天聖経: 第290話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第四節 教会長と説教 21-29
21 世の中の万事が、すべて説教の資料にならなければなりません。自分が苦労したものがあれば、「私はあるとき、このようにした」ということを説教で語るのです。そのため、教会長は苦労をたくさんしなければなりません。人生修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、もしくは高級官吏、もしくは権勢圏内にある位置まで、一時経験するのも必要だというのです。そのような状況を中心として、そのようなときに公的立場において、ある一時悲しかった事実、そのようなものに対して自分が体験した話は、実感が湧くのです。
22 皆さんが説教をし、講義をするとき、原理の本をただ見るのではなく、原理の本に対してある程度まで基準ができていれば、原理の本の内容を中心として、皆さん自身がそのみ言の中に入り込んでいかなければなりません。このみ言がどれほど恐るべきみ言だろうか、これはどれほどの犠牲の過程を通して発見されたのだろうか、ということを体験しなければなりません。それを感じれば、必ず痛哭するようになっているのです。
神様の復帰の心情圏内に入っていけば、そこには言葉にできない事情が根となっているので、我知らず霧の中に吸い込まれ、一人で身もだえするようなことが起こるのです。そこで神様を身代わりした主体性を確定しなければなりません。そこから自分が主体となって役事が起こるのです。霊的な協助基盤がなければなりません。そのような境地に入れなければ、祈りをしなければなりません。精誠を尽くさなければならないのです。
23 原理講義をするとき、原理を完全に知らなければ、相対的な影響を及ぼすことのできる心的基盤を備えられません。そのためには、祈らなければなりません。「父よ、きょうはこのような題名でもって講義いたします」と祈ってからしなければなりません。祈りの中で講義をしながら、神様がこのような心情をもったということを感じなければなりません。神様と対話しながら講義するのです。「あなたがこのみ言を中心として、あなたが必要とする対象として、きょう復活させる人は誰でしょうか。あなたが願い、待ち望まれる人がいれば、私のもてる力を尽くして、その人を逃しません」と言わなければなりません。「私のやり方で、いつものように講義すればいいだろう」というのは、伝達はされますが、人の生命を復活させることはできません。絶対に生命を蘇生させることはできないのです。
24 皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は刑場に出ていく心情と全く同じです。それは、公判廷で判事の峻厳な判決を仰ぐ瞬間に立った男性と同じ心情でしょう。すなわち、祭物だということです。この時間、「私」が数多くの生命に責任をもっているというのです。一言うまくやれば命を与えることもでき、一言誤れば命を奪うこともできるのです。医者が注射を誤って打てば、その命を犠牲にするのと同じです。一番恐ろしい場です。その場には天が共にあるのです。
25 講義をするときは、必ず原理のみ言自体を語るとは考えずに、先生の歴史を語り、神様の歴史を語ると考えなければなりません。結局は、「私」がその歴史を相続し、その歴史と一致するために語るという意味なのです。十回すれば十回することによって深くなるので、深くなった分、私が心情的に近くなるために語るというのです。他の人を救うよりも、自分が近くなるために語るというのです。十回すれば十回した分だけ近くなり、十回すれば十回した分だけ深くなるのです。
そのために祈れば祈った分、それが深く、広くなります。高くなるのです。高まるので、心情基準において自分が発展し、心情一体を中心とした発展の度数を強化できる機会が生じるのです。そのような時間がみ言を伝える時間であり、食口を教育する時間です。
26 先生は、祈るとき、膝にたこができるほど祈りました。祈れば、一日に十二時間以上するのです。問題を解決するための談判祈祷をするのです。そのような経験を通して習慣化された境地に入れば、何かの問題に対するとき、それがどのようになるか、すぐに結果が分かるのです。感じられるのです。説教も、本を見てしてはいけません。霊界というそれ自体が、本然の状態が、本を中心として動くようになっていないのです。愛を中心とした世界に入っていって主管を受けるのが原則です。そして、復帰は愛を中心とした人格完成を意味します。愛を中心として感動し、愛を中心として人格を天の側に接ぎ木するのです。知識ではありません。本を見てするのでは駄目なのです。それでは、生命の復活になりません。
27 説教の題名を定めるためには、闘わなければなりません。一大戦争です。題名を一週間前に本を見て決めれば、天が役事しません。それは「私」と関係ないのです。それでは絶対にいけません。ですから、説教の題名を決めるまでは、死ぬか、生きるかの闘いをしなければなりません。きょう、私が壇上に立つとき、聴衆の中から死ぬか、生きるかという問題をもって天が分別させることのできる人を探さなければなりません。そのためには、どのような人が来るのか、既にすべて分かっていなければなりません。それが合えば、霊界が開かれるのです。
先生は、いつも説教の題名を何日も前に準備しません。大概、出る十分前以内に説教の題名を定めます。その説教内容に、私が復活しなければなりません。そのように体験できる立場に立ってこそ、堂々としているというのです。しっかりと立てば、姿勢が定まります。そして、相対基準が定まり始めます。一度にすべて定まるのではありません。最初は一人、二人です。その相対基準を中心として、その人が感動して回っていけば、広がっていくのです。
感動を与える説教
28 数十万の聴衆を感動させようとすれば、原稿を書いてはいけません。霊感が必要です。そのため、霊的指導者は、いつも涙が途絶えてはいけません。深い心情の言葉を語れば、我知らず胸の中で涙が爆発できなければならないのです。そのような心情を失ってはいけません。それを失ってしまえば、生命を復活させられません。これは深刻な問題です。
皆さん自身が一つの生命を生かすために、どれほど深刻になってみたかというのです。皆さんを医者と比べてみるのです。メスをもった医者が手術台に行くときは、メスの先一つに生命が行ったり来たりするのです。そのように深刻な医者の立場と、多くの生命に責任をもった責任者としての自分を比較してみれば、「私」が一人の生命を扱う医者より、もっと深刻になる時が来るというのです。これは普通の言葉ではありません。そうでなければ詐欺師になるというのです。
29 聴衆に感動を与えようと考えず、自分が説教の中でまず感動しなければなりません。語るそれ自体の内容を中心として、「私」自身が恩恵を受けなければなりません。私に説教するのです。私が感動し、霊的基準が高い人が感動できれば、聴衆は恩恵のるつぼに入っていくのです。
自己啓発です。説教は相対を啓発してあげるためのものではありません。自分を啓発するのです。できるだけ、先生のみ言をたくさん引用しなさいというのです。皆さんが祈るよりも、先生の説教集を見なければなりません。恩恵を受けるものを一回、二回、三回読んで、骨子を中心に話をすれば、それが、皆さんが何週間勉強するよりも良いというのです。膨大な内容があります。その祈りの中には、皆さんが及ぶこともできない高い境地の内容があるのです。