天聖経: 第291話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ

第三章 教会長の道 

第四節 教会長と説教 30-35

第五節 教会長と伝道 1-5

30 聴衆の前に出る時は、まずどのような態度を取らなければならないかということを考えて、壇上に立たなければなりません。その次に、五分、十分以内に、聴衆に自分の印象を残せる準備をしなければなりません。この五分、十分以内に聴衆が自分に傾かなければ、難しいのです。ですから、最初にどのようにするかというのが問題ですが、全体が関心のある話から始め、もしそれができないときは、全く関係なく、聞いたことがない、知らない話で始めるのです。そうして、その話に対して「どういうことか」と引っ張られてくるように作戦を展開し、自分の作戦圏内に入れなければなりません。

 

31 その人が妥協する心のある人なのか、それとも融通の利かない人なのか、それを把握しなければなりません。その人が心理的にどのようなタイプの人なのかをつかんで、その人に合う話を研究しておかなければならないのです。「ああ、あの人は私の友達の中で、あのタイブの人のようだ。あの人は私が知っている百人の中で、あのタイプの人だな」ということを比較、研究しなければなりません。

そうして、三つ、四つのタイプの人を選んで、試してみるのです。柔和な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、優柔不断な人なのかを見ながら、劇的な場面を用いて、涙を流すべきところでは涙を流す立場に立たなければならず、許してあげる立場では許してあげる表情と感情をもって、その人を動かすのです。ですから、見えない闘いをするのです。その次には、その人に詩的な感性があれば、詩を詠んでいくのです。話の途中で考え出し、自分が詩情に浸って一分くらい詠んでみるのです。文学的な感性があれば、優しくささやく感情で話してみるのです。

 

32 皆さんをどこに連れていって立てても、原理の前編を講義しようと、後編を講義しようと、すべて通じ、詰まることがないようにしなければなりません。それ自体が一つの公式になっていなければなりません。そうして、これをすべての現象世界に公式として活用できる人になれば、どれほど膨大な知識圏を備えられるでしょうか。皆さんは、原理がおもしろくて夜を徹して本を読み、そこに酔って内在的な面でも発展をもたらさなければならず、生活面でも発展をもたらさなければなりません。自信がなければ発展がないのです。

 

33 名講師になろうとすれば、どのようにすべきでしょうか。全国の有名な講師が講義したものを録音し、それを聞いて評価し、良いものだけを抜き取って、自分のノートを作っておかなければなりません。録音したテープがいつも積まれていなければなりません。本当に機知に富んだ内容、数十人、もしくは数百人が才知にあふれて講義した内容を抜き取り、自分が講義するときに活用するのです。そうすれば名講師になれます。毎日のように、八時間以上講義しなければなりません。新しい人を一人でも連れてきて、講義しなければならないのです。

 

34 皆さんが聴衆を感動させるためには、自分がまず原理の本をつかみ、涙を流さなければなりません。その原理の本をつかんで夜を徹して読みながら、時間がたつのを惜しみ、ぺージごとに神秘を体恤する人にならなければなりません。それを感じたあと、聴衆に感動の役事がどのように起きるか、原理に酔って説教してみなさいというのです。そうすれば間違いなく、新しい感動の役事が起こります。死んだもの、すなわち生命力を失ったものは退化し、生きたものは必ず発展します。発展すれば、新しいものが生じるというのです。原則がそうなのです。

 

35 講義をするときは、講義の時間に「私」が何を残すのか、また話をするときは、その話を通して何を残すのか、手が動くときは、私の手が動いて何を残すのか、私が行動するときは何を残すのか、このようなことを確かめなければなりません。ですから、大変な道を歩みながらも、何を残すのかを思い巡らせなければなりません。困難で疲れる道をひたすら歩きながらも、何を残すのかを考えなければならないのです。興味が絶えず湧き出てこなければなりません。疲れていてはいけないというのです。難しければ難しいほど、そのような思いに追い立てられていくのです。

第五節 教会長と伝道

 

1 統一教会の現在の立場を見れば、今まで責任者たちがしてきた活動方法をもってしては、これから革新的な発展を期待できません。昔の考え方と昔の生活態度、もしくは昔の伝道方法や信仰姿勢をただそのままもっていてはいけないのです。今までそのようにして歩んできましたが、今日、期待するほどの結果をもたらせなかったからです。良い結果をもたらしたのであれば分かりませんが、そのようにできなかったことを見るとき、過去のような信仰姿勢と生活態度、伝道方法から抜け出し、新たに変化した姿にならなければなりません。そのため、私たちが新しい信仰姿勢、新しい生活態度、新しい行動を提示しなければ、新しい発展をもたらすことは難しいのです。

 

心情基準をまず立てなければならない

2 発展は、私たちに最も必要なものです。しかし、その発展を追求する前に、自分自体内の純粋さをどのように造成するかということがもっと問題です。ですから、皆さんには、祈る時間が必要であり、精誠を捧げる時間が必要です。精誠は何となく捧げてはいけません。過去を清算して捧げなければならないのです。過去の意識が残っていれば、その意識が「私」をどこに引っ張っていくかということを考えなければなりません。過去の意識に私が陶酔し、どれほど強力な立場に立っているかという問題を中心として、過去は純粋だったのかと批判してみなければならないというのです。

純粋な立場で、それが善であったかどうかを批判しなければならず、現在はそのような立場に立っているのかを批判しなければなりません。また、私が望む願いが純粋なのかを批判しなければなりません。

純粋な善の立場とは何でしょうか。自分のために生きるところでは、純粋な善は存続できません。善は自分を強化させるところでは存続しないのです。善は、神様に侍るための基台だからです。善の中で神様に侍るということは、善の主人である神様に侍るということです。善の主人は、堕落した人間ではなく神様です。

 

3 地方に出ていって伝道するとき、まずその村の人々と内的な面で一体にならなければなりません。内的な一体とは、心情統一を意味します。その次に生活統一、理念統一の基準を連結させていかなければなりません。現実的な舞台において、神様を中心として心と体が一つにならなければなりません。すなわち、神様と一体となった心に、体が屈服しなければならないということです。そうしてこそ、蘇生、長成、完成の三点を連結させることができます。個人的にそのように歩むだけでなく、この民族をそのように導いていかなければなりません。

 

4 牧会者の中に、自分が天的完成基準に立ったと考え、自分に侍って敬意を表することを要求する人がいます。それは大きな誤りです。侍られるより、侍ってあげ、与えるのが父母の立場です。兄弟の立場で見れば、アベルです。父母の立場で見れば、父子関係です。自分はアベルなので、カインが侍らなければならないと考えるのは、大きな誤りです。何のためのアベルかというと、父母の立場を復帰するためのアベルです。ですから、父母の心情を先にもたなければ、アベルになれません。それが原則です。兄弟同士でアベルだと考え、父母としての立場を忘れてしまう人が多いのです。その欠陥を早く一掃しなければなりません。

 

5 私たちは発展できる内容を十分にもっています。時代的な条件と環境も、完全に具備されています。ところが、発展できないのはなぜでしょうか。この時代と立場、現在の置かれた環境、村であれば村に、プラスになっていないからです。利益を与えていないからです。もし物質的な面で利益を与えられなかったとしても、精神的な面ででも、誰もが利益を受けているという事実を切実に感じるようになれば、「教会に来るな」と言っても来るようになっているのです。

Luke Higuchi