天聖経: 第293話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ

第三章 教会長の道 

第五節 教会長と伝道17-22

第六節 カイン・アベルの摂理 1-5

17 皆さんは、伝道対象者のために、夜を徹して痛哭し、祈ってみましたか。自分の父母が死んだとき以上に悲しみながら、あるいは愛する恋人が死んだとき以上に悲しみながら、痛哭してみたのかというのです。そのようにしたことがなければ、してみなければなりません。夜を徹しながら、痛哭しなければなりません。一つの命を生かすことさえできれば、何も惜しいものがないというのです。お金や服、家が問題ではありません。人を愛することに夢中にならなければなりません。

 

18 伝道しようとすれば、人の心理を研究しなければなりません。表情や歩き方だけを見ても、あの人が喜ぶか、嫌がるか、分からなければならないのです。その人の感情を公式的に鑑定できなければなりません。自分の妻の足音を聞いただけでも、彼女にいいことがあるのか、悪いことがあるのか、分かるのです。妻が部屋に入ってくれば、「あなたはなぜ機嫌が良くないのか」と言うのです。そうすれば妻は、見たわけでもないのに、既に夫がすべて知っているので、何も言えないのです。そのような物差しをもって暮らさなければなりません。関心をもって祈れば、その人が「私」に関心をもつようになるのです。

 

19 私たちが伝道するときも、きのう伝道するときの心と、きょう伝道するときの心が、出発するときから違わなげればなりません。言い換えれば、「過去にはこれこれこのような心で出発したが、きょうは新たな心をもってやらなければ」という覚悟で、出発の動機からそのように異なる覚悟で出ていけば、間違いなく良い結果をもたらすというのです。

しかし、そのようにできず、昔よりもっと低い立場で、きのうよりも良くない心で出発すれば、必ず後退の一路を歩むようになるのです。そのような環境の中で続けて歩めば歩むほど、破局を自ら招くことになります。また、それが一方的ではなく、四方にそのような後退の感情を起こしていけば、いくら目的が大きく、いくら自ら固くく決意するとしても、それは停止状態として、動こうにも動けない、完全に固着した立場を体験するようになるのです。

 

20 人間であれば誰もが、み言を中心として復帰の道を行かなければなりません。「私」が国家的基準を蕩減できる位置に入っていこうとすれば、国家的基準の前に氏族的蕩減をしなければならないのですが、それを代行できる人を立てておけば、氏族の反対をその人が防いでくれるのです。家庭においてもそのような人を立てておけば、家庭の反対を防ぐことができます。氏族の代表を立てておけば、すべて防げるのです。それで伝道をするのです。私が高く上がっていっても、後継昔を立てて、その人が私の行く置に同参(一諸に参加する)し、反対を防いでくれる土台を広げようとすれば、伝道が必要です。

 

21 私たちは、武器をもって伝道するのではなく、愛をもって伝道するのです。アベルが愛によってカインを救う勝利の基台を通して、偽りの愛によって占領されたものを真の愛によって復帰しなければなりません。そうしてこそ、衝突することのない本然の世界に帰っていけるのです。他の手段や方法を通してすれば、再びサタンがあらゆる手段や方法をもって出てくるのです。イエス様は、死の道の上でも、生命が途切れる最後の瞬間までも、愛の道理を立ててきました。完全なカインの救いの道理を立てられなかったので、カインの救いの道理の門を開くことのできる道を、死を通して見せてくれたのです。

 

22 伝道するのは、統一教会自体のためではありません。統一教会を生かすためではなく、国を生かすために伝道するのです。世界を生かすために伝道するのです。キリスト教とは目的が違います。彼らは、自分の教派の発展のために伝道しますが、統一教会は、私たち自体のための伝道ではありません。統一教会が完成した位置に立ったとしても、統一教会が究極的に訪ねていくべきところは国です。教会を捨ててでも、国の完成の道を行けば、一段階高い位置で完成の道を迎えるようになるのです。その道がより価値のある道なので、教会を犠牲にしてでも国を探し出さなければなりません。

第六節 カイン・アベルの摂理

 

1 皆さんは、教会を中心として誰がアベルであり、誰がカインであるかを分別できなければなりません。二人いれば、必ず一人はアベルであり、一人はカインだということ、三人いれば、二人がアベルになることもあり、カインになることもあるのですが、最も中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんははっきりと分別できなければなりません。

そして、そのカインとアベルが一つにならず、分かれてはいけません。一方は右手で、一方は左手だというのです。そのため、誰であっても、「私」の神様であると同時にあなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を勝利するために最大の努力をしなければなりません。

 

2 カイン・アベルの論理は、偉大な論理です。神様の真の愛は、自分の子女を犠牲にしても、国の若者のために祭物にすることを願うのです。そのような神様の心があるので、そのような世界においてのみ統一が起こります。ために生きる愛においてのみ統一が起こるのです。ために生きない愛には、サタンが行き来し、破壊が起こります。

神様の願いがそうであり、万物の願いがそうであり、人間の願いがそうだとすれば、三代理想圏の願いをもって生きようという人がいるとき、滅びることがあるでしょうか。訪ねてくる天運は、その人を保護し、天運だけでなく神様が保護し、万物がその人についていくので、死の場に行っても、死なないというのです。死にそうであり、なくなってしまいそうなのに、そこから新しい道に跳躍していける発展の道を歩むというのです。真の愛の道を行くにおいては、妨害し、塞ぐ何ものもありません。サタンもここに屈服するのです。

 

摂理から見たカイン・アベル

3 カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受け取られた神様の立場と、カインの祭物を受け取られなかった神様の立場が互いに異なるもののようですが、そうではなかったことを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという思いが少しでもあったならば、神様はカインの祭物を取られたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたというのです。

今、皆さんが神様のみ前に宇宙的な嘆息の峠を越えて、神様が楽しみ、喜ぶ一つの祭物として現れることを願うとすれば、皆さんはどのようにすべきでしょうか。全宇宙の万物を復帰するためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な祭物として、羊を捕まえて捧げるのではなく、皆さんの一つの生命の実体を捧げられなければなりません。

 

4 アベルは、復帰路程において何よりも重要な使命を果たさなければなりません。アベルという存在がみ旨の前に設定されたのは、堕落のゆえです。もし堕落がなかったならば、アベルという存在がみ旨の前に設定される必要性がありません。

アベルが一人でいては、アベルを設定できません。カインがいなければ、アベルになれないのです。また、アベルが真のアベルとして選定される位置に立つまでには、準備期間が必要です。言い換えれば、天の側に立つか、立てないかという期間が必要なのです。「統一原理」では、それを「信仰基台を立てる期間」と言いますが、その期間は祭物を捧げる期間です。祭物を捧げるのは、分かれた神様と人間を、再び心情的に紐帯を結ばせ、外的にも紐帯を結ばせるためなのです。

 

5 アベルは、どのようにすべきなのでしょうか。神様と一体にならなければならず、天使長を愛さなければなりません。そうしてサタンである天使長から、「あなたは神様の息子なので、間違いなく相続者です」と認定を受けなければなりません。このとき、天使長の立場の人はカインであり、アダムの立場の人はアベルです。

人間が堕落することによって、偽りの父母が現れました。それで、カインとアベルに分立して、復帰歴史を進めるのです。すなわち、アダムの代わりにアベル、天使長の代わりにカインを立て、復帰歴史を進めるのです。アベルになろうとすれば、まず神様と心情が一致しなければなりません。心情一致して神様のみ旨にかなえば、神様が愛さざるを得ないのです。

Luke Higuchi