天聖経: 第281話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ
第三章 教会長の道
第二節 教会長の公的生活 4-13
4 今日の堕落した世の中で交わす直搬的な関係の愛と、神様を中心とした間接的な関係の愛のうち、どちらが高くなければなりませんか。世の中を中心とした直接的愛より、神様を中心とする間接的な愛によって立てられた私たちの基準が低くてはいけません。もし低いというときは、高めなければならないのです。ですから、このような関係が広がるようになれば、誰もがこの場を慕わざるを得ず、この関係を尊重せざるを得ないのです。
それでは、ここで私たちは何をすべきであり、何を学ぶべきでしょうか。人類を愛する方法を学ばなければなりません。今日、私たちは、この世的に見れば天との縁もなく、関係を結んでいないかのように見えるかもしれませんが、神様を中心として絆が結ばれた私たちとしては、神様が人類を愛したいと思うその愛を実現させなければならないのです。
5 皆さん自身が、食口という名のもとで互いを愛するその愛が、民族を愛する以上の愛にならなければならず、さらには世界を愛する以上の愛にならなければなりません。世界的な愛の土台と環境を築く立場で愛さなければならないという意味です。
このような点で、皆さんが一食口の生命をどれほど尊重するかが重要です。食口一人をどれほど貴く思うかが問題です。堕落した世の中でも、困難なことがあるときは、自分のすべてのものを捧げて協助するのに、私たちがそれ以上の関係に発展しないとすれば、今後、堕落した世の中に吸収されてしまうでしょう。神様が何よりも願う人間との関係を、広げる足場になれないというのです。
6 教会の責任者は、はっきりとした思想が立っていなければなりません。そうでなければ、全体に及ぼす影響が大きいのです。企業体や教会に責任をもった人々は、いつでも公的な心、すなわち愛の心をもって、神様が立てた関係の中で愛することができなければなりません。公的法度に従って、自分に尽くすように食口のために尽くさなければなりません。また責任者の立場で、自分が自らを認める以上に、自分に属したすべての人を愛さなければなりません。その基準が今日、サタン世界のどのような関係よりも高くなければならないのです。そのようにならなければ、私たちが願う天国は成し遂げられません。
7 教会に三回だけでも来なくなれば問題が生じ始めます。一週間来ないで、二週間来ないで、三週間続けて来なければ、よそよそしくなってしまいます。心の中の思いを言えず、うそを言うようになります。このようなことが繰り返されれば、教会からだんだんと遠ざかり、そのうちに完全に離れていくのです。このように、伝道はしましたが、その後の収拾方法において欠如した活動体制を備えてきたため、多くの人を犠牲にしました。ですから、原理講義をして関係を結ぶことよりも、関係を結んだ人が実を結ぶようにするのが、私たちの責任です。
8 公的な責任者は、どのような立場に立つべきかという問題が重要です。天は最高の位置です。イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いましたが、これはイエス様が最高の位置について語ったのです。このような最高の位置で愛そうとし、関係を結ぼうとするのが天です。
それでは、皆さん自身が多くの人の前で神様を紹介しようと進み出るとき、どのようにしなければなりませんか。まず皆さんが人に接するとき、機嫌が悪くてはいけません。その人の身なりは特別立派なわけでもなく、特別ひどいわけでもなく、普通なのですが、不思議と「私の兄、姉のようだ」と感じるときがあり、その人が横に振り返るのを見れば、「どこかで見た人だ」という気持ちになるときが時々あるでしょう。このような人は、間違いなく縁のある人です。
9 皆さんが伝道をするとき、どれほど生命を重要視しながらしてみたか、ということを反省しなければなりません。医者には、自分がどこか痛くても、体の悪い人が訪問してくれば、その人のために治してあげなければならない責任があるのです。もし、その病気が「私」にしか治せないとすれば、そして手術をしなければならないのであれば、メスを執り、自分の痛みを忘れて、何時間でもその人のために自分の医術を投入するのが、医者の道理です。
そのような医者は、医者の中の真の医者だと言えます。もし、手術を終えるやいなやその医者が死んだとすれば、その医者は、医者として真の生涯を終えた人だと言えるのです。もしそのようにして病気が治った人がいるならば、その人は一生の間、その恩徳を忘れることができず、その事実を遺言にしてまで、自分の子孫に残そうとするでしょう。
10 時代の責任者は、自分が優れていると考えてはいけません。多くの先祖の功績と犠牲の代価によって、その場にいるという事実を知らなければなりません。自分が優れていて、自分が堂々としているからと言って多くの人のものを手にするのではなく、より大衆のために歩むことができる主権者の姿勢をもたなければなりません。党を中心とした国家ではなく、国家を中心とした党でなければなりません。
統一教会は、統一教会を中心とするのではなく、国家を救うための統一教会なのです。世界を自分のものにするための統一教会ではなく、世界を生かすための統一教会にならなければなりません。このようになるときは、いつも天が共にあるのです。ですから、責任者たちは、この伝統を理解して仕事をしなければなりません。責任者になった人たちは、自分が優れていてこの位置に上がってきたと考えてはいけないというのです。
11 人間が生きる世界には、法がなければなりません。法を中心としてすべてのものが左右に分かれるのです。それと同様に、神様を中心としたこの宇宙は、何の法を中心として分かれるのでしょうか。公義の法です。公的な法です。公義の法を中心として、善か悪かという問題が分かれます。
一つの家庭を中心として見てみれば、家庭にも法があります。その家庭の公的な基準を中心として、公と私を分別していくのです。家庭においてもやはり、家庭の公義の法、公的な法を中心として、良いか、悪いかという問題をえり分けます。父母は、その家庭のすべての公的な法を司る責任者です。その家庭が進むべきその法に背くことを行うのではなく、背いたすべてのものを処理できる責任を背負っているのです。そのため父母が誤れば、その家庭は全体が引っ掛かっていきます。社会においても、会社なら会社、団体なら団体でも同じことです。そこには、必ず法があるのですが、その責任者を中心として公的か、私的か、もしくは善か、悪かという問題が連結されていくのです。
12 責任者は、どこまでも公的な責任、その部署に対する全体の責任をもち、法を立てて進むことができ、法の代表となって、法の標準に合わせて実践できる主体となり、その団体の人々が善の道に行くか、悪の道に行くかということを選別してあげなければなりません。国も同じです。国の主権者がいれば、その主権者は、その国の公的な法を中心として、法のすべての責任をもった主体者として、行動面やすべての面において内外に完全に備えなければなりません。それで、法で治めることのできる責任者の立場で、公義の法度を立てるために責任を果たし、任せられた責任を遂行できるように国民全体の前に影響を及ぼせる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、公的な法を中心として見るとき、その主権者は国家全体を代表できる主権者になれないというのです。
13 世界は、必ず公法に従い、中心者と共に、その中心者の公的な理念と共に、一つになれる道に従っています。単に人間世界と宇宙だけでなく、天の国もやはり、同じ法に従っていくというのです。そのため、神様御自身がいくら公的な立場に立っているとしても、思いどおりにはできません。法を立てたのであれば、その法を中心として、その法の目的を達成できる公的な義務と責任を果たすことによって、自分の位置が強固になるのです。
公的なそのすべての法を無視して一体にならない立場では、神様の権限を行使できません。それは、家庭の法でも、社会の法でも、国家の法でも同じです。