天聖経: 第7話
第一篇: 神様
第一章: 神様の存在と属性
第四節: 神様の属性 7-26
真の愛の根源であられる神様
7 神様は愛の根であり根源です。また神様は生命の根です。そして、神様は血統の根であり、良心の根です。私たちは、愛や生命、血統、良心を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することを知っているのと同様に、神様を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することが分かります。それでは、生命の根となり愛の根となる神様は、どこにいるのでしょうか。空中にいるのではありません。私たちの生命と愛の根の中に神様がいらっしゃるのです。ですから、感じることができないのです。
8 神様は真の愛の根です。根は、幹を通して芽と通じます。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。ですから、神様は、人間世界において、真の愛を中心とした縦的な父だということを発見できます。真の愛を中心とした縦的な父が創造主であられます。
9 愛の根が神様です。神様は根の中の根です。その愛の根に接ぎ木しなければなりません。そこに一つになれば、その愛の根に連結され、そこから芽が出て多くの枝が伸びれば、花が咲き、実を結びます。そこにおいて、主人の希望が花開くのです。芽が出て枝が伸びなければなりません。芽が出ただけでは滅びます。芽が出れば、枝を伸ばさなければなりません。中心となる枝をはじめとして、数多くの枝が出てこなければなりません。数多くの葉が生い茂ってこそ、そこに花が咲きます。それが育つ順序です。そのようにして、本来の完成段階を経ていくのです。
10 愛の主人は神様です。神様が愛の根です。根の中で中心の根は一つです。中心の根に通じる愛はどこにあるのか探さなければなりません。ですから、完全に神様のようにならなければなりません。神様の心と体が絶対的に一つになっているのと同様に、私たちも心と体が絶対的に一つになる息子、娘にならなければなりません。
11 善の神様は、犠牲と愛の神様です。愛は、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったとしても、その犠牲を犠牲とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような異なる性質をもっています。愛がどれほど大きいかを考えるとき、それを表すのは、必ず犠牲になるその量がどれほど大きいかによって、愛の大小、高低が決定されます。犠牲が大きければ大きいほど、大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど、そこでは小さな愛を表すのです。
12 神様は絶対的な愛の存在です。神様は愛の対象である人間を創造し、御自身の愛をその上に注ぐことができるように願いました。そのようにすることによって、神様は自然に、男性と女性からその愛が返ることを期待しました。そうなれば、神様は無限の喜びを感じたはずです。アダムとエバは、まず自分たち同士が愛の中で一つとなってこそ、神様の愛の完全な対象となることができます。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神様の愛を受けてその愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間が必要でした。
13 神様は、愛のために天地を創造されました。その愛の対象とは誰でしょうか。人間です。これが人間の価値です。神様は愛の王であられるので、父母の愛も、夫婦の愛も、兄弟の愛ももっています。東西南北、前後左右に、その本性をもって真の愛を備えることを願う相対が現れるときは、いつでも向き合える主体なので、神様は愛の大王であられるのです。
情、知、意の人格的な神様
14 神様は、人間とどのような関係にあるのでしょうか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的な神様でなければなりません。人格的な神様であるならば、人間と同じでなければなりません。人間に心があり、体があるのと同様に、人間を造られた神様も、人間と共に共同の目的をもつことができるその本体であるならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、そこから出てくるのです。
15 創造主であられる神様が創造するとき、無目的な創造物を造ることはできないというのです。人間が情、知、意をもっている以上、このような人間を造られた神様も、やはり情、知、意の本体であることは間違いありません。
16 神様は、人格的な神様です。人格的な神様なので、情、知、意を備えなければなりません。そうであってこそ私たちと通じることができます。「私」が笑えぱ神様も笑わなければなりません。それでは、思いのままにできる絶対的な神様が涙を流すのでしょうか。神様も涙を流すというのです。
17 キリスト教では、神様は唯一無二のお方であり、絶対的なお方であり、創造主であり、神聖な存在として至高な立場にいらっしゃるので、人間、すなわち被造物と関係をもつことができないと考えています。被造物は卑しいものであり、創造主は絶対的で神聖な方であるとみなしていますが、愛の概念を中心として考えてみるとき、神様と被造物が愛の関係を結ぶためには人格的な内容が同じでなければならず、心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備えた人と性稟が同じでなければならないというのです。ですから、人間は神様に似ているのです。それで、私たちは、「神様は私たちの父であられる。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは人間が神様に似ているということです。何を通して似たのでしょうか。血統を通して似たのです。血統を通して関係が結ばれたというのは、愛によって関係が結ばれたという意味です。
18 神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造りました。キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。神様が理想的な愛の相対者を求めようとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようとする愛の対象者も神聖だというのです。人間の特権的権威は、ここから成立します。
19 哲学の最後の終着点は神様を発見することです。その神様は、どのような神様でしょうか。絶対的な神様、不変の神様、唯一の神様です。神様を発見するとき、その神様は人間に必要な人格的な神様でなければなりません。人間と関係を結ぶためには、人間が考える内外のすべてを備え、意志を備え、理想を備えた人格的な神様でなければならないのです。情緒的な領域や、意的な領域や、知識的な領域や、あらゆる領域で、人間と通じることができ、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、いくら神様がいるとしても、人間とは完全な関係をつくることができません。このように考えるとき、哲学は、人格的な神様でなければならないという表題に基づいては、神様をあがめ、尊んでこなかったのです。
20 神様が必要とするものが愛ならば、神様は神様に似たものを愛されます。ですから、神様が好み、愛を分かち合える、相対的なものを必要とするのです。人間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければなりません。それとともに、そのあらゆる要素が100パーセント和合しなければなりません。心と体のすべてが和合する神様でなければなりません。ですから、情、知、意をもった神様でなければならないのです。
21 神様を中心として見てみると、神様は人格をもった神様です。神様は人間の主体なので、人間と完全に通じる人格者です。そのようなお方ならば、その方が考える人倫道徳があるはずです。人間はこれこれこのように生きなければならない、という法則があるはずです。人間に人倫があり、人情があるのと同様に、神様においても天倫があり、天情がなければなりません。神様は主体者としての愛をもたなければならず、そのような法度をもたなければなりません。また人間は、対象者として愛をもたなければならず、その法度をもたなければなりません。人倫と人情があるのに、天倫と天情はないというならば、これは論理に合いません。
22 「元亨利貞(ゲンコウリテイ)は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱である」という言葉があります。「仁義礼智」を重要視したのです。「元亨利貞」は、自然の変わりなく循環する春夏秋冬の宇宙軌道についての説明です。しかし、人格的な神様が分かりませんでした。自然世界の陰陽の道理は解きましたが、愛や血統や完成ということが分かりませんでした。神様は東西南北の均衡をとった主体と対象、性相と形状の中和的存在だということが分からなかったというのです。
23 この天地を運行する神様は、人格的な神様です。人格的な神様は、人間を中心とする理想的家庭を中心として父母にならなければならず、夫婦にならなければならず、子女を率いて一族を編成し、一族を中心として一国を編成して世界の統一、天の大家族国家を形成しようとするのです。そのようになれば単一民族になります。イエス様が「神のひとり子」と言ったことは驚くべき宣言です。その次には、「新郎新婦」を語りました。男性として達成すべき最高の基準を教えたのです。ヨハネによる福音書第十四章を見ると、骨子をすべで語っています。ですから、のちに新郎新婦を訪ねてきて、家庭編成、氏族編成、国家編成、世界統一天下のために再臨するというのです。
24 愛を論じようとすれば、人格的な神様でなくてはなりません。人格的に人と同じ素性と情緒をもった神様でなければならないのですが、そのような神様を提示した宗教は、キリスト教しかありません。キリスト教では神様を「父、ヤハウェの神」といいました。「ヤハウェの神」を父と呼んだというのです。神様を「父」と言ったという事実は、偉大な発見です。
原理と法度の神様
25 神様は、原理の神様であられます。反対にサタンは、非原理的な立場に立った存在です。ですから、非原理的であるときはサタンが主管し、原理的であるときは神様が主管するのです。神様が天地を創造されたところを見てみると、神様がいて、その次にアダムとエバがいて、その次に天使長がいる、このようになっています。これが原理的です。
26 宗教生活とは何でしょうか。本性の生活です。本性は原理の中心です。神様は原理の主人です。ですから、神様は原理を管理することができます。本性の位置だけを中心として、神様が管理することができるのです。本性の位置は絶対的な神様と一つになっているので、本性も絶対的な位置に立とうとします。心が体に対していつも命令できるのは、絶対的だからです。また、原理的だからです。原理は、あらゆる事物の中心を決めます。原理原則であるほど、それは中心の近くの位置に行くのです。