天聖教: 第8話
第一篇: 神様
第一章: 神様の存在と属性
第四節: 神様の属性 27-33
第二章: 心情と真の愛の神様
第一節: 心情の神様 1-9
27 善良な人、良い人は、全体の代表者です。ですから、善を中心として見てみるとき、原則的な原理の位置に近い人が、より善良な人です。その原理の中心が神様なので、原理に従う本心は、自動的に神様と一つになろうと作用します。その自動的に一つになろうとする作用が良心作用です。本来、良心は人間が堕落しなければ、体までも一つにすることができる主人でした。それが原理でしたが、堕落したので非原理的な基盤になりました。それで原理は、闘争しながらでも、非原理に対して常に作用せざるを得ません。これが良心作用です。
28 真は、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから、人間を全体的に収拾し、主管できる決定的な基盤をもつようになるとき、真が成立するのです。その基盤をもつことができなければ、真という言葉は成立しないのです。真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成立します。ですから、神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ真の結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって神様の願いが成就するというのです。ですから、真や善という言葉は、人間を主として立てられたものではなく、神様を主として立てられたという事実を知らなければなりません。
29 真とは何でしょうか。男性にとって、最も真理であり真なるものは女性であり、女性にとって、最も真理であり真なるものは男性です。また、神様にとって真は人であり、人にとって真は神様です。真理がほかの所にあるのではありません。神様が真であり、神様が真理なので、そこから始まったすべてのものは真であり、真理とならざるを得ません。そのような真のものがどのようにして完成するのでしょうか。男性と女性が一つになり、その一つになった男性と女性と神様が一つになるとき、真の愛を中心として完成するのです。真の愛でなければ完成はあり得ません。このように考えるとき、男性と言えば、その男性は真理の完成を代表した存在であり、女性もやはり真理の完成を代表した存在です。男性と女性が一つになるのは、神様の完成とともに宇宙の完成のためなのです。
30 神様は、真理の主体であり、真理の本体であられるので、あらゆることが可能だといいます。神様が真理ならば、この原則は同じです。神様は、主体的存在であると同時に、主体としてあらゆることに責任をもたれるのです。自分に関係することでも、相対的なことでも、あらゆることの責任は自分が負うという立場にいます。ですから、神様は今まで歴史の中心になってきたのであり、また永遠に中心存在として残るでしょう。
31 神様が、法で天地万物を造っておいて、その法を無視すれば、その神様は、法を主管できる神様になれません。法を立てたのなら、法を守ることによって、法を主管できる神様になります。法を自分のものにすることができる神様になるというのです。法に反対すれば、その法を自分のものにすることはできません。法を守ってこそ、その法が神様のものになります。自分がその法と一つになったがゆえに、その法を中心として判断することができ、法に背いたと制裁することができ、命令することができます。そうでなければ、法をもって判決することもできず、宣告もできません。
32 キリスト教で「父なる神、全知全能の父」と言いますが、全知全能の神様も原則の基盤の上においての全知全能であって、無原則の基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。神様御自身が法を立てたならば、永遠のお方が制定した法は永遠です。自分が立てたものだといって、自分勝手にはできません。
33 キリスト教の牧師たちは、「全知全能で創造の能力をもった神様は、今からでも思いどおりにできる」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天地のあらゆる存在物は、法則、大原則に基づいて作用します。いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできません。この国の大統領でも、憲法を中心として制定されたすべての法、立法機関を通して制定された法を重要視しなければなりません。神様は絶対者であり、永遠、不変、唯一の存在なので、その方が定めた法も、絶対、唯一、不変だというのです。そして、この法に一致する相対者が必要です。相対者がいなければなりません。個人を解放できるその法に一致できる、世界を代表できる相対者が必要だというのです。
第二章 心情と真の愛の神様
第一節 心情の神様
1 神様は心情の主体です。ですから、神様も無限に悲しい感情をもっていらっしゃり、無限にうれしい感情をもっていらっしゃいます。神様だからといって、喜び、うれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。悲しいとすれば、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃるお方です。
2 人間を造った神様は、私たちの心と体の主人であることはもちろんであり、私たちの理念や、私たちの感情世界の主体の位置、主人の位置に立つことのできるお方であり、さらには、私たちの心情の主人であり、主体であられるお方です。私たちには、このような神様が絶対的に必要です。私たちの意識や人情で観念的に必要なのではなく、絶対的に必要です。そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。
神様は心情の主人
3 神様は、「私」の体と、私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻はその夫を恨みません。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、夫は「なぜ私より神様を愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことのできる世界が天国です。世の中のどのような愛、どのような内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であるその神様の懐やその園にいることができれば、死んでもよいというのです。
4 真の内的心情の縦的な位置に立っているお方が、神様です。父です。それでは、真の父母とは何でしょうか。横的な心情を中心として男性と女性が父母になり、垂直線を補強できる「副体」になるのです。垂直線を曲げてはいけません。この中央線にサタンが侵犯できる道があるので、愛の骨の中で、これを補強できる愛の肉にならなければなりません。愛と化した骨と肉、愛と化した骨の立場の父が縦的な神様であり、愛と化した肉の父母の立場が真の父母です。これが核となって「副体」が決まるというのです。
5 心情の役事とは、人間の肉身と関係している場所を中心として語るものではありません。ここには天情が介在しています。この天情は、根源も天情であり、過程も天情であり、結果も天情の内容を備えなければなりません。ですから、神様の愛を中心として神様と一体となって生まれた、堕落していないアダムとエバのように、神様の血統を受け継ぐことのできる関係をもった自らにならなければ、心情的な勝利の土台を備えることができません。
6 本来、アダムとエバは神様の心情に通じ、神様の希望をもって躍動しながら、毎日の生活の中で神様の懐に抱かれて満足し、あらゆることに対して感謝する主体にならなければなりませんでした。ところが、彼らがそのような道を歩むことができない姿を御覧になる神様の心情の痛みは、苦しむ彼ら以上のものだったことを、私たちの先祖は知りませんでした。
7 今日の「私」はどのような心情でさまよい、どのような視線と、どのような五官をもって生を営んでいるのかを考える前に、皆さんはまず「天よ!私は、心情に対する感覚をもって生涯を生きていますので、昔、エデンでアダムとエバが堕落する前に神様と向き合っていた心情と、堕落したときの心情、神様がアダムとエバを追い出された心情、この人類をつかんでノアを立てる時まで千六百年の間苦労された神様の心情、ノアが百二十年間、山の上で箱舟を造ったとき、激しい冷遇と虐待を受けながらも天に従って苦労したその心情、紆余曲折と千態万象の歴史過程を経てきた神様の心情を、自分のものとして一度生きてみたいです」と言うことができなければなりません。
8 生活感情で、私たちが、神様の感情と共感した感情を、いかに感じるかということが問題です。一人でいれば、思わず「お父様!」と呼び求めることができなければなりません。そうすると、神様から「どうした!」と答えが返ってくる感覚を受けるようになります。一体になれば、そうなります。誰もいないようですが、誰かが私を主管し、指導しているというのです。そのような生活圏内に入った人ならば、神様がいる、いないということが問題にならず、困難にぶつかれば、必ず「私」を擁護してくれ、導いてくれることが分かる立場なので、神様を裏切っていくことはできません。
9 神様も、情、知、意をもっていらっしゃいます。神様から造られた人間に情、知、意があるのですから、神様は言うまでもありません。たとえこの地上の人類が堕落の子孫だとしても、本来は神様御自身の血族であり、直系の息子、娘なので、失った息子、娘を捜し求める父母以上の心情で歩んでこられたお方が神様です。ですから、私たちがこの地に対して涙を流し、死と苦痛で倒れ、悲哀に満ちて悲しむ場面が、正に神様の悲哀と悲しみが反映された場面、場面なのです。ですから、善良な人を蔑視し、善良な人を迫害し、善良な人の命を奪った個人、家庭、民族は長続きしません。神様がそれを記憶するからです。
したがって、私たちは自らの涙が落ちるたびに、天の涙が落ちることを知らなければなりません。怨讐に対して無念で悔しい思いが湧き起こるたびに、神様が赦しの涙を流されることを私たちは知らなければなりません。恨みを晴らしても、「おい、こいつ、お前は、よくぞ死んだ」と言う神様ではありません。人を怨讐だと思って打つのではありません。