることですが、今日、人間と万物、あらゆる存在物が神様と共に生きることができる圏内にいません。堕落によってそのようになったのです。堕落したために、神様が臨在できる根拠地が消えるようになったというのです。そうだとすれば、神様がアダムとエバを失ったその日から今日まで、人間を探し求めるのは何のためでしょうか。それは、人間が神様の宮になり、神様の体になり、神様と一体となって、天と地を身代わりした一つの実体存在になれば、人間の喜びが神様の喜びになり、神様の喜びが人間を通して万物に連結されるからです。すなわち、人間が神様と万物を結びつける中間媒介体だからです。