天聖経: 第300話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十篇 平和思想
第一章 平和とは何か
第二節 神様と人類の希望である平和世界 16-17
第二章 平和はどのように成されるのか
第一節 平和世界実現の段階 1-7
16 世界を一つにすることは、偉大な力や、偉大な知識ではできません。愛でしなければなりません。自分を犠牲にさせてでも、すべての責任を完遂しようというところで世界平和が成し遂げられるのです。力で統一させたものは力がない時には分かれますが、犠牲で統一させたものは、力がなくても分かれません。神様は、知恵の王なので、長期的に残る統一的な原則を立てておきました。犠牲になりなさい、ために生きなさいという原則、愛の原則を立てておいたのです。そのように生きるようになれば、愛は自然に芽生えるのであり、喜びが自動的に広がります。ですから、「私」を犠牲にしなさいということ、人のために生きなさいということは、宇宙と通じることができ、天の永遠の愛と最も近い距離に立つことができるようにするための一つの主張なのです。
17 存在世界を法則的に推し量って公式化し、これで知識の一部をつくり上げたものが科学です。科学がすべてではありません。私たちは、自らの皮膚を触れば体温を感じ、もちろん感触もありますが、そのほかに感じられる何かがあるというのです。宇宙の理念は、私たちの生活を収拾していきながら、私たちが反対方向に行こうとする時には、「宇宙の目的と一致する方向に行きなさい」と言います。
ですから、大きな物でも小さな物でも、どのような物だとしても、それらはすべて天地を創造された神様の大理念圏内に存在します。神様は、愛を中心として、それらを造られました。そのように造られた大宇宙は、神様が見つめる時、最高に喜楽を感じられる平和の世界にならなければなりません。その目的が成就されて、神様は「私は幸福だ」と言うことができなければならないのです。
第二章 平和はどのように成されるのか
第一節 平和世界実現の段階
1 個人の平和、家庭の平和、氏族の平和、民族の平和、国家の平和、世界の平和、宇宙の平和を成し遂げて、解放したあとに自由天地は形成されます。そのような自由世界の基盤の上で幸福はあり得るのです。今まで誰も、そのような平和の世界を探し出せませんでした。だとすれば、誰からそのような平和の基盤を見いだせるのでしょうか。今、神様とサタンが闘っています。理想の神様と悪のサタンが闘っているのです。そのように闘っている神様とサタンが、どうして平和の基盤をつくれるでしょうか。その闘いを、誰が止められるでしょうか。皆さんの心と体も闘っています。それが問題です。神様とサタンが闘っているだけでなく、「私」にも闘いが続いていることが問題なのです。
個人、家庭、社会、国家、世界、天宙の平和
2 「私」が行く道、すなわち私たちが行く道は、歴史に代わる道であり、私たちが見つめて進んでいく方向は、歴史の流れと一致した方向であり、同時にそれを収拾していく道です。
私たちは、この目的に向かって、私たちの全生涯路程をかけて歩んでいます。私から出発して、その目的点まで行く道は、個人はもちろん、家庭、氏族、民族、国家、世界、さらには神様と全体が動員されて行くべき道です。このような方向に向かっていく途上には、平坦な所はほとんどありません。それは、人間が堕落したからです。個人がこの方向に合わせて目的点まで進む所には、闘争があります。個人的な闘争、家庭的な闘争、国家的な闘争、世界的な闘争、天宙的な闘争が横たわっているというのです。
3 「私」が平和の世界を訪ねていかなければならないといっても、平和の世界はできていません。外部にはないのです。いくらアメリカに行ってみても、ロシアに行ってみても、世界のどこに行ってみてもありません。平和の世界は、私から始めなければなりません。世界と取り替えることのできない平和の心にならなければなりません。
人間の欲望は、天地のあらゆるものを自分のものにしたいのです。あらゆる中心的価値の位置に立ちたいのです。そのようにしようとすれば、原則的基準で統一的公式路程を経ていってこそ、その公式路程に計算されたすべての道が合致して、最後まで統一の目的地に到達できるのであって、公式と違っていては、いくら欲望をもっていても駄目だというのです。今日、宇宙全体が公式法度の上で動いています。今日、科学技術も公式の発展基台の上で成り立つのです。
4 個人から家庭、氏族、民族、国家、世界に行くときに、引っ掛かるものがあってはいけません。個人から家庭が勝利点を受け継ぎ、家庭から民族が勝利点を受け継がなければなりません。そのようなパターンで家庭の勝利点を氏族が受け継ぎ、氏族の勝利点を民族が、民族の勝利点を国家が、国家の勝利点を世界が受け継いで、越えていかなければなりません。そのようなバターンが出発と同時に、変わりなく個人から世界まで受け継ぐことができる、一貫した関係を整えた基盤が地上に展開しなければ、神様が願われる摂理的最後の勝利点は、この地上に顕現することができません。そのようなものがなければ、この地上に平和の世界は、やって来ることができないのです。
5 今日、この世界は平和を願っています。万民は、一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界というものは、私たち一人一人を通さなければ成し遂げることができないのです。私たち一人一人がそのような理想の基盤を確保し、その環境を広める過程を経なければ、その世界にまで到達できません。一つの社会について見てみれば、社会でも互いに競争しています。互いに紛争しているのです。家庭を見ても、相反した立場にあります。私たち個人においても心と体が闘争しているのを見る時、平和の道、統一の道は、他の所から求めるものではありません。私たち個人から模索する道以外にはないのです。
6 世界のすべての人たちが「正しい」と言える基準、公認されたその基準は、「誰も変更することができない」と言える基準でなければなりません。その基準を中心として世界の平和が芽生えるのです。ここから善の個人と善の家庭、善の氏族、善の民族、善の国家、善の世界が出発できるのです。しかし、国家がいくら善だとしても、世界的な基準と方向を合わせられなくなるときは、その国家は崩れていきます。ですから、私たちに問題になることは、主義と思想です。宇宙観と世界観、そして人生観と生活観、新しい世界の人格観などが問題になるのです。
7 私が頼っている世界、私が頼っている国、私が頼っている社会、私が頼っている家庭、私が頼っている父母、私が頼っている妻子、このように考えてみたときに、私自体には頼れる何ものもない、ということを発見するようになります。自分自身も頼ることができないほど心と体が分立しています。
ここで問題になるのは何でしょうか。私が生きている世界が問題になるのではありません。世界は遠い所にあります。国も問題にならず、社会も問題にならず、家庭も問題になりません。夫あるいは妻も問題になりません。結局は、私自身がいかなる統一的な基盤を築くのか、ということが何よりも重要な問題です。このように見るとき、平和と統一の世界を願うとすれば、自分から統一して、自分から一つになる位置を探さなければなりません。そのようにしないで、統一的な世界と関係を結ぼうというのは理論的な矛盾なのです。