天聖経: 第283話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第二節 教会長の公的生活26-37
26 皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心として生活した全体を考えてみるとき、どちらが内的かというと、教会生活が内的です。皆さんは、どれほど内的生活の価値基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこのようにすることがみ旨になるだろう」と言いながら、自分勝手に考えます。そのようなところに神様はいらっしゃるでしょうか。
先生は今まで、このみ旨を立ててきながら、どこに最も重点を置いたのでしょうか。神様が臨在する所、すなわち神様が臨在できる基点はどこか、そこを中心としてどのように一体となるか、どのように同化するか、そこに神様が公認できる一体恤の基盤をどのように立てて内的に適応させるか、このようなことに最も重点を置いて今まで闘ってきたのです。
27 非信仰者は、家庭を中心として社会生活さえすればよいですが、信仰者は家庭を中心として社会生活だけでなく、教会生活も合わせてしなければなりません。非信仰者は、社会生活をしながら立身出世することを願います。しかし、信仰者は、社会生活をしながら立身出世することよりも、教会生活をもっと重要に思わなければなりません。それはカイン・アベルと同じ立場です。
外的な社会生活はカイン的であり、内的な教会生活はアベル的です。そのため、外的な社会生活は内的生活の象徴体にならなければなりません。対象になるべきです。外的な社会生活の中心となるのは、内的な教会生活です。内的な教会生活において、神様から公認を受けられる立場に立てない人は、外的な社会生活において神様の代身者としての生活ができないのです。このように、内的な教会生活において神様から公認を受けることが問題です。
28 ある人を見れば、教会生活は良くできるのに、社会生活はできないという人がいます。また社会生活は良くできるのですが、教会生活ができないという人もいます。社会生活は良くできても教会生活ができない人は、実を結ぶための要因と、その内容がありません。教会生活は良くできるけれども社会生活ができない人と、社会生活は良くできるけれども教会生活ができない人のうち、どちらがより良いでしょうか。社会生活が良くできる人より、教会生活が良くできる人のほうが良いのです。結実の要因を備えた人は、あすの希望をもって動いていけますが、結実の要因を備えられていない人は、結実と関係を結ぶことができません。
29 神様に侍っていく人として精誠を捧げるのは、生命線と同じです。水源地に水道のパイプを連結するのと同じなので、いつでも精誠を尽くさなければなりません。その上、教会に責任をもっている教会長は、少なくとも男性食口三人と女性食口三人と一つにならなければなりません。教会長を合わせた七人がいつも一心になっていなければ、教会が発展しないのです。三人と一つになるにおいては、自分の心に合う三人と一つになるのではいけません。自分と心がよく合う人、自分と一番心が合わない人、中間の人を中心としていつも一つになり、教会長であれば教会長のために精誠を尽くすように導かなければなりません。
30 教会長がどこかに巡回に行くとき、教会長が一人で行く立場になってはいけません。教会長が巡回に行くために、背後で祈ってくれる人がいなければなりません。さらには、先生が巡回する間、先生がどこに行くということを知り、先生が行く所に対して祈り、精誠を尽くせばどのようになるでしょうか。そこには必ず神様が共にいてくださるのです。
31 責任者は、必ず基地がなければなりません。基地を中心として機動活動をしなければならないのですが、その基地が機動活動をする所よりも常に強くなければ、発展しません。木を見れば、幹から枝が伸びていきます。幹は枝よりも大きいのです。同じように、教会長がいる基地は、必ず機動活動をする現地よりも常に強力な力の母体にならなければなりません。そのような土台をもてなければ、発展できません。
そのために教会長は、いつも三人の男性と三人の女性が教会のために一心同体となり、一つになって動けるようにすることが、教会の発展にこれ以上ない基盤となることを理解し、このような活動体制を強化していかなければなりません。そこで、一人が三人を中心として三位基台をつくっておけば、自動的に二十四人になるのです。三人が。三位基台を造成すれば自然に十二人になり、男性三人の三位基台と女性三人の三位基台を合わせれば、自然に二十四人になるというのです。
このように一つの主体を中心として、引き離そうにも引き離せない立場で束ねていかなければなりません。教会長自身がその人たちのためにどれほど精誠を尽くしてあげたかということが、その人たちが教会長のためにどれほど精誠を尽くしてくれるかを決定するのです。
32 真の指導者になろうとすれば、真の父母の心情をもち、自分が責任をもった舞台で内外の作戦を立て、その舞台を内外の作戦によって消化していかなければなりません。そのためには、様々な材料を収拾して研究し、他の人よりも眠らずにもっと努力しなければなりません。
その村の人々にどのような刺激を与え、その人々にプラスの要件をどのように残してあげるかによって、その村が引っ張られてくるか、引っ張られてこないかということが決定します。世話になるようでは、喜ぶ人はいません。先生もうれしくありません。その次に、内外に父母の責任をもった教会長、指導者はどのような指導者であり、責任をどのようにして果たすかということが問題です。またその次には、神様と関係をどのように結ぶかということが問題です。
33 精誠を捧げなければなりません。指導者として一日中、祈るためには、神様を慕わなければなりません。人を慕うことよりも、神様をもっと慕わなければなりません。欽慕と思慕の心情がいつも消えてはいけません。会いたいと思い、何か分からないけれどももどかしく、おなかをすかせた子女がお乳を飲みたいと思う気持ちのように、何か分からないけれども慕わしくなければなりません。そのようなとき、自分が霊的な糧を供給されるのです。
人知れずだというのです。世の中の栄華を忘れて天の道を築こうというのは栄光です。それは素晴らしいことなのです。
34 皆さんが心から人を慕わなければ、その人も絶対に「私」を慕いません。ですから、教会長は、いつも早く起きて門を開けて人を待ち、四時を越えて鶏の鳴き声を聞かなければなりません。自分が起きるよりも先に鶏が鳴けば、「私より鶏が先に起きて鳴くのだなあ、この鶏め!」と、文句の一つでも言ってみなければなりません。そのようにしなければ、食口が早朝に起きることもなく、皆さんを先生として、または自分の指導者として慕うこともなく、祈ることもないというのです。動機がないのに、結果が現れるという道理はありません。
35 誠を尽くして建てた塔は倒れません。問題はここにあります。先生は、人をどれほど慕ったでしょうか。それは説明しても、皆さんは理解できないでしょう。皆さんはどれほど慕ってみましたか。神様の息子、娘をどれほど慕いましたか。希望の家庭をどれほど慕い、希望の民族をどれほど慕いましたか。希望の国家、希望の世界をどれほど慕いましたか。皆さんはそれを知りません。そのためには、お金が問題ではありません。乞食のまねをするとしても、人を慕えばそれが栄光だというのです。世の中の栄華を忘れて天の道を築こうというのは栄光です。それは素晴らしいことなのです。
36 おなかをすかせた人に御飯をあげるのは、人間の道理です。もらってきた御飯でも、分けて食べるのが人間の道理だというのです。米びつの中に米がありながら、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらい食いする」と言って文句を言えば、その家は長く統かないのです。ただで御飯をたくさん食べさせるだけではいけません。ただで御飯を食べさせると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげなければなりません。それが福を受けるのです。ただで御飯をたくさん食べさせてあげると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげる人、そのような人は誰も嫌いません。
37 教会に新しく入ってきた人を、一番初めに迎えてあげる人が福を受けます。その人が、自ら信仰生活ができるようになるまで、侍ってあげながら完全に定着できるようにしてあげれば、その人と共に栄光の場に参与するのです。このような関係を十人以上と結んだ人が、もし死地に入っていくようになったときは、関連のあるその人々によって、解放される特権をもつのです。福はここから受けられるのです。そのため、訪ねてくる客をよくもてなしなさいというのです。