天聖経: 第282話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第二節 教会長の公的生活 14-25
14 精誠を捧げながら稼いだお金をどろぼうし、それを当然自分がもらうべきお金としてもらおうと考えれば、罰を受けるようになります。精誠を込めた物は、毒薬より恐ろしいのです。おなかをすかせ、やせ細りながら涙を流して集めた物は、それ以上の心をもって接しなければ、その物に引っ掛かってしまうのです。子孫が罰を受けるようになります。天のみ前に精誠を捧げたお金を消化できる善の基準になっていないので、それが病気になるのです。子孫を苦しめるというのです。それで、公全が貴いのです。世界的にそうです。
復興師の息子、娘や、有名になった宗教指導者の子孫が悪くなるのは、そのような負債を負ったからです。先生はそれを知っています。ですから、献金を持ってくれば、先生の手で受け取りません。先生には分からないようにして、そのお金は公的な所に回して使いなさいというのです。そのお金をもらわなくても生きていけます。その代わり、受け取るときは神様の名で受け取るのです。「このお金は公金として使います」と言って受け取ります。私的には一銭も手をつけないのです。
15 公的な人は恐ろしいのです。いい加減に生きられません。話をするにしても一般の牧会者が一時間するなら、先生は十分でも長くしなければなりません。山の頂上に登るとしても、一歩でも多く動いてこそ、条件に引つ掛からないのです。ですから、かわいそうな生活をしました。安心して暮らす生活ができないのです。そのように先生が注意して生きた分だけ、天も注意深く先生を扱い、すべての天運が注意深く先生を扱うのです。
16 教会の責任者は、目から涙が乾いてはいけません。世の中で本当にかわいそうな人が教会の責任者です。いつも悲しみを抱いて歩く人が教会の責任者です。神様の心情を思い、復帰摂理の時を思えば、神様がかわいそうだと感じられるときが多いのです。
どのようなことをして復帰の道を行かねばならないかと考え、先生がこうだから、このような道を行かざるを得ないと考えるとき、言葉を失い、喉が詰まり、胸が張り裂ける悲しみを感じるときが多いのです。卒倒するほどの感覚が未るときも多くあります。このような心情がなければ、神様のための、神様の仕事をする人にはなれないのです。先生は、村のどこかに行く途中で悪いものを目にすれば、「今は私がそのまま通り過ぎるが、今度また会おう。私の手できれいに片づけてしまおう」と考える人です。
17 祈りをたくさんしなければなりません。祈りをしなければ、神様の同情を得ることができません。神様の助けを受けられないというのです。自分を中心としては、同情を得られる背景がないからです。それで悲しいのです。神様が同情できる人になれば、寂しくありません。絶対に寂しくありません。
冷たい部屋に横たわっても、真冬の氷の塊のような部崖に横たわっても、自分がかわいそうではないのです。そのため、イエス様も祈りをたくさんしたのではないでしょうか。祈る時間がなければ、歩き回りながら祈りなさいというのです。祈る代わりに伝道しなさいというのです。自分の一日の祈りに代えて、伝道しなさいというのです。
18 指導者とは、与える人です。受ける人ではありません。与えるのですが、同じものを与えてはいけません。新しいものを与えなければなりません。説教をしようとすれば、難しいでしょう。原理のみ言はそのまますればいいのですが、説教は大変なのです。それは、同じものを与えてはいけないからです。父母が愛する子女に、あれこれと良い物を選んで食べさせなければならないのと同じように、同じものを与えてはいけません。与えるものがなければ、神様からもらわなければなりません。神様からもらったものを、食口に食べさせなければならないのです。神様と一緒に、相談もしなければなりません。
19 皆さんは、明らかに神様を代身です。自分が祈りながらも、何を祈るのかも分からないまま祈るときがあるのです。そのようなときは祈りながら、自分が祈る言葉に自分で感動するのです。そのような境地で祈れば、聴衆はすべて神様のみ前に引きつけられ、「神様が生命の原動力であり、本体だ」ということを体得するのです。そのような体験をするとき、神様が絶対に必要だということを感じるようになります。このような事情を連結させて、聴衆を魅了させるためには、祈りが絶対に必要です。
20 責任をもった人は、驕慢になってはいけません。責任者は父母にならなければなりません。神様の代身者にならなければなりません。夜も昼も、誰よりも努力し、涙ぐむ心情を抱いて、彼らの霊的、肉的、内外のすべての道を解決してあげられる責任を担わなければなりません。相談相手はもちろんのこと、心情の主体になって、彼らを父母以上に愛することのできる運動を提示しなければ、責任者としての役割を果たしたと見ることはできません。
より大きなもののために生きる道
21 皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会は何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので教会が必要なのです。家庭と社会で終わるのではありません。
人格を復帰するときには。ただそのままではできません。大学を出て博士学位をもらったからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要なのです。先生を中心として新しい父母を求め、新しい子女となって家庭から新たに収拾していきながら、新しい世界に向かっていかなければなりません。行くに当たって、足場となるのが教会です。教会を足場としなければ、行けないのです。新しい家庭も教会を通して出てくるのであり、新しい社会も教会を通して出てくるのです。
22 人が正しいというとき、何を見て正しいというのでしょうか。人心が天心に根を置いているとき、正しいというのです。そのような位置に立たなければなりません。そのため教会を通し、人心が中心を決定する場であらゆる精誠を尽くさなければなりません。ここには、自分のすべての誠心誠意を尽くさなければなりません。家庭よりも、学校よりも、自分の出世のためよりも、精誠をもっと捧げなければならないのです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主、なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言ったのです。神様を愛するのですが、精誠を尽くし、思いを尽くし、心を尽くす立場で愛しなさいというのです。
23 教会がある目的は、国を救うためです。しかし、キリスト教はこれを知らずにいます。キリスト教では、「教会がある目的は天国に行くためだ」と言います。それも、自分個人が中心です。それで結局、アメリカのような個人主義の国をつくり上げたのです。このような世の中を開拓しようというのが統一教会です。
統一教会の教会員が伝道するのは、統一教会を発展させるためではありません。国を発展させるためです。国の中にとどまっている宗教ではいけません。イスラエルの国を救うことのできる主導的な役割を失ったので、ユダヤ教が衰退したのです。国のために生きようというのが、統一教会の方針です。
24 教会が行くべき目的は、神様の国を探し立てることです。教会を探し立てるのが目的ではなく、神様の本来の創遺理想は、国を中心として世界を一つの世界にすることなので、教会が行くべき目的地は、その国を探し出すことです。そうだとすれば、国を探し出すために、国を探すにおいての必要条件は何でしょうか。カインとアベルが一つになることです。カインとアベルが一つにならなければ、国を探し出すことができません。
25 皆さんは、祝福家庭の使命が大きいことを知らなければなりません。自分の息子、娘に影響を及ぼせる父母になるべきです。これが第一の使命です。そのためには、教会生活や公的生活を徹底しなければならず、私的生活において模範にならなければなりません。これは、今後、子女がみ旨の道を歩めるよう教育するために、絶対的に必要です。