天聖経: 第295話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第六節 カイン・アベルの摂理 16-22
アベルの責任
16 神様が願う観点に立脚して生きた人がどれほどいるでしょうか。ときには、個人的に感情を害し、食口に対して鬱憤を晴らしながら、言いたいことをすべて言う人を見かけます。兄弟関係において先に出てきた人が、カインの立場にいることを知らなければなりません。アベルになるためには、カインを救っておかなければならないのです。カインを救っておかなければ、アベルになれません。復帰された長子の立場になれないのです。アベルは、復帰された長子の立場です。結局は、長子の位置にいるのです。
そのようにするためには、世の中にいるカイン、すなわちサタン側にいるその兄を復帰しなければならないのです。復帰するのですが、無理やりたたいて復帰するのではなく、自然屈伏させなければなりません。新しい世界観を見せてあげ、新しい国家観、新しい生活観、新しい未来観、新しい人格観、新しい血統、新しい心情を見せてあげなければなりません。何か違う姿を見せてあげなければならないというのです。
17 アベルは、カインのために死ぬことができ、生命をすべて捧げられる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、カインがアベルの前に絶対屈服しないのです。カインのために代わりに死ねる立場に立ってこそ、帰っていくことができるのです。ですから、イエス様の教えの中に、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)というみ言があるのです。このみ言は、アベルにも適用され、カインにも適用されます。アベルがカインを救おうとすれば、自分の命を惜しんではなりません。そのようにしなければ、カインを救うことができないのです。また、カインがアベルに従っていこうとすれば、死を覚悟しなければなりません。そのようにしなければ、従っていくことができないのです。
18 長子も神様のものであり、次子も神様のものです。神様が「私のものだ」と言えず、「私」が神様を「父」と言えない、この怨恨のどん底を撃破しなければなりません。どこに行ってするのでしょうか。天使世界に行ってすべて勝った上で、しなければなりません。
アベルの位置にいるとしても、堕落したアダムの息子、娘であって、神様の息子、娘ではありません。復帰された天使長の位置に立つことができても、神様の直系の息子、娘の位置には立てないのです。根をひっくり返して打ち込まなければなりません。
ですから、皆さんは、故郷に帰って先祖を取り戻す運命が残っているのです。その先祖を世界に出て取り戻すことはできないのです。その次に、長子権を取り戻さなければなりません。そのようにできる主体が今まではいませんでした。しかし、今は、真の父母を中心とした真の息子、娘がいるというのです。彼らを中心として、水平線に和合しなければなりません。
19 蕩減の道は、誰が行くのでしょうか。カインが行くのではありません。アベルが行かなければなりません。涙を流すにしても、先に流さなければならず、おなかがすくにしても、先にすかなければならず、悪口を浴びるにしても、先に浴びなければならず、むち打たれるにしても、先に打たれなければなりません。そのように蕩減の道を行くのです。
一人の人が入ってきたとすれば、その人を導いていけるように責任をもたなければなりません。夜を徹してその人の過去を聞いてあげ、父のような立場で相談に乗ってあげ、涙を流してあげ、祈ってあげなければなりません。帰るときには、心配でその家の前まで連れていってあげ、また朝になれば心配になり、その家の前に行って待っては会う、このようなことができなければなりません。
結局は、誰よりも人を好きになる人間にならなければならないのです。カインを一番好きになる人にならなければなりません。そうしてこそ、その人が「私」の後ろにしっかりとついてくるのです。蕩減の道についてくるのです。そのようにして蕩減の道を行かなければなりません。
20 カイン・アベルを中心として、最後に行くべきところが血統復帰です。天使長の血統の根を受けたので、真のアダムの血統の根に交換しなければなりません。その根が誤ったのは何のためかというと、偽りの愛のためです。サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統、ここから根が連結されたので、これを切ってしまわなければならないというのです。
そのためには、神様の愛を中心として、神様の生命と神様の血統を投入しなければなりません。ですから、聖書にも「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあるのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすというのは何でしょうか。愛をもって、生命とすべての血を投入しなさいということです。精誠を捧げるのは、神様を愛するということです。愛を中心として天を愛するときに、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすのが、第一の戒めだというのです。サタン世界の血統を防ぐためのものです。これは根本問題です。
21 皆さんは、今まで神様とサタンの戦法を知らずにいました。打たれて復帰してくる道が、アベルの行く道です。サタンは先に打つので、勝ったように見えますが、あとになると自分のもっている善のものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側が相手を打って占領したとしても、占領したそれが栄えるのではなく、悪の側にある善のものまで奪われるのです。言い換えれば、神様は餅をついて渡しておき、それを取り戻すときには粉をまぶした餅が戻ってくるのと同じ役事をなさるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、そうかといって天が滅びるのではありません。
22 統一教会の食口は、原理を知っているので、アベルの立場に立っています。そのため、皆さんはまず、サタンに対抗して闘うことができなければならず、サタン世界から自分を分立できなければなりません。これは皆さんが、神様の愛の圏内に入ってこなければならないことを意味します。しかし、これがすべてではありません。
そのときから皆さんは、神様の悲しみの心情と、サタン世界に縛られている兄弟姉妹の悲しみの心情を解くために、自らを喜んで犠牲にしようとしなければなりません。皆さんの生命、皆さんの犠牲を代価にして、サタン世界から彼らを喜んで救い出そうとしなければならないのです。アベルが犠牲になるところから、復帰摂理は進展するのです。これが、皆さんの覚えるべき公式です。これが、神様の摂理の、一項目なのです。