天聖経: 第286話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ

第三章 教会長の道 

第三節 教会長の精誠生活 16-25

16 神様は、宗教の世界に責任をもった人々が、その責任を完遂できずに逝った道の背後で、数多くの霊界を中心として、いつでも再び責任を担わせることのできる恩賜の基台を準備し、再びその道に従ってくる人々が失敗の道を免れるようにしてくださるというのです。このときは神様が、自分の立場を中心として考えるのではなく、宗教のために精誠を尽くす立場を中心として役事されるのです。神様は、このように一段階、一段階高く上がっていけるように役事されます。

 

17 教会長は父母の立場です。父母は、子女たちをすべて寝かせるまでは、先に寝ることができません。体調が悪いということでもない限り、そのようにはできないというのです。分別のつかない子女たちのあすを心配しながら涙し、生活の苦しさを感じるときには胸を締めつけながら、その息子、娘のために福を願ったあとに寝床につくのが、父母の心です。

同じように、責任者は眠ることができないようでなければなりません。そして、早朝や夜に静かな時間ができれば、自分の教会の食口のために人知れず涙を流し、精誠を尽くしてあげなければならないというのです。そのようにしてこそ、基盤が築かれるのです。このように子女を育てて、どのようにしなければなりませんか。教会よりも国のために生きる愛国者にすべきです。そのためには、父母が手本を見せてあげなければなりません。

 

18 愛によって正しく教育したのちに、「やりなさい」と言ってこそ、正しい父母です。皆さんがそのような生活をすれば、神様は皆さんから離れようとしても離れられません。また、そのような人には、何か分からない強い力があり、すべての人の視線を自動的に引くようになります。その人には、関心をもたざるを得ないというのです。

冬に、火鉢に火を起こしておけば、冷たい火鉢と熱い火鉢は説明しなくても誰でも分かるので、「行くな」と言っても、熱い火鉢を訪ねていくのです。同じように、皆さんも、そのように人が訪ねてくる人間にならなければなのません。そのような伝統的基盤を備え、犠牲的覚悟のもとで個人の新しい伝統を拡大し、家庭的基盤に連結させて、それによって氏族、民族、国家を形成しようというのです。これが天の行く道です。

 

19 もし責任者が誤り、責任者が間違うときはどのようにしますか。私がその人を中心として最後まで合わせていけば、その誤った責任者は出ていき、責任者のために精誠を尽くして侍った「私」が、その責任者の後継者になるのです。そのような人はどこに行っても発展します。いくら間違っている人と接するときでも、その人の心に合わせて調整しようとすれば、その心に合わせるよう調整された人が、必ず折れて出ていくというのです。できないことを命令され、そのできないことを「間違いなくやります」と言えば、自分がやらないのに命令した人が長く続かないのです。木の芽で言えば、やらない人は停止し、これをする人は育つのです。

 

20 負債を負った人は、どの社会でも除去され、すべてその人を嫌うのです。第三者の扱いをするのです。皆さんは、どの責任者が悪いなどと言ってはいけません。「その責任者の前に私が私自体を輝かせ、私の実績を公正に表すことのできる良い機会ができた」と思いなさいというのです。その周囲にいる人は、すべて「私」を認定するというのです。

その責任者に能力があり、細かく指導してくれるなら、私にとって何の実績になるでしょうか。責任者が不足であることによって、「私」が輝ける良い機会になるというのです。ですから、不平を言う所に行って不平を言わず、後退する所に行って後退してはいけないというのです。私が出会った人の仕事を手伝ってあげ、祭祀を行ってあげ、花を挿してあげようという心をもちなさいというのです。そうすれば、いつでも主人になるのです。

 

21 皆さんが高い山に登れば、その周囲の人々が「早く早く救ってほしい」と言う声を聞くことができなければならず、霊界の先祖たちが「早く早く救ってほしい」と言う思いを盛じなければなりません。その中で責任を果たさなければならないのです。それが祭司長です。祭司長の資格証書をもって、自分の責任を果たさなければなりません。

いくら頭が痛くても「痛い」と言えず、いくら疲れていても「疲れた」と言えないのが祭司長です。神様が「休みなさい」と命令してこそ、休めるのです。責任を果たせなければ逆に蕩減を受け、病気になります。その道を避けていくために、自分で迫害を受ける道をつくって行くこともしなければなりません。祭司長は、食べることにおいても、一番下から上がっていかなければなりません。着ることにおいても、一番どん底から行かなければならないのです。すべてを復帰し、ていくのです。そうして国と一つとなり、民と一つとなることによって、上がっていくのです。悲惨なのです。そのような意味で、先生は迫害を受けることを有り難く思うときが多くあります。「私」の家庭と私たちの教会がすべき蕩減を、外部でこのように騒ぐことによって、外的蕩減としてすべて消耗させているのです。

 

22 責任者は、苦労しなければなりません。苦労するのは、蕩減条件を提示することになります。寝ずに祈り、精誠を捧げ、そのまま休まずに努力して外的蕩減をしてあげることによって、どのようになりますか。人を王のように侍るのも蕩減です。蕩減法です。その人がいくら悪くても、王のように侍ったとき、その精誠の心をその人が受け取れなければ、神様が受け取ってくださるのです。その人が統一教会を信じないで出ていけば、その人の善の先祖が積んだすべての福を、「私」が根こそぎ受け継ぐのです。恐ろしい作戦です。全体の福、万民の物を私が受け継ぐのです。収穫するのです。収めるというのです。

 

23 統一教会が教えるのは、「個人は家庭のために犠牲になりなさい」ということです。個人が家庭のために犠牲になれば、その家庭は自然に蕩減し、必ず福を受け、豊かに暮らせる位置に行くのです。犠牲になった人が中心になります。より犠牲になってすべての環境に利益をもたらした人は、必ず中心者になると同時に、責任者になるのです。

ですから、自分がうまくいくために、福を受けるために精誠を尽くすよりも、全体の中心、責任者になる福を受けるために精誠を尽くし、信仰の道に従うのが、天理と歴史が願う信仰の道であることをはっきりと知らなければなりません。それで、統一教会は、この原則によって「個人は家庭のために犠牲になりなさい」と言うのです。理由なく語っているのではありません。皆さんがそのように犠牲になれば、皆さんが家庭の中心存在となり、その家庭の福を継ぐときに、皆さんの息子、娘を通し、皆さんの家庭が福を分かち合うようになっているのです。そして、今後、氏族になれば、その家庭がその氏族を統治できる中心家庭、福の中心になるというのです。

 

食口のために精誠を尽くす生活

24 精誠をたくさん捧げる人が中心存在になります。天の祝福は、その人を通して現れます。アンテナが高ければ高いほど、世界に向かって遠く広がっていくのです。少しでも高ければ、世界のすべての電波に乗って越えていくのです。この電波に乗って、世界に行くというのです。それと同じです。そのため、精誠をたくさん捧げ、より投入して忘れる人にならなければなりません。それが、神様の創造の原則なので、より投入して忘れる人は、永遠の責任者になるというのです。

 

25 祈らなければなりません。人の前に精誠を尽くし、その次に神様のみ前に精誠を捧げるという二つの道があります。霊的指導者の生命力を連結させるには、神様と人間が連結される中間的立場にいるので、皆さんが精誠を捧げた割合に応じて、結果が変わります。神様と百の原因をもてば、それが皆さんを通して百の結果として現れます。神様と一つになることに比例して、食口が一つになるのです。先生と一つになることに比例して、食口が一つになります。

そのため、皆さんは生命線として、先生を思わざるを得ません。神様は無形な方なので、眠りながらも、道を歩きながらも、寝ても覚めても先生を思ってみなさいというのです。そうすれば霊界の門が開きます。妻子をすべて忘れてみなさいというのです。精誠を捧げる道が最も早い道なので、皆さん自身を中心として、食口にそのような現象が起こるようになっています。原因がそうなので、結果として現れるのです。

Luke Higuchi