天聖経: 第288話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第四節 教会長と説教 4-12
4 一年十二ヶ月、ただ適当にやって壇に上がり、「皆さん、聖歌を歌いましょう」と言っては、「お父様、何がどうでこうで……」と祈る、それではいけません。そのようにしていては、天の国が成就されず、生命が復活しません。母が子女を生むのを見てください。肉身の赤ん坊を一人生むのも、五臓がちぎれるほどの苦痛に耐え、顔にはありとあらゆる表情をするではないですか。それ以上に無我夢中にならなければなりません。必ず汗を流し、涙を流して現れなければならないのです。
5 霊的指導者は、体恤する何かがなければ、仕事ができません。本を見て説教の準備をするのではありません。本を見て神様が見えますか。その本の中に神様がいますか。そうではありません。神様は神霊の中にいらっしゃるので、神霊に通じなくてはならないのです。体恤信仰は最も貴いものです。ですから、統一教会に入ってきた食口であれば大概、体恤するようになります。皆さんの現実的生活圏内にすべて起こることを、必ず体験するのです。本当にみ旨のために、もてる精誠をすべて尽くせば、天が共にいてくださるのです。
6 皆さんが神様と直接的で密接な関係にあるとすれば、説教の準備をしなかったといって心配してはいけないというのです。そのような訓練も必要です。先生が有名な人に会えば、一日に十回、話をするときもあります。そのときは、場所によって内容の異なる話をしなければならないでしょう。それをすべて準備してするのでしょうか。そのようなときの心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。
「私」という存在意識がありません。所有観念もありません。完全に捧げられる立場です。そこは厳粛な場です。祭物の前に立った人々は、頭を下げなければならないのが天法です。その祭壇には、神様が臨在されて干渉するのです。心情的にきょう、私はこの祭壇に情熱とすべての力とすべての努力を捧げるというとき、自分の一生にない誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様は助けてくださいます。祭物は、深刻な立場で捧げられるのです。
7 説教は聖日にだけするものだと考えてはいけません。聖日にさえなれば、「聖書はどこを読もうか。賛美歌、出てこい。聖歌、出てこい」、これではいけません。人々に対する情報を中心として、生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を抜き取り、その人のことと聖書の内容を照らし含わせていきながら、おもしろく説教をするのです。そうすれば、聞く人は自分のことを話しているので、すっかり夢中になるのです。喜びます。本を見てしようと考えるなというのです。人から本も出てくるのです。人自体が本の原本です。
8 先生にも、今までに印象に残っていることがあります。強盗と一緒に手錠をはめられて興南監獄に移送されていくとき、山の谷間に差し掛かり、小川の道に沿って歩いたそのときが、本当に新鮮に感じられます。くねくねした山の谷間の道を歩いたそのときが、今も忘れられません。印象的でした。それは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。「これから日ごとに行くべき私の道は、どこだろうか。刑を終えて出たら、どのようにすべきだろうか」、このことがとても気になりました。困難な監獄生活ですが、「私は行く」というのです。そのときが新しい自我を覚醒できる良い機会となりました。先生に残されたのは、そのようなものしかありません。
9 先生は、かつて咸興(ハムン)で穴を掘る仕事をしました。おなかがとてもすく中で仕事をするので、つるはしを握り締めた手が上がらず、精魂が尽きて意識まで遠のくのです。そこで「昼食の時間だ!」という声を聞けば、その声がどれほどうれしいか分かりません。そのとき、御飯を食べるためにつるはしを地面に打ち込み、振り返るその瞬間の気分、先生には、そのような生きた歴史の材料が測り知れないほど多いのです。いかなる苦労も、そのようなものに比べることはできません。
このような悲惨だった事情が先生を滅ぼすのではなく、歴史に永遠に輝くものになることを知らなければなりません。それで、神様がしまっておいた宝物をかき集められるその日まで、行かなければならないというのです。そのような受難の事実を世界万民に打ち明けて話をすれば、どうなるでしょうか。他の内容で一時間説教をするより、この内容で十分だけ話をすれば、痛哭が起こるというのです。それほど良い説教内容がどこにあるかというのです。それで皆さんに、心配することなく三十歳前までは苦労しなさいというのです。
10 説教をするときは、絶対に皆さんが題名を定めて出ていってはいけません。本来は、祈りの中で題名が与えられなければならないのです。準備した題名では、絶対に感動させられません。他の人を泣かそうとすれば、「私」が説教を準備し、祈る中で涙を流さなければなりません。このような人、あのような人、千態万象の人を思いながら、今日の韓国の実情から思いを巡らせ、「きょう訪ねてくる人はこのような人だろう」と定めるのです。それを前にして涙を流しながら壇上に立ってこそ、涙を流させる恩恵を与えることができるのです。手紙も、涙を流しながら書いた手紙であってこそ、相手を泣かせることができるのと同じように、自分が主体的な動機にならなければなりません。そのようにせずに、相手がそのようになるというのはうそです。そのため、皆さんが壇上に立つときは、その壇が審判廷だということを知らなければなりません。前よりもっとうまくやることを願ったのに、できなかったときは、悔い改めなければなりません。恩恵を与えられずに説教を一時間したならば、三時間悔い改めなければなりません。説教をうまくできず、恩恵を与えられないというときは、三倍以上悔い改めなければなりません。
11 責任者は、誰であっても、食口が自分の事情を話すときはよく聞き、内容を記録して、全体の見本となる教材として使うことができなければなりません。そこに感動すれば、日曜日の説教の題名として定め、精誠を尽くして食口にその感動を伝えなければなりません。
いつも天をお迎えして生きなければならないのです。天をお迎えせずに、自分中心に説教をしてはいけません。本を参照して説教すれば、天が役事しません。流れていってしまうのです。生命の種は天から来たのです。人間からではなく、知識からではありません。
そのため、説教をする前には必ず涙を流していかなければなりません。涙を流してこそ、父母となる立場でその子女たちのすべてのものを悔い改めさせることができるのです。涙を流すためには、まず涙の門を開かなければなりません。子女の涙の門は、父母の涙によって開くべきです。涙の門を開いてこそ、涙が出てくるのです。痛悔の涙を流してこそ、痛悔の門が開かれるのです。
12 いつでも、負債を負った人の立場にならなければなりません。そのような人が公人です。自分が責任を果たせなければ、他の人が身代わりするのです。周辺を見て、「このような面は私ができないことだから、食口がしてくれているのだなあ!」と考えなければなりません。今まで統一教会全体が打たれるべきことを、先生が代わりに打たれてきましたが、これからは、個人と家庭、氏族、民族を越え、世界的なすべての事件が、食口に一つずつやってくるでしょう。先生ももちろん打たれましたが、全世界の食口が打たれながら、峠を越えていく過程です。
このような面から見るとき、私たちは同じ運命にあります。公的な面で、霊界が直接指導する人々の言葉を聞くというのは深刻です。これをくすくす笑いながら聞いてはいけません。それは先生も同じです。良いことがあれば、話すより、笑うより先に、天を思わなければなりません。悲しみがあっても、天を先に考えなさいというのです。私に悲しみが襲っても、「私が天の代わりに受ける」というとき、その悲しみを毅然として越えていけるのです。