天聖経: 第285話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第三節 教会長の精誠生活 7-15
7 天国とはどのような所であり、その構造はどのようになっているのでしょうか。簡単です。一言で結論を下せば、その世界はために生きた人が行く所です。自分のために生きた人が行く所ではありません。神様と人類のために生きて死んだ人だけが行く所です。
ここに、いくらよく信じる教会の指導者や信徒がいるとしても、いくら精誠を捧げた人がいるとしても、その精誠が神様と人類のための精誠でない限り、それを自分に帰結させる人は、結局、天国に入れないのです。しかし、自分のために生きるのではなく、本郷の道理のみ旨に従ってために生きる原則を手本とし、物心がつくときから他の人のために、神様のために生活し、自分のために死の道を行くのではなく、神様と人類のために死の道を行く人は、間違いなく天国に行くのです。
8 教会長であろうと、教域長であろうと、人を見ることができなければなりません。心霊を検討し、どのような状態にあるのかを知らなければなりません。ですから、最も大変な仕事が霊的指導者の仕事です。ですから、祈らなければなりません。向こう側の山に何があるかということが、祈れば浮かんでこなければなりません。ですから、精誠を捧げなければならないのです。食口の心霊状態がどうなのか、教会長が先にすべて分からなければなりません。精誠を捧げた人は、どのようなことが起こったのか、あらかじめすべて分かるのです。
9 皆、先生が教会を指導するとき、四百人が集まりました。人々の名前をずっと呼んでいくのです。そうすれば、すぐに分かります。そのとき、心霊の良い人は水平線の上に立ち、低い人は斜めに立ち、一番悪い人は逆さまに立っているのです。そのような霊的な体験を適してでも、天と音律が合わなければなりません。共鳴しなければなりません。コムンゴ(朝鮮の伝統弦楽器)の弦を弾けば、音律が合わなければならないのと同じように、天と共鳴しなければなりません。弦が少しだけ緩んでも、合わないのです。それでは和音になりません。ですから、よく合わせた共鳴の音が必要なのです。
10 天のみ前に精誠を捧げる人は、いい加減に扱うことができません。地方で、ある食口がりんごを一つ先生のところに持ってきたとしても、先生はむやみに手を出しません。精誠を込めた物に誤って手を出せば、赦しを受けられないのです。神様の一片丹心の心情と神様の最高の努力を無視すれば、天倫の前に容認されない罪人になるというのです。
他の人が精誠を込めた物をいい加減に扱ってはいけません。九十九ほどの精誠を込めた物であれば、百ほどの精誠を込めてこそ、それを扱う資格があるのです。例えば、ある集団の責任者が、精誠を込めた物を受け取り、天のみ前に連結させられなければ、その精誠を込めた人が多ければ多いほど早く滅びます。ですから、神霊的な集団は、自らの当代には栄華を極めるかもしれませんが、天道に外れることが多く、すぐに滅びるのです。
11 自分のために祈り、精誠を尽くしてくれる人が多ければ多いほど、その人は福を受けた人に違いありません。「私」一人のために精誠を尽くす人をたくさんもつためには、まず自分がもっているすべての福を多くの人に譲り渡してあげなければなりません。そのようにするまでは、多くの人が私に対して「福を受けなさい」と祈ることはないというのです。一人のために十人が精誠を尽くせば、その一人は神様が記憶せざるを得ません。そのように精誠を尽くす環境を収拾し、「お互いがお互いを新しい段階へと刺激することができる環境の基台を広げよう」と言って、一つの団体を構成したのが教会です。
12 教会の責任者は、自分のために精誠を捧げてはいけません。数多くの群れのために精誠を捧げなければなりません。その数多くの群れが行くべき所は、自分の家庭だけでなく、その国と世界までです。そのため、教会長の視線が自分の家庭と自分の教会の教会員にのみ、とどまっていてはいけません。その教会員を通して国と世界に向かう心をもち、神様に向かって、「私が捧げた精誠と教会員が捧げた精誠を合わせ、世界に進むことのできる道を築いてください」と言わなければなりません。このように教会長と教会員が一つになって授け受けすれば、そこには必ず神様が臨在されるのです。一つになって神様が臨在なさるときは、自分の教会の復興のためではなく、国の復真のために一つになるときです。
精誠と天の役事
13 民族復帰時代には、家庭復帰時代に捧げた精誠以上の精誠を捧げられる人が、統一教会の教会員の中にいなければ、責任をもった責任者が精誠を捧げなければなりません。そのようにしなければ、統一教会は民族的な運命を残し、その限界線を越えていくことができません。もし一人でもその限界線を越えて、神様の無限の生命力を投入するように自分の生命を投入し、すべての愛の心を投入すれば、統一教会はその人によって発展するでしょう。
しかし、そのような人がいないときは、停止したり、後退したりするでしょう。統一教会が発展するときには、必ずその背後に発展させる動機があるのです。すなわち、国家と民族を越えて世界まで統一教会を率いていくために、自分の生命力を投入する人がいるはずなのです。その人が誰かを知らなければなりません。生命力だけでなく、すべての愛を投入して犠牲になる人がいなければなりません。そのような人がいなければ、世界へと発展できる統一教会にはなれません。
これは原理的立場から見るとき、当然の道理なのです。
14 み旨の道に従ってきた皆さんは、自分の生命力と愛の力を、民族を越え、世界を越え、それ以上の位置まで投入しなければなりません。皆さんが投入する生命力と愛の力が、教会発展の行路を開拓する要因になるのです。地上の悲しい事情を抱き、ぶつかっていく統一教会の運命を抱いて身もだえする人々がいれば、彼らのためにあらゆる精誠を尽くし、感謝と称賛を捧げても足りません。
それにもかかわらず、自分を中心として批判し、自分と関係ないと言って無関係だと考えてしまえば、その人はそこで終わりだというのです。皆さんは、統一教会が発展する事実を見つめ、無限に感謝を感じると同時に自らの不足を感じ、「きょうはこうですが、私にも力を下さい」と言わなければなりません。秋の季節であれば秋の季節で終わらせ、冬の季節であれば冬の季節で終わらせるのではなく、自分の深い所に宿っている、あすの春の日を迎えていっぱいに咲く生命力と愛の力を探し出せなければ、皆さんの行く道は終わりだというのです。
15 宗教の責任者や指導者が地上で霊界の道を築く途中で失敗し、その道を越えられなくなったにもかかわらず、再びその道のために精誠を尽くしながら訪ねてくる人がいれば、神様はその人を保護されるのです。しかし、いつでもその人を保護されるのではありません。その人が先に歩んだ人々の失敗の境地に到達したときや、その場に入ったとき、そこで精誠を捧げれば、神様はその人が失敗圏内から抜け出してくることができるよう、背後で調整するのです。そうして神様の直接的な恩賜を受けられるように役事されるというのです。