天聖経: 第287話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第三節 教会長の精誠生活26-31
第四節 教会長と説教 1-3
26 牧会者は、三日に一度ずつでも、食口たちのために祈ってあげなければなりません。先生は、興南の監獄で三年近くの歳月を過ごしましたが、その中でも何人かの食口のための祈りは、御飯を食べるときから寝るときまで、毎回、してあげなかったことがありません。たとえ離れていった人だとしても、その人のために続けて祈ってあげました。
そうすると霊的に先生を訪ねてきて、離れていった事情を、涙を流しながら報告するのです。「肉身が弱く、どうしようもなくて先生から離れていかざるを得ません」と挨拶をして去っていくその悲惨な情景は、同情するまいとしてもせざるを得ないのです。そのように離れていっても、その人のために続けて祈ってあげなければならないのです。
27 先生は、地域のために祈るとき、その地域の責任者のために祈るのではありません。責任者のために忠誠を尽くし、その責任者と相対基準を造成して熱心に働く食口のために祈ります。このようにしてこそ、私たちのみ旨がだんだんと発展していくのです。地域の責任者たちが責任を果たしたからといって、その責任者を称賛するのではなく、その人が称賛を受けられるようにした食口たちを称賛しなければなりません。
これから責任者は、自分たちを協助した食口のために祈ってあげなければなりません。心情的な面で負債を負ってはならないというのです。一線で闘っている、苦労している食口がいれば、御飯を食べるときも彼らを思い、涙とともにスプーンと箸を持ち、涙とともに御飯をのみ込むことができなければなりません。「天よ、彼らを見守ってください」という祈りが自然に出てこなければなりません。このような心情が欠如すれば、発展できないのです。
28 責任者が一片丹心でしなければならないことは何でしょうか。御飯を食べることでしょうか。違います。この罪悪世界において、生命の一つ一つをどのように天の息子、娘として復活させ、天の国に移してあげるかという責任的使命感をもたなければなりません。月日がたつとともにそのような使命一感をより深くもち、進んでみてください。できないことがありません。完全な主体の前には、完全な対象が生じるのです。
ですから、主体は対象のために祈ってあげなければなりません。祈るのですが、対象が早朝に起きるのであれば、それよりも先に起きて、精誠を尽くしてあげなければなりません。人は、自分のために精誠を尽くしてくれれば、すぐに分かるようになっています。
29 責任者は、自分の位置を守っていきながら、精誠を尽くさなければなりません。皆さんが責任者ならば、朝に祈るとき、二十人以上の人を祈らなければなりません。そうして一日に、七十人以上の人を祈ってあげなければなりません。食口と共に食べ、食口と共に暮らしなさいというのです。人にとって最も深刻な時間は、御飯を食べる時と眠る時です。おなかがすいて御飯を食べる時、そして、眠くなって寝床に就こうとする時は、すべての神経がそこに集中するからです。その反面、目が覚めるときはすべての神経がゆるんだ状態になっているため、深刻ではありません。ですから、一日の生活の中で、三食の御飯を食べる時と、眠る時が一番深刻な時間です。み旨のために、そのような深刻な場で祈りなさいというのです。そのようなときに祈る一度の祈りが、普通のときに祈る何度かの祈りよりも良いのです。
30 皆さんは、常に食口と御飯を一緒に食べ、一緒に寝るという心情で、食口のことを考えなければなりません。そうすれば、誰々はどうだという感触を得るようになるのです。そのように感覚が鋭敏になれば、遠くにいる人も近くに見え、近くにいる人はさらに近くに見えるのです。見れば、すぐに分かるというのです。心霊を指導する人々がその程度の能力もなくて、どのようにして人々を指導できるでしょうか。
自分が一つの生命に対してどれほど精誠を尽くしたかということが問題です。イエス様が、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と言われたみ言の意味も、一つの生命を宇宙よりもっと貴く思い、そこに心情の錨(いかり)を下ろされたことを知らなければなりません。世界を忘れ、一つの生命のために一対一で闘いながら、人間の価値の谷間を訪れて入っていかれたイエス様の心情的境地に到達するとき、新しい食口との縁が結ばれるのです。
31 祈りがどれほど偉大か、祈りの力がどれほど大きいかを知らなければなりません。私一人がここで祈りましたが、立体世界の霊界を、無限の世界を動かして動員できるというのは偉大です。そのため、祈りは磁石のような作用をします。また祈りは、力をもっているので、皆さんが将来、責任者になり、食口のために二十四時間決意して、「それはすぐにできる」と信じて祈れば、そのようになるのを見ることができます。実際、そのような力があるのです。ですから、聖書にも、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)とあります。三人だけでも合わさって祈れば、偉大な力をもたらすことができるというのです。
第四節 教会長と説教
1 責任者は、環境を避けずに、その環境を消化しなければなりません。環境を消化できる能動的な人になれずに、どのようにして天のみ旨を成し遂げられますか。神様は、誰にも倒されることのない確固たる位置に立たせるために、作戦上、監獄に入れて試練に遭わせるのです。過去に苦労した基準があるので、現在の生活において苦労があっても、そのときの立場を思いながら耐えていけるのです。先生も興南監獄に入ったとき、そこで毎年、模範労働者賞を受けました。神様がそのような過程を経て先生を訓練させたことを思いながら、皆さんを訓練するのです。
子女が困難な立場で父母に何かが欲しいと言うとき、それを与えられない父母の心情はいかばかりでしょうか。先生は、苦労の路程を踏み締めてきたので、どのようなことでも喜んで受け入れます。価値なく苦労したことは役に立ちませんが、非常に大きなみ旨を抱いて苦労した経歴は、億千万金とも取り替えることができないほど貴重なのです。これが先生の財産です。先生は、説教のために準備したことがありません。生きた体験によって事実を話すときは、みな感動せざるを得ないのです。
説教を準備するときの心構え
2 責任者は、伝道の地で自分の骨と肉が溶けていくような感性をもたなければなりません。「父よ!私はこんなに足りません。それでも私が行かなければならないというので、もどかしく思います」と祈る心情で、壇上に出て説教をしなさいというのです。自分を中心とせず、真の父母と天地を身代わりし、神様の通牒文を手にして進み出た神様の精兵だと思いなさいというのです。
先生は、説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもちます。「父よ!この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいでしょうか。これですか、あれですか」と精誠を尽くしてから、心の命ずるままに説教するのです。
心情を離れては生命がないというのです。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるにしても、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、中に深く入れば入るほど涙であり、自分がなくなるのです。目的地に近づけば近づくほど、目的とみ旨が大きくなり、「私」は小さくなります。小さくなる私と大きくなるみ旨に相対する心情さえあれば、万事は解決するのです。
3 父母の心情をもち、僕の体で祭物の過程を経ることによって、祭司長であると自称できなければなりません。祭司長になるためには、祭物となる子女がいなければなりません。直系の子女がいなければ、信仰の子女でもいなければならないというのです。礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖罪しなければなりません。ですから、礼拝時間は自由のない時間なのです。