天聖経: 第5話

第一篇: 神様

第一章: 神様の存在と属性

第二節: 根源であり本体であられる神様 22-34

第三節: 神様のみ言 1-5

22 神様は縦的な父であり、縦的な主体であり、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ組織体が完成します。立体的な組織体は、縦横が一つになり、前後が一つにならなければなりません。縦的なものとは父子の関係です。横的なもの、東西の関係は夫婦の関係であり、前後の関係は兄弟の関係です。このように、一つの家庭に、愛の理想を中心とする一つの球形を形成しようとすることが神様の創造理想です。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。中央にいらっしゃいます。父の代表として、夫の代表として、母の代表として、妻の代表として、息子、娘の代表として、兄姉の代表として、弟妹の代表として立つことができる、中心存在としていらっしゃるためのものが、神様の創造理想です。

23 神様は、公的な目的を中心として忠誠を誓って立ち上がる者たちの前には、いつも主体的な立場で向き合ってくださる主体者です。「私」が涙を流して身もだえすれば、神様もそれ以上に涙を流して身もだえする主体者です。公的な愛の心に燃えていくとき、神様は愛の中心であり主体者なので、愛に刺激された心にいつも相対し、またそこに対する刺激を与えて、その目的を成し遂げる原動力を補給してくれる主体者です。愛を中心としてその目的を成就させるためには、同労者が必要なのにもかかわらず、世の中にはそのような同労者がいないのですが、神様が同労者になり得るならば、どれほど幸せでしょうか。その神様は、父母に優り、兄弟に優り、どのような師にも優り、自分を愛するどのような人にも優るというのです。

24 私たちの主体は神様です。ですから、神様と共に喜び、神様と共に歌い、神様と共に踊らなければなりません。そうなれば、どれほどよいでしょうか。ですから、私たちの目的も神様です。私たちの人生の道は、何を求めていく道でしょうか。神様を求めていく道です。その神様は、現実的な神様です。

25 神様は個人の主人であり、夫婦の主人であり、家庭の主人であり、国の主人であり、世界の主人であり、天宙の主人です。私たちは、神様の愛をもって、神様の中心までも占領する主人の役割を果たそうというのです。相対基準を造成し、相対と一体化して平和世界を成し遂げようというのです。キリスト教では、「創造主は神聖で、人間は卑しい」と言いますが、それはよく知らないので、そのように言うのです。先生が教えるべきことが、これです。神様が創造した第一の目的は、神様も形状が必要だったということです。

26 神様は最高の公的な主体です。したがって、人間に対する最高の教えは何でしょうか。世界のために公的なことをするよりも、神様のために自分の生命を懸けて精誠を尽くす人になりなさいということです。そのような人が最高です。ですから、聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)とあるのです。それでは、神様はどのようなお方でしょうか。万宇宙の主人です。ですから、神様を愛するようになれば、この世界は神様を愛する人のものになるのです。

 

愛、生命、理想の主体であられる神様

27 神様は生命の主体です。生命が維持される所には、必ずその背後に愛が残っています。皆さんは父母の愛から生まれました。また、その背後には愛と生命とその目的性をもったお方がいます。そのようなお方は、「私」のような主体ではなく、全体の根のような主体です。皆さんが一つの細胞のような相対ならば、そのお方はこの全体の根のような、宇宙存在の核のような主体です。生命力の全体を代表し得る核であり、愛の力があれば愛で全体を代表する核であり、ある目的があるとすればその目的の原因的な一つの核になるお方です。

28 太陽が昇ってくれば、すべての木の芽は、太陽に従っていくように作用します。芽が従っていく太陽の光とは何でしょうか。生命の元素です。生命の元素は、人間にとっては愛です。神様は愛の太陽です。気づいてみれば、神様は愛の太陽なのです。ですから、すべての愛と生命の要素をもって発展し、無限の世界に同化できる人格を具備するためには、愛の理想に接ぎ木をして和合しなければなりません。そうしなければ、その前に相対圏を得ることはできません。愛の相対圏を得ることができないというのです。ですから、人間は高貴なのです。神様の愛の相対者として造ったのです。

29 神様は、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体です。ですから、人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象だという結論を下すことができます。神様が絶対的ならば、自分も絶対的な立場を願わなければなりません。神様が不変ならば、自分も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、自分も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、自分も永遠でなければなりません。このような観点で、人間の永生は不可避であり、それは結果的な帰一点とならざるを得ません。いくら神様に愛があるとしても、自分に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、自分に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、自分に理想がなければ、すべてのことがむなしいのです。

30 私たちの生命の主体は神様です。神様は生命の主体であり、愛の主体なので、神様自体に生命力があれば、その生命力も好きになり、愛も好きにならなければなりません。堕落することによってそのような世界にならなかったので、私たちは再び取り戻していかなければなりません。そのような観点から、私たちが生きている世の中は、神様が願う世の中ではなく、私たちが願う世の中でもありません。

31 生命をもった存在物は、きょうも動くと同時に、またきょう以降、永遠の未来にも動くのですが、その生命の主体が神様です。また、生命をもったものは、どのような存在であっても、神様と永遠に一緒にいたいと思い、神様を中心として生活したいと思い、生死までも共にしたいと思う本性をもっています。そのような理念圏内から抜け出そうとしても抜け出すことのできない世界において、主体的な立場にいらっしゃるお方が神様です。さらには、造った万物に対して自分の情熱をすべて傾けて、愛と情的な関係をもって治めるお方が神様です。

32 私たちは今まで、観念的に神様を呼び求めてきました。宗教的な主体としてのみ神様を呼び求めてきたのです。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、いくらその理念の主体が広くて大きいとしても、実質的にそれは生活感情で分析され、体験されなければなりません。もし生活で体験されるその理念の価値を、存在しているどのようなものとも取り替えることができない、と誇り得る立場に立った人がいるとすれば、その人は、神様が探し求めている人に間違いありません。

33 幸福の土台であり、種の中でも生命の種であるお方が神様です。ですから、生命は偉大です。神様は、生命の種であると同時に、身にまとう理想です。神様の幸福の土台を通して、理想にまで連結させるものは何でしょうか。それが真の愛です。神様は生命の起源であり、愛の起源です。また男性の起源にもなり、女性の起源にもなります。母の起源にもなり、父の起源にもなります。兄、姉、兄弟たちの起源にもなるのです。

34 神様は、自分の生命の根本を尊重するお方です。み言を尊重するお方です。そして、行動を尊重し、愛を尊重するお方です。神様は、自分の存在の価値を認め、み言を語ればみ言どおりになり、み言どおりになったものを愛するお方です。語れば行動として結実し、そののちには、それを放っておくのではなく、愛するのです。ですから、語るのは行動するためのものであり、行動して実体が出てくれば、それは愛で発展させるためのものです。

第三節 神様のみ言

1 神様のみ言は、盲目的なみ言ではありません。無限に価値のある存在を造るために原理原則を通して語られるみ言が神様のみ言なので、そのみ言には異議があり得ません。絶対的に一つにならなければなりません。神様も信仰があり、原理原則の内容があり、実体がありました。その実体を通すときに、初めて神様のみ前に無限の対象の価値をもった子女が登場するので、そこで爆発する愛を通して、人間と神様の関係が結ばれるのです。これは、神様が人間を造るときも、人間が神様を見つめるときも、同じ立場です。

神様のみ言とは

2 創造の前に、先に神様がいらっしゃいました。神様がいらっしゃってみ言を構想されました。そのみ言とは、実体を造り出せる内容のみ言です。実体を造って、ただそのまま神様と関係のないところに置こうとしたのではなく、神様はその実体と永遠に一つになろうとしたのです。分けようとしても分けることのできない、神様も分けることができず、人間も分けることのできない不可分の一体理想を成就しようとしたのです。ですから、出発当時から神様と人間が別々に出発したのではなく、一緒に出発しました。神様がいらっしゃるのと同時に、「私」も出発したというのです。

3 神様は、人間を漠然と造られたのではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様御自身の信念が介在しています。その信念は、具体的な内容をもっていました。その具体的な内容が原理であり、原理原則です。神様御自身も信じる立場で、原理的な内容を通してその信念と原理が一致し、そこに再び実体が一致する瞬間が創造の瞬間です。ここで、その信仰とともに、その原理に通じる実体を造るためのものがみ言です。

4 み言とは、神様と人間の間の契約です。「このようにすれば、このようにしてあげる」という契約です。聖書で教えてくれるのは、すべて契約です。「このようにすれば、このようにしてあげよう」という契約なのです。天は、契約どおりに履行すれば栄えさせ、契約どおりに履行しなければ滅びるようにするのです。

5 み言は、審判の基準になるのです。法は審判の基準、善悪を区別する判断基準です。ですから、真の真理は善悪の起源を決定でき、その善悪の内容を決定する一つの基準にならなければなりません。その基準が「統一原理」でなければなりません。皆さんは、これを絶対視できますか。そのみ言に反抗したり、相反したりするときは、そのみ言の制裁を受けます。そのみ言の助けを受けるのが原則であり、み言に歓迎される立場に立ったとき、初めて人格基準に到達できるのです。しかし、それが自分を中心としたものであってはいけません。自らが生活するときに、あらゆることをみ言のとおりにしたといって、その結果が自らに結ばれることを願ってはいけません。それは天に結ばれるようになります。「私」を中心とするものではなく、全体を中心としなければならないというのです。観点が違っていなければなりません。

Luke Higuchi