天聖経: 第284話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第二節 教会長の公的生活38-41
第三節 教会長の精誠生活 1-6
主体的に活動する道
38 皆さん自ら、皆さんの過去と現在を中心として、過去が主体になっているか、現在が主体になっているかという問題を見極めなければなりません。過去と現在が、主体と対象の関係にならないときは、未来を希望の主体としなければなりません。しかし、未来の希望を中心として、それを主体として迎えられない中途半端な立場であれば、どのようにすべきでしょうか。過去を主体にし、現在を対象とするしかありません。ですから、信仰生活において、過去に受けた恵みをそのまま流してしまってはならないのです。
私たちは、信仰の道を歩みながら、我知らず気が緩む時期にぶつかります。そのようなときは、過去の信仰生活を一つの主体として、きょうの現実的環境をどのように収拾するかを考えなければなりません。過去の恵みある生活をしていたときに記録した日記を再び見たり、祈りの中で体験したものをもう一度回想したりしながら、そのときの心情をよみがえらせなければなりません。そうして、そのときにしたことを再び反復することによって、過去よりも刺激的な立場で決意しなければならないのです。
39 み旨の道を歩むときに、教会全体を代表した立場にいる生体、真理的な側面の主体がいます。もし、その主体と歩調を合わせられる相対的な関係を備えることができなければ、どのようになりますか。
自分の過去の生活と現在の生活を比較してみるとき、過去がきょうよりも良いとすれば、その過去の生活を現在の生活に再現させなければなりません。そのようにして、そのときにもった決意をどのようにもう一度自ら模索するか、そのとき感じていた心情をどのようにもう一度体恤するか、そのときに「私」が闘っていた環境をどのようにまた再現していくかということが問題になります。もしこれが自分自らの祈りの中で解決されなければ、行動の面においてでも解決できる道を探さなければなりません。
40 私たちは、このみ旨の道を歩みながらも、教会と隔離されやすいのです。教会と「私」の関孫を見るとき、教会の中にいる私ではなく、私自身を中心として教会活動をする場合があるというのです。教会全体を中心として、教会の中にいる私自身とはならずに、教会と隔離された立場にいる第三者の立場に立つようになれば、教会と距離が遠くなり、教会に対する関心がなくなります。刺激がないというのです。そのようになれば、教会と自分との関係がだんだんと希薄になります。教会生活がおろそかになる立場に陥るまいとしても、必ず陥らざるを得なくなるのです。
それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。教会全体を身代わりして主体的に活動しなければならず、その活動において皆さん自身が孤立してはいけません。孤立した立場に立たずに、主体と歩調を合わせていきなさいというのです。そのようにして共に歩調を合わせながら闘っていくとき、先頭に立った人々が感じ、採択し、意欲をもっている環境を推し量ることができます。そのようになれば、教会を代表して主体的な立場で動く人々の後ろについていくだけでなく、彼らよりも先立って出ていける立場にも立つようになるのです。
41 統一教会を中心として、何を教えなければなりませんか。先生と皆さんの関係を教えてあげるのです。その内的な関係を中心として、外的な関係に拡大させるためのモデルを形成するのです。それが絶対視される価値として確定されない限り、絶対的な相対圏は形成されません。これが教会生活において最も貴いのです。
それでは、統一教会では実際にどのように動くのでしょうか。先生と皆さんが感じる心情的なものが核心となり、相対的な世界に応用しなければなりません。先生自身はどのようにすべきでしょうか。神様に対して先生が感じたことを、皆さんに応用しなければなりません。それで、先生が知っていることを皆さんは知りませんが、皆さんが先生に対して感じたことは、皆さんのものとして理解するのです。
ですから、皆さん自身において信仰世界の心の門を開き、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。それが啓発される日には、それで終わるのではなく、それを相対的世界に適用させることができなければなりません。
第三節 教会長の精誠生活
1 皆さんは、食口が訪ねてきて帰れば、その人を思いながら夜を徹して祈り、灯油ランプの灯をつけて、あした話してあげる内容を準備しながら、朝日が昇ってくるまでその人が来るのをどれほど待ってみましたか。そのように待ってみてください。その人が来るようになっています。間違いなく来るのです。それは実現可能です。そうすれば、「いやあ、精誠とはこういうものなのだなあ!精誠が極まれば、神様を動かせるのだなあ!」ということを実感するのです。「誰々が来なければならない」と思い、精神統一をして三時間だけ祈れば、その人はそわそわし、我知らずに心が動くのです。「教会に行ってみよう」と、心が命ずるのです。そのようなことが可能だというのです。
2 精誠を捧げるときは、多くの人を挙げて捧げるより、一人一人を挙げながら精誠を捧げるのが良いのです。多くの人に対して精誠を捧げるのと、一人一人に対して精誠を捧げるのでは、はっきりとした違いがあります。東西南北が違うというのです。そのため、主体がいれば一つの対象を決定し、その対象を中心として線を引かなければなりません。そうしてこそ四方が描かれるのです。その四方が描かれるときまでは、対象と絶対的な関係をもたなければなりません。それでこそ丸い円が描けるのです。
天が記憶する指導者
3 人間がこの地上で暮らしながら神様に仕えるためには、必ず聖人の道理を基盤とした宗教を通さなければなりません。そして、今まで過去の数多くの宗教指導者が歩んだ道を、自分も当然行くべき道と思い、その道を願いながら歩もうと決意する人にならなければなりません。そうして、宗教を中心として、生まれては逝った数多くの宗教指導者と一つになれば、その宗教の世界に自然と位置が定まるのです。そのような基盤の上で祈れば、それは一つの宗教圏を越えられる立場に立つので、それだけ神様との距離を短縮させられるのです。
ですから、地上で宗教の道を探し求めていく人は、精誠を擁げなければなりません。人間の中には、精誠を尽くして宗教の道を訪ねていかなければならない人もいますが、善の先祖を多くもっていて、彼らが願ったものに向かってそのまままっすぐに行く人もいます。それでは、彼らが願ったものとは何でしょうか。彼らが追求するのは、宗教が追求する目的の世界なのです。
4 宗教の目的は、一人の真の人間を探すことであり、真の家庭と真の国家と真の世界を探すことです。これは宗教の目的であると同時に、神様の目的です。それがすなわち、神様が地に対して摂理する目的です。ですから、私たちが宗教指導者の精誠を尽くしたその土台の上に立てば、神様の目的圏内に自然と接することができる境地まで行くのです。
そのため、ある特定の宗教を信じる人がいるというとき、その人は、その宗教の最高指導者だけを信じるのではありません。その宗教に従った人々と、その宗教のために四方から精誠を捧げている指導者を信じるようになるのです。それだけでなく、その宗教が世界的な基盤をもっていれば、世界の数多くの指導者たちまで信じ、従っていこうとするのです。それは、霊界と宗教圏の距離を短縮させるためなのです。
5 終わりの日には、恵みを受けた一人の人だけを通じるのではなく、必ず何人かを比較してみて通じなければなりません。
高い内容をもった霊的指導者に会い、自らその段階を高めていく知恵深い方法を取らなければならないというのです。しかし、今日、地上に生きている信仰者たちは、このようなことを知らずにいます。そのため、信仰者は、総合的な観測、総合的な比較、総合的な分析をして、自分自身が最も早い道を探していかなければなりません。ですから、ある新しい道を行くときは、決してそのまま行ってはいけないのです。
6 いつも恩恵を受けようとしてはいけません。他の人が掘っておいた井戸から水をくんで飲むのではなく、その井戸の水脈に沿って新しい水の流れを探すために努力しなければなりません。これと同じように、自分を指導し、恩恵を与えてくれた指導者が限界点に到達したと思われるときは、その指導者が最も恵みを受けていたときに捧げたそれ以上の精誠を捧げてこそ、その道を越えることができるのです。しかし、今日、信仰者たちはこれを知らずにいます。