天聖経: 第294話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第六節 カイン・アベルの摂理 6-15
6 「私」がアベルになるためには、カインを探さなければなりません。カインを探し出すまでは、アベルになれません。したがって、私が神様を身代わりする立場で、僕の僕の位置と僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置に上がっていかなければなりません。そうしてカイン・アベルを中心として屈服したという条件を立ててこそ、神様のみ前に立つことのできる息子の責任が終わるのであり、その位置でカインが協助する立場に立てば、父母の位置に進むようになるのです。
ですから、皆さんが伝道するのは、第一に、カインをつくるためであり、第二には、アベルの位置を決定するためです。したがって、アベル的な立場で伝道する皆さんは、神様を身代わりする立場です。また皆さんは、神様を中心としてイエス様を身代わりし、僕の立場を復帰した時代に先祖ができなかったことを身代わりして、復帰しているのです。
7 皆さんが今、いくら神様の愛を受けると言っても、皆さんの前にカインがいなければ、皆さんはアベルになれません。カインとアベルは、どのような場で決定するのでしょうか。カインとアベルは、平安で良い場所で決定されるのではありません。
カインとアベルは、蕩減復帰するために必要なのですが、蕩減復帰しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。祭物にならなければなりません。「私」の体と心が一つになり、次に神様と一つになり、次に祭物と一つになるのです。そこにサタンを立ち会わせて、カインかアベルかを判断しなければなりません。そこで決着をつけるのです。
8 神様は、アベルをどのような場で決定するのでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場とは、どのような所でしょうか。神様と一体になった場ですが、そこは喜びの場ではなく、最も悲しい場、最も困難な場です。言い換えれば、死のうとする場、最も悲惨な場において、神様と一体になれるのです。
9 原理的な立場から見て、アベルとは何でしょうか。中心です。この中心の中には、神様が入っていらっしゃらなければなりません。それでは、皆さんは、アベルになりましたか。アベルになるためには、まず従順に従わなければなりません。神様に従順に仕えて、一体にならなければなりません。神様と一体になろうとすれば、神様が「やりなさい」というとおりにすべてしなければならないでしょうか、してはならないでしょうか。神様が「やりなさい」ということをすべてできなければ、アベルになれません。九十九をすべてやったとしても、一つができなければアベルになれないのです。
10 神様とサタンの闘いが、人間と宇宙を中心として展開しています。ある時には神様のほうに転換され、ある時にはサタンのほうに転換される歴史が続いています。統一教会は、善悪の闘い、カイン・アベルの闘いをしています。復帰摂理はすなわち、カイン・アベルの闘いです。ここにすべて連結されるのです。
それでは、何のために先生が歴史性を代表し、カイン・アベルの問題を強調してきたのでしょうか。カイン・アベルの問題は、根本問題です。これは、家庭を中心とした問題です。アダム・エバの問題と兄弟の問題のゆえに、家庭が破壊されました。そのため、アダム・エバの問題、兄弟の問題を中心として、復帰しようとするのです。原点に返そうとするのです。そのように転覆される基準が、歴史の鍵となります。それが鍵になっています。それで、アダム・エバの問題と、カイン・アベルの問題が重要なのです。
誰がアベルか
11 カイン側とアベル側をどのように区別するかという問題を、皆さんは知らなければなりません。統一教会の教会員の中でも、二人がいればその中にカインとアベルがいるのです。どのような人がアベル側で、どのような人がカイン側かというと、侵害を受ける人がアベル側で、危害を加える人がカイン側です。じっとしている人のところに行って、いたずらに「こいつ!」という言葉を一言でも言えば、カイン側になるのです。
例えば、父母の前に二人の息子がいるとしましょう。その父母の相談相手になり、すべての面において、父母に代われる息子は長男だけだとしても、下の息子が何の失敗もせず、間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は直ちに下の息子の側に立つのです。これが今日、社会で適用される善悪の判断基準であることを知らずにいます。危害を加えた者が、必ずカイン側になるのです。
12 統一教会の教会員で、教会のために熱心に働き、精誠を尽くす人を見て、「あの人は他の人と違い目立って、あれは何だ」と悪口を言う人は、既にカイン側になっているのです。カインとアベルはそのように分かれるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベル側になるのであり、批判する人、危害を加える人はカインになるのです。
何か一言語るときにおいてもそうです。話をするとしても、他の人に利益となる話をする人はアベルになり、他の人に害を及ぼす話をする人はカイン側になるのです。「私」が人の利益のために何かをするというのは、危害ではなく利益を与えることですが、自分の利益のために何かをするというのは、人に害を与えることです。ですから、人の利益になるようにするための立場が公的な立場であり、自分の利益のための立場は私的な立場です。このように、公と私を中心としてアベルとカイン、善と悪が分かれるのです。
13 より公的な存在がアベル側です。統一教会の教会員の中に、先に入ってきたのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカイン側なのです。間違いなくカイン側です。カインは、自分が先に生まれたのですが、アベルより公的な立場に立てなかったので、アベルに従わなければならなかったのです。
アベル的な存在は、より公的な立場に立った人です。公的な道を歩もうとすれば、兄弟の関係をもたなければなりません。公的な道を歩むにおいては、横的な関係が重要だということです。天国に行くにおいても、神様と一つになることが問題になるのではありません。天国に行く秘訣は、公的な道を歩むことなのです。
14 責任者は、無条件に自分がアベルだと考えますが、それは違います。カインを救ってあげてこそ、アベルになるのです。そして、カインと一つになってこそ、母のところに行くのです。責任者と一つになれなかったとしても、皆さん同士で一つになっていれば、その場に責任者が訪ねてくるというのです。それで、二人、三人が祈るところには、いつも神様が共にあるという言葉があるのです。
きょうからは、責任者を第一とする今までの考えを捨てて、食口を第一とする思想をもたなければなりません。家庭に主人がいれば、その主人は自分よりも家族を第一とする思想を立てなければなりません。そのようにしなければ、家庭天国が生まれないのです。
15 アベルとして生まれるためには、カインがいなければなりません。皆さんは、これをまず知らなければなりません。アベルはアダムの立場です。アダムの立場であるアベルは、第一に、神様の愛をもたなければなりません。神様の愛と関係を結べなかったのが堕落です。第二に、天使長と一つにならなければなりません。アベルにおいて、天使長格の人物はカインです。アダムの前に先に天使長がいました。そのため、アベルの前に、先にカインがいるようになっているのです。
神様は、人間の堕落によってアダムを失ってしまったので、アダムの代わりにアベルを立てられたのです。本来は、神様のみ前にアダムが一つになり、アダムの前に天使長が一つにならなければなりません。そのようになっていたならば、堕落はあり得ないのです。ですから、復帰とは、神様とアダムが一つになれず、アダムと天使長が一つになれなかったことを、一つになれるようにはんだ付けすることです。そのためには、神様を中心としてアベルが一つにならなければなりません。まず神様の愛を受けてこそ、アベルになるのです。